2022年8月28日日曜日

創世記37:5~11

 ヨセフはある晩夢を見ました。テレビも映画もYoutubeもない時代です、夢は最も脳裏に残る映像でした。忘れられないほどリアルで不思議な夢だったのです。

見ると、私たちは畑で束を作っていました。すると突然、私の束が起き上がり、まっすぐに立ちました。そしてなんと、兄さんたちの束が周りに来て、私の束を伏し拝んだのです。」(創世記37:5~8)

兄弟そろって畑で作業して収穫物を束にしていた夢でした。突然、ヨセフの束が自分で立ち上がり、兄たちの束が周囲を取り囲みヨセフの束にひれ伏したのです。

いつも冷たく意地悪だった兄たちがヨセフに頭を下げてくれた。そう理解できたので、ヨセフは嬉しくなって兄たちに夢を話しました。

ヨセフが王の地位に着き自分たちがヨセフにひれ伏す話なので、兄たちは猛烈に腹が立ちました。「ますます彼を憎むようになった」(5節)、「ますます彼を憎むようになった。」(8節)。

ヨセフはとてもよく似た第二の夢を見たので、凝りもせずに兄たちに話しました。

彼は、「また夢を見ました。見ると、太陽と月と十一の星が私を伏し拝んでいました」と言った。ヨセフが父や兄たちに話すと、父は彼を叱って言った。「いったい何なのだ、おまえの見た夢は。私や、おまえの母さん、兄さんたちが、おまえのところに進み出て、地に伏しておまえを拝むというのか。」兄たちは彼をねたんだが、父はこのことを心にとどめていた。(創世記37:9~11)

兄さんたちだけでなく、父さんも母さんもヨセフを伏し拝んでくれました。

 

兄たちは二つの夢の話を聞いて、益々ヨセフを憎みました。でも父ヤコブはこの夢の話を心に留めました。(創世記37:11)

実はヤコブには忘れられない夢の経験があるのです。実家を逃げ出して石を枕に野宿した夜、天から地にかけられた梯子を天使たちが上り下りする夢を見たのです。その夢の中で、神はヤコブを通してすべての民族が祝福される事と必ず故郷に帰れる事を約束して下さいました。(創世記28:11~15)また、それから20年たって夢を見ました。やぎが繁殖する夢で、約束の地に戻る時が来たと神が示してくれました。(創世記31:11~13)

神は夢を通して将来の祝福を教えたり、神の約束を確約してくれることがあるのです。ヤコブはその事を体験的に知っていたので、神がヨセフに将来起こる何かを教えておられると推測したようです。

 

最初の夢で注目してほしい点があります。穀物の束は、ヨセフが持ち上げて立たせたものではありません。束はひとりでに起き上がり、まっすぐに立ちました。神がなさったのです。

第二の夢での注目点は、夜の宇宙空間であることです。お父さんが太陽、お母さんが月、兄たちが十一の星になってヨセフの周囲で輝きながら伏し拝んでいます。こんなダイナミックな光景や配置を作り出せるのは創造主の神以外にありえません。将来ヨセフの身に起こることも、神の偉大な力によって起こる事だと理解できます。

中央に立っているのはヨセフの束ではなくヨセフ自身です。彼の目線は周囲にひれ伏す家族をしっかり見ています。この光景は未来に起きる出来事の先取り体験なのです。

 

ヨセフの夢とは、神が見た夢だったのです。

 

神は、あなたを通して実現したい夢があるのです。

 

 あなたの番です。

 □あなたの夢は何ですか。

 □神があなたに関して抱いている夢とは何でしょう。

 □神と一緒に夢見る人になりましょう。

 

「神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。」(ロマ4:21)

2022年8月21日日曜日

創世記37:1~4

  今日からヨセフの生涯を学んでいきます。全体を流れるテーマは家族です。

「ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた。」(創世記37:2)
 17歳になっていたのにヨセフは一人前の仕事ができません。兄たちの悪口を父に告げることばかりをしていました。

「イスラエルは、息子たちのだれよりもヨセフを愛していた。」(3節)
 父親のヤコブはヨセフを溺愛しました。それが家族の問題になっていることすら自覚できません。ヨセフには特別の晴れ着を普段着として与えました。

「ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった。」(4節)
 おそらく長男ルベンは30歳前後です。いい年をした兄たちも、ヤコブのヨセフに対するえこひいきを見て苛立っていました。そのせいで、兄たちがヨセフと話す時には、憎しみが態度に現れ、使う言葉は皮肉と蔑みと嘲りが混じっていました。

ヤコブの家族はどうしてこんなに荒れたのでしょう。
 それは家族の歴史を紐解けば分かります。

「レアの子はヤコブの長子ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン。
 ラケルの子はヨセフとベニヤミン。

 ラケルの女奴隷ビルハの子はダンとナフタリ。

 レアの女奴隷ジルパの子はガドとアシェル。

 これらはパダン・アラムで生まれたヤコブの子である。」
 (創世記35:23~26)

ヤコブには二人の正妻と二人の女奴隷がおり、12人の息子は4人の母親から生まれたことになります。この複雑さが家庭の混乱を生み出した原因です。正妻の二人が憎み合っていたので、子供たちの間も争いが絶えません。

創世記29章をご覧ください。ヤコブはパダン・アラムのラバン叔父さんの家に逃げ込みました。ラバンの娘ラケルの美しさに一目ぼれしたヤコブは、花嫁料として7年間働き、結婚式の日を迎えました。朝起きると横に寝ていたいのはラケルではなく、その姉レアでした。ラバンに騙されたのです。ラバンはヤコブに命じました。1週間後にラケルと結婚させてやるが、あと7年間働け。ヤコブは従うしかありません。

「ヤコブは、レアよりラケルを愛していた。」(創世記29:30)ヤコブの心がラケルに向かっているのを見て、レアは子供を産むことで夫の心を引き付けようとして4人の子を次々に生みました。それが、長子ルベン、次男シメオン、三男レビ、四男ユダです。

子供の生まれないラケルは自分の奴隷女ビルハを夫に与え、ダンとナフタリが誕生しました。
 それを見たレアは自分の女奴隷ジルパを与え、ガドとアシェルが生まれました。

 その後ラケルは念願の息子を生み、ヨセフと名付けました。

 レアはその後、イッサカル、ゼブルンを生み、彼女は合計6人の息子の母となりました。

 ヤコブの家族は、その後約束の地に戻り、ラケルはそこで二人目の子ベニヤミンを生んで直後に亡くなりました。

最愛の妻ラケルを失ったヤコブは、息子ヨセフにその面影を見て、溺愛の度合いが増していきました。

毎日の仕事は長男ルベンが仕切り、レアの息子6人が中心となって行われたはずです。奴隷女から生まれた4人は身分的に低く見られ、下働きをさせられたでしょう。ヨセフは、レアの息子たちに嫌われていたので仲間外れにされ、女奴隷の息子たち4人のそばにいました。それが創世記37:2の背景です。

ヤコブの家族の姿は、私たちの家族の鏡です。

 ・あなたは誰か一人だけを甘やかしていませんか。

 ・家族のある人にだけ皮肉を言いませんか。

 ・ある人の話だけに耳を傾けず、無視していませんか。

 私たちの中にも、ヨセフの兄たちが生きています。

 ヤコブのようなえこひいきが存在します。

 □もっと、温かい家族になるために、私に何ができるだろう

「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)

2022年8月14日日曜日

エペソ1:23

教会はキリストのからだであり、
すべてのものをすべてのもので満たす方が
満ちておられるところです。(エペソ1:23)

1、教会は、彼のからだ  

 イースターの朝、主イエスの遺体は墓になかったとルカは書きました。

 「主イエスのからだは見当たらなかった」(ルカ24:3)

 英語聖書は、they did not find the bodyと訳しています。主イエスのボディーはそこに無かったのです。

 このルカの記述と比べながら今日のエペソの聖句を良く見ると、ああそうだったのかと気がつきます。

 主イエスの遺体はない。けれども、主イエスは今も生きておられる。主イエスは全世界の教会を通してご自分のみこころを実現しておられる。
 教会が主イエスのからだであるとはそういう意味なのです。

 パウロがダマスコのクリスチャンを迫害するために進んでいると、まばゆい光に照らされ「なぜわたしを迫害するのか」(使徒9:5)と復活の主イエスに言われてパウロはひどく困惑しました。
 クリスチャンは主イエスなのか?

 そうです、教会はキリストのからだです。イエスさまの遺体も、お姿も地上にありませんが、たしかにクリスチャン達がエルサレムとその近郊でイエスさまの働きをしていました。名もなきクリスチャンが小さなキリストとなって迫害もいとわずに活動をしていたのです。

 教会の存在目的は、キリストのみこころをこの地上で行うことです。
 教会を構成する私たちも主イエスの願うことをこの世で実現していきましょう。

 

2、教会には、彼が満ちている

 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(ヨハネ1:16)

 福音書を書いたヨハネは、イエスさまが満ち満ちた方だと述べました。あらゆる良きものをあふれるほど持たれ、多くの人を潤すことができるお方です。

 「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2:9)

