ヨセフはなぜ兄たちを赦すことができたのでしょう。
ヨセフは自分が誰かを明らかにするつもりはありませんでした。自分を隠して兄たちに恐怖を与え、復讐し、ベニヤミンを残して兄たちを帰宅させるつもりでした。
兄たちを赦すつもりは毛頭ありません。赦せない事を悩んでもいません。赦そうと努力したこともありません。復讐することは当然の権利だと考えていたようです。
ヨセフは、そばに立っているすべての人の前で、自分を制することができなくなって、「皆を私のところから出しなさい」と叫んだ。ヨセフが兄弟たちに自分のことを明かしたとき、彼のそばに立っている者はだれもいなかった。ヨセフは声をあげて泣いた。エジプト人はその声を聞き、ファラオの家の者もそれを聞いた。(創世記45:1~2)
ヨセフは家来を部屋から出し、突然泣き出しました。自分を制することができません。自分がヨセフであるとユダヤ人の言葉で兄たちに明かしました。
ヨセフが態度を変えたきっかけはユダの言葉と態度でした。父ヤコブに愛されていないユダが、ベニヤミンの身代わりになり奴隷になると申し出た姿を見て、激しく心が動かされたのです。
私をここに売ったことで、今、心を痛めたり自分を責めたりしないでください。神はあなたがたより先に私を遣わし、いのちを救うようにしてくださいました。(5節)
ヨセフは兄たちを一瞬で赦しました。自分を責めないでください、あなた達が私を奴隷に売ったのではなく神が私を先にエジプトに遣わしたのであり、神の計画だったのです、と述べました。
遣わされたという言葉が5、7、8節で使われています。ヨセフは自分の使命をはっきり認識したのです。今、ここにいる意味を知った人は、誰かを赦すことができます。神の視点で物事が見えてくるので、赦せるのです。自分のプライドや過去の記憶や傷などがどうでも良い事だと感じられるのです。
世間一般の赦しは天秤で二つのものを測るようなものです。自分が傷を負ったとします。相手が土下座し、弁償し、期待通りの方法で頭を下げて、自分のプライドが回復できた場合に赦します。自分の受けた傷と相手の謝罪姿勢を比較して合格なら赦してやるという態度です。
ヨセフの場合はどうでしょう。今日の箇所に、兄たちの謝罪の言葉が事前にありましたか。いいえ。何らかの弁償をしましたか。いいえ。ヨセフの気持ちが晴れるような何かをしましたか。全てノーです。ヨセフは天秤にかけてオーケーを出したのではありません。赦すとはこういうことです。
「主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)
赦す側の人は、自分が受けた傷も名誉も苦悩も損害も全部水に流します。そんなことはなかなかできるものではありません。主によってきよめられていく人は、神の姿に似てくるのです。
彼はまた、兄弟みなに口づけし、彼らを抱いて泣いた。それから兄弟たちは彼と語り合った。(15節)
飢饉はまだ5年続くので、父も家族も全員連れてエジプトに来てくださいとヨセフは語りました。そして、兄たち全員を一人一人抱きしめました。
本物の赦しは、過去の問題を清算するだけではありません。自分を傷つけた人を大切にしながら、将来にわたってその人と共に生きていきたいという姿勢です。赦しは、過去、現在、未来を整え、未来の新しいページを開く扉なのです。その扉を開けられるのはあなただけです。
□あなたは、誰を赦しますか
□赦す人は神に似た者になる
□一瞬で、人を赦せる