2022年7月24日日曜日

エペソ1:21

すべての支配、権威、権力、主権の上に、
また、今の世だけでなく、次に来る世においても、

となえられるすべての名の上に置かれました。

(エペソ1:21)

 神学用語で「謙卑」と「高挙」という言葉があります。
 主イエスが神の栄光を捨てて人となり十字架の死に至るまで従順であられた姿を「謙卑」と言います。父なる神が主イエスをよみがえらせ、高く引き上げ、すべてのものの上に置かれたことを「高挙」と呼びます。今日の聖句は、主イエスの高挙について書いてあります。以下の聖句は謙卑と高挙の全体像を最も適格に説明している箇所です。
 

キリストは、神の御姿であられるのに、
神としてのあり方を捨てられないとは考えず、

ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、

人間と同じようになられました。

人としての姿をもって現れ、

自らを低くして、死にまで、

それも十字架の死にまで従われました。

それゆえ神は、この方を高く上げて、
すべての名にまさる名を与えられました。

それは、イエスの名によって、

天にあるもの、地にあるもの、

地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、

すべての舌が

「イエス・キリストは主です」と告白して、

父なる神に栄光を帰するためです。
(ピリピ2:6~11)
 

主イエスは自発的に神の栄光をお捨てになりました。公生涯においては、律法学者たちに、大酒飲みの食いしん坊、罪人の仲間、悪霊につかれ、気が狂っていると悪口を言われました。無実の罪で捕らえられ、暴力を受け、つばをかけられ、衣服をはぎ取られて十字架につけられました。人々は主イエスを見捨てました。主イエスは、苦しみと、あざけりと、人としての最低レベルに下ることを選ばれました。

この苦しみと忍耐と謙虚な歩みのゆえに、父なる神は主イエスを死からよみがえらせ、すべての名の上に高く引き上げました。

21節にある「支配、権威、権力、主権」という表現は政治用語のように見えますが、違います。目に見えないけれども強い悪の力がこの世界に働いていることをこの言葉で説明しています。その国の領土に入ったらその国の法律に支配され、権威の前では自由が奪われるように、この世に暗躍する悪い霊は人を支配し悪を行わせようと強い圧力をかけてきます。

主イエスの救いとは、死の支配からの解放であり(ローマ6:9)、罪の支配からの解放(ローマ6:14)なのです。「闇から光に、サタンの支配から神に」(使徒26:18)立ち返らせてくれるのです。
 「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。」(第一コリント15:24)

 主イエスは復活され神の右に着きすべての名の上に置かれました。ですから、主イエスに立ち向かえるものは何一つないのです。どんな悪の力も主イエスにかないません。
 「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」(ローマ8:39)

 ペテロは、キリストの謙卑と高挙を私たちの人生にあてはめるように教えました。栄光を捨ててへりくだる人生を選んで行くならば、ちょうど良い時に神が必ずあなたを高く引き上げて下さる。その最中の思い煩いは神にすべて委ねるようにと述べました。

「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(第一ペテロ5:6~7)

□すべての名の上に立たれた主イエスを賛美しましょう
□主イエスは罪と死と悪の支配から解放して下さいました

□思い煩いを委ね、キリストの足跡をたどって謙虚に歩もう

2022年7月17日日曜日

使徒1:20

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、
キリストを死者の中からよみがえらせ、

天上でご自分の右の座に着かせて(エペソ1:20)

 父なる神は、大能の力を主イエスのうちに集中されました。その結果、主イエスは死からよみがえり、神の右の座に着かれました。

 主イエスが十字架で息を引き取った後、ローマ兵が槍で突いたので心臓は破れ蘇生の可能性も絶たれました。アリマタヤのヨセフは遺体となった主イエスに亜麻布を巻き、彼の墓に納めました。金曜と土曜が過ぎ、日曜になると、主イエスは健康な肉体で弟子たちの前に現れました。これが主イエスに働いた神の大能の力です。

その後、主イエスは40日間たびたび弟子たちに現れて神の国について語られました。そして、オリーブ山から天に昇っていかれました。(使徒1:3、1:9)礼拝の時に唱える使徒信条で、「天にのぼり、全能の神の右に座したまえり」と私たちも信仰告白しています。主イエスは悲惨な十字架から神の栄光の位に引き上げられました。ここにも、父なる神の大能の力が働いています。

主イエスは、現在、神の右の座におれます。王の右に座るという表現にどんな意味があるのでしょう。王が何かを決定すると、王の右手側にいる首相などの実務執行者が王の言葉を実行していきます。王の右に座すとは、王から最高権限を委譲された人を指します。ヨセフもエジプト王の右に座す者でした。主イエスは、父なる神の栄光と力をすべて身に帯びて神の右に座しておられます。

 ガリラヤ伝道の時のイエスさまや十字架と復活の時のイエスさまは私たちの意識に深く残っています。けれども、神の右に座す主イエスの姿は、私たちにとってはあまりなじみがありません。

 実は、大祭司らから尋問された時に、はっきりと主イエスはこう語っておられました。
「今から後、人の子は力ある神の右の座に着きます。」(ルカ22:69)

主イエスが神の右に着座されたのは、私たちの罪の赦しが完了した証拠です。
「御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座につかれました。」(ヘブル1:3)

私たちに聖霊が注がれたのは、主イエスが神の右に座られたゆえにできたことでした。
「ですから、神の右に上げられたイエスが、約束された聖霊を御父から受けて、今あなたがたが目にし、耳にしている聖霊を注いで下さったのです。」(使徒2:33)

一般的に、大きな権威や栄光を得た人は、その力を自分の欲望達成に使う場合が多くあります。主イエスは最高権力と神の栄光を所持されていても、地上におられた時と同じように謙虚で、思いやりある態度をお持ちです。

では、主イエスは現在、神の右におられて何をしておられるのでしょう。父なる神から委任を受けた働きをされながら、とりなしの祈りをされています。
「よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、しかも私たちのために、とりなしていてくださるのです。」(ローマ8:34)

主イエスは、私たち弱い者のために祈り、私たちの必要を父なる神に告げ、私たちを応援し、私たちに大能の力を付与しようとしておられるのです。

初代教会のリーダーの一人ですぐれた伝道者であったステパノは、その活動のゆえに逮捕され最高法院で裁判を受けました。
「聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、『見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。』と言った。」(使徒7:55~56)

ステパノはこの直後、石打の刑で殺されました。神の右に座しておられるはずのイエスさまが立ち上がっておられます。ステパノは主イエスと視線が合ったのかもしれません。主イエスは座っていられず立ち上がって応援しておられたのかもしれません。まもなく殉教の死に至るステパノを天に迎えようと、身を乗り出し、手を伸ばし、だきしめようとして立っておられるように私には見えます。

□主イエスは、大能の力により、よみがえり、父なる神の右に座しておられる
 □今も主イエスは、弱く小さな私たちを応援し、とりなして下さっている

2022年7月10日日曜日

エペソ1:19

また、神の大能の力の働きによって
私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、
どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。
(エペソ1:19)

 

 パウロはとりなしの祈りを17節から始めました。エペソの人々がもっと神を知ることができるように、そうすれば信仰が強くなります。心の目が開かれて大きな眺望が持てますように、そうすれば未来に希望が持てます。

そして今回の19節では、信じる者に働く神の偉大な力を知ることができるようにとパウロは祈りました。なぜ、この事が大切なのでしょう。

それは、偉大な力は神だけのもので私とは縁がないと思い込んでいる人がいるからです。世界を創造された神の比類なき力を理解し信じていても、神の力と私の間に深い断絶があると感じている人が多いのです。自分は弱い。小さい。取柄が無い。勇気がない。才能もない。悩みの出口もない。こんな自分に、神の偉大な力が働くとは思えないと考えてしまうのです。

 

 主イエスが言われたことを思い出して下さい。

「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見出します。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)

「できるならと言うのですか、信じる者には、どんなことでもできるのです。」(マルコ9:23)

神のすぐれた力と私たちの間に断絶はないという事を分からせるために、主イエスは言われたのです。神の力は、「私たち信じる者に働く」のです。神のすぐれた力は、小さな者、弱い者の中にこそ力強く現れるのです。

あなたには今、どんな力が必要ですか。

苦しさに耐える力。新しい事にチャレンジする力。笑われてもやり通す力。やり直す力。お金がなくても感謝を見つける力。苦手な人と向き合う力。赦す力。愛す力。支える力。始めた事を投げ出さない力。未来を信じる力。みことばを深く理解する力。教会に仕える力。誰かをサポートする力。病に負けない力。福音を語る力。

あなたが今必要な力を、神に大胆に祈り求めましょう。

 

士師記6章に登場するギデオンも自分と神との間に断絶を感じていた人でした。

「『主は私たちをエジプトから上らせたではないかと』言って、先祖が伝えたあの驚くべきみわざはみな、どこにあるのですか。」(士師記6:13)