 パウロも、主イエスが満ち満ちた方だと説明しています。そして、教会には主イエスが満ちていると説明しました。

 夜店で売っている水ふうせんは、どの部分にも同じ水圧がかかっています。学校で習ったパスカルの法則が働いています。

 満ち満ちた方イエスが教会の中で満ち満ちているというのは、まるでパスカルの法則の教会版なのです。主イエスは、私たちの教会の中に、その満ち満ちた良きものを溢れさせて下さいます。教会を構成するすべての人に、恵みと愛と助けと力を等しく働かせておられます。その力をもらえない人は一人もいないのです。

 主よ、世界の教会を祝福し、あなたのみむねを行えるように助けて下さい。
 私たちの弱さや乏しさや不十分さや臆病や知恵の足らなさなどすべての欠けを補い、あなたが満ち満ちた状態にして下さい。

□教会は、キリストの思いを実現する彼のからだ
□個人として、主イエスのみこころを選んで行こう

□すべてを満たすお方に満たして頂いて進もう

2022年8月7日日曜日

エペソ1:22

「また、神はすべてのものをキリストの足の下に従わせ、
 キリストを、すべてのものの上に立つかしらとして

 教会に与えられました。」(エペソ1:22)

神は、キリストを「かしら」として教会にお与えになりました。神はなぜそうされたのでしょう。

主イエスは、教会の方向性を決める二つの命令をされました。大宣教命令と互いに愛し合いなさいという命令です。
 「ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」(マタイ28:19)

 教会は福音を伝えるためにこの地上に置かれています。宣教をしない教会は、塩けを無くした塩です。

コロナの状況下で、人と会えない時代に私たちは生きていますが、個人としても、教会としても、福音を伝える難しさを感じています。でも、教会のみんなの気持ちは同じで、近くの人にも世界の人にも福音を伝えたいと私たちは願っています。

福音宣教という使命は、教会にはっきりした方向性を与えます。困難に直面しても、迫害されても、禁止されても、福音は語るべきものです。

 ところが、第二の命令は、目的達成とは対極の命令なのです。

「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

目的達成ではなく、身近なクリスチャンを愛していくこと自体に意味があるのです。教会には、温かさ、ゆるし、慰め、共感があります。弱さのある人、傷を受けた人、貧しい人、病の人、孤独な人たちも、教会において光を見出すのです。

次に、教会の歴史に目をとめましょう。

主イエスが十字架にかかられて50日目、ペンテコステの日に聖霊が下り、十二弟子は他国の言葉で福音を語りました。その結果、3000人が弟子に加えられ、目に見える形で教会が誕生しました。教会の使命である福音宣教が力強く行われました。その後は、救われた人々が互いに愛し合いました。

「彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。」(使徒2:42)

信者になった3000人は分かれて家庭に集まり、愛し合う群れを作りました。その結果、さらに大勢の人が救われていきました。

私たちは体験的に知っているのですが、伝道活動を休みなく続けると疲れが生じて、お互いの交わりがぎすぎすします。一方で、教会の交わりが仲良しクラブのようになり新しい人を拒絶するようになっては本末転倒です。福音宣教という動的な活動と、互いを愛し合うという静かな交わりの両立は極めて難しいのです。

 

 そこでエペソ1章の今日の聖句に戻りましょう。

主イエスは十字架で死なれ、よみがえられ、神の右に座し、罪の贖いを完結されましたが、父なる神は主イエスにもう一つの役割をお与えになりました。教会のかしらにされたのです。教会が、福音宣教と愛の交わりの両立のために、有能な「かしら」が必要だったからです。

あらゆる支配や権力よりも力があり、すべてのものを足の下に従わせることができる方こそが教会のかしらとして適任です。

 「このかしらがもとになって、からだ全体は節々で筋によって支えられ、つなぎ合わされ、神に育てられて成長していくのです。」(コロサイ2:19)

主イエスがかしらとなり、私たち教会がその体になります。それによって主イエスのいのちが私たちに行巡るのです。主イエスのいのちが私たちに流れるので、教会は実を結ぶことができるのです。(ヨハネ15:5)教会の存在目的である福音宣教からそれないように方向づけながら、温かい思いやりと主イエスのいのちを体全体に行きわたらせてくださる「かしら」がイエスさまなのです。

教会堂の塔の上にかかげられた十字架を見上げて下さい。私たちの教会のかしらは主イエス・キリストです。この方にしっかりとどまり続けて福音宣教と愛の交わりを行っていきましょう。

□教会のかしらは、イエスさま
 □主イエスにつながり、福音宣教と互いの愛を心がけよう

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...