ルツ記の舞台が始まりました。
時代背景は紀元前1050年より古い時代で士師記の時代と重なります。
1節に目を留めましょう。主人公の名前を意図的に「ある人」としています。その「ある人」は、飢饉のために、妻と二人の息子を連れて移住しました。中央山地に位置するベツレヘムから、死海の東側のモアブに引っ越しました。
その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。(ルツ記1:2)
彼らはベツレヘム出身のエフラテ人でした。預言者ミカの言葉で「ベツレヘム、エフラテよ。」(ミカ5:2)とありますが、エフラテとはベツレヘムの古い名前、あるいは別名とされています。1節と2節でユダ族のベツレヘムが繰り返されていますが、これは、物語のラストへの伏線となっています。
するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。(3節)
頼りにしていた夫のエリメレクは死んでしまいました。成人した息子が二人いたので、外国生活もなんとか守られ、モアブ滞在は10年に及びました。
二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。(4節)
二人の息子は現地の女性と結婚したのでナオミもほっとしたことでしょう。家族が一気に華やいだはずです。
するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。(5節)
幸せは束の間でした。二人の息子が次々と亡くなりました。伝染病だったのでしょうか。ルツ記はその死因は書きません。ナオミの涙すら記録しません。
ナオミは、人が遭遇する3つの悩みを全部経験したことになります。第一は自然災害。第二は環境の激変。第三は死別。
生きている限り自然災害は避けられません。飢餓、台風、地震、津波、洪水、土砂崩れ。コロナのような伝染病の広がりもあります。命を守るだけで精一杯でした。
突然のリストラや会社の倒産、経験のない部署での仕事、見知らぬ地への転居、人間関係のもつれ、うつ病、などは大きