それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、
神の栄光をほめたたえるためです。(エペソ1:12)
1、どんな時、神をたたえたのか
パウロはエペソ人への手紙1章で神をたたえています。どんな状況の時に神を賛美したのでしょうか。
パウロ個人の事情を言うと、裁判を受けるためにローマで拘置されている身で、手や足には鎖がつながれ(エペソ6:20)、裁判がいつ行われるかも見当がつきませんが、その中で賛美しました。
若い頃は、各地を訪ねて福音を伝える生活をしていましたが、今は、歳を重ね、行動も制限され、何もできません。たくさんの奇跡を体験したパウロですが、今では過去の歴史になってしまいました。その中でも神の栄光をたたえています。
パウロはいつも口実筆記で手紙を書いていました。パウロが語り、弟子の誰かが手紙に書くのです。宛先の人々を頭に思い浮かべながらパウロは語り始めますが、いつの間にか相手のために祈ることもありますし、途中で礼拝する事もありました。エペソ1章も、おそらくそのようにして書かれたのでしょう。
賛美は私たちの背筋をピンと伸ばしてくれます。神をたたえますと言うと不平は消えてしまいます。パウロは何よりもまず、神をたたえました。辛い境遇でも、八方ふさがりでも、活動ができなくても、先が見えなくても、神の真実と愛と恵みは変わりないと確認し、力強く神の栄光をたたえました。これがパウロの日常でした。
2、どうして賛美を強調するの
3~14節の長い文章の中で、パウロは何度も神を賛美しています。
「主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。」(3節)
「恵みの栄光がほめたたえられるためです。」(6節)
「神の栄光をほめたたえるためです。」(12節)
「神の栄光がほめたたえられるためです。」(14節)
パウロは、神から頂いた驚くばかりの霊的祝福を列挙してきましたが、それが神をたたえる理由の第一です。
主の栄光をたたえる第二の理由は、前からキリストに望みを置いていたからです。ここでパウロは「私たち」と言いました。それはユダヤ人のことです。13節では「あなたがた」と呼びかけて区別しましたが、それはユダヤ人から見た外国人の事であり、エペソの人々もそれに当たります。
ユダヤ人のシメオンは、「主のキリストを見るまでは決して死を見ることはないと、聖霊によって告げられていた」(ルカ2:26)人で、神殿で赤ちゃんのイエスさまに出会ったときには感動で震えていました。ユダヤ人は皆、旧約聖書で預言された救い主(キリスト)を待ち望んでいたので、イエスさまが救い主だと分かった喜びは外国人には分からないほど深いものでした。それゆえに、なお一層力をこめて神をたたえることができたのです。
抽象的で分かりにくいエペソ1章ですが、パウロが手紙を書いていることを忘れてしまうほど普段通りに神を礼拝しているのだとすれば、パウロの隣りの席で礼拝しているようで私は嬉しくなります。パウロは、福音を伝える伝道者であり、みことばを教える教師でしたが、何よりも第一に礼拝者だったのです。
パウロはプレイズソングを作詞作曲する人に似ています。エペソ1章を韻をそろえた歌詞にして、メロディーを付ければ歌えます。また、パウロは会衆の前に立つ賛美リーダーと言っても良いでしょう。「神は私たちを選び、子にしようとしてくれた、さあ賛美しよう。神は私たちの罪を赦し、大きな恵みを注がれた。さあ、神の栄光をたたえよう。もう一度、繰り返しの部分を歌おう、神の栄光をたたえよう」という感じです。
「あなたがたは代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現わしなさい。」(第一コリント6:20)
どんな状況であっても、まず神を見上げ神をたたえましょう。八方ふさがりでも、神からの霊的祝福に変わりはありません。主の栄光をたたえましょう。普段から自然に神を賛美する人になりたいですね。
あなたの番です
□主イエスは、私たちが待ち望んだ救い主
□生活の中で、まず主をたたえよう
□あなたは何をして神の栄光をたたえますか