主はギデオンのこの言葉を聞いて言われました。「行け。あなたのその力で」(士師記6:14)その力で行けという意味は、神の優れた力を体験するためには、自分の中に隠されている賜物や潜在能力に気づき、神に信頼してそれを用いることだと教えてくれます。「その力」で一歩前に進み始めると、神のすぐれた力が私たちに臨むのです。何万人という侵略者ミディアン人をわずか300人の兵士で打ち破ったギデオンの戦いを見ると、神のすぐれた力が注がれたことが分かります。

 

さあ、あなたの番です。

「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」を信じて、目の前の壁を突破しましょう。また、あなたの身近な人が神のすぐれた力を体験できるように、とりなしの祈りをしましょう。

 「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」(ピリピ4:13)

 □私たち信じる者に、神の偉大な力が働く
 □主よ、あなたの力を注いでください

 □主よ、あの人にあなたの力をあらわして下さい

2022年7月3日日曜日

エペソ1:18

また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、
神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、

聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、(エペソ1:18)

 パウロはエペソの人々のためにとりなしの祈りを始めました。17節では、神をもっと知ることができるようにと祈りました。次に18節で、心の目がはっきり見えるようにと祈りました。

 私たちの普段のとりなしの祈りと比べてみて下さい。どこが違いますか。

私たちは、あの人の病気が癒されますようにと祈ります。あの人が直面している人間関係のトラブルが解決しますようにと祈ります。お金を与えて下さい。入学試験に合格しますように。願いがかないますようにと具体的な事を祈ります。パウロも、私たちと同じようなとりなしの祈りを何度もしています。でも、今回は、とても大きな視点で祈っています。枝葉の祈りでなく、本質を突いた祈りです。

 18節を手がかりに考えると、心の目とは私たちの未来に関する視点だと分かります。心の目が開かれると、希望が与えられ、私たちが受け継ぐはずの神からの資産とそれに伴う栄光が見えてくるのです。パウロは、これらのものが見えていました。

私たちが犯した罪が十字架で赦されたことを私たちは知っています。それは、私たちの過去に関する恵みと言っても良いでしょう。私たちが召されて救われたのは、その過去の恵みを受けるためだけではありません。神は私たちに将来の祝福と栄光をはっきりと示し、それによって現在を希望を持って生きられるようにして下さいました。以下の聖句も、私たちが召されたのは将来の御国と栄光にあずからせるためだと教えてくれます。

「ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神」(第一テサロニケ2:12)  
 「そのために神は、私たちの福音によってあなたがたを召し、私たちの主イエス・キリストの栄光にあずからせてくださいました。」(第二テサロニケ2:14)

今日の聖句は、私たちの人生という連続ドラマの最終回がハッピーエンドだと教えてくれる予告編なのです。だから、辛い時でも希望を持てるのです。日々の苦労が報いられる日が来るのです。

私たちの将来にはどんな事が待ち受けているのでしょう。罪と失敗の多い私たちですが、聖霊によってきよめれ、キリストに似た者にされます。主イエスがこの地上に再臨されます。私たちが死んだ後には復活の体が与えられます。神の国が目に見える形で到来します。

心の目が開かれることを祈り求めましょう。身近な人の心の目が開くようにとりなしの祈りをしましょう。

心の目が開かれるとスケールの大きな視野が与えられます。あなたの仕事と人生とその将来を大きく考えてみましょう。あなたに与えられた賜物の用い方を長い人生というスパンで考えてみましょう。教会の将来像を神の視点で大きく見直してみましょう。あなたの視点を大きく広げましょう。

靴職人だったイギリスの若者は、「神に大いなることを期待せよ。神のために大いなることを企てよ。」と言って、インドに出かけ、インドの複数の言語に聖書を翻訳しました。この人は有名な宣教師ウイリアム・ケアリです。

預言者エリシャを抹殺するためにアラムの大軍が彼の家を包囲したことがありました。エリシャに仕える若者はその兵士たちを見て恐れ惑いました。そこでエリシャは彼のために<目が開くように>と祈りました。「エリシャは祈って主に願った。『どうか、彼の目を開いて、見えるようにしてください』」(第二列王記6:17)すると若者の目は開かれ、アラム軍の背後の山を覆う天の軍勢が見えたのでした。

主よ、私の目を開いて下さい。私の身近な人の目も見えるようにして下さい。

□心の目が開くようにと、身近な人のため祈りましょう
□将来の展望が大きく開けますように

□希望を持ち続けられますように

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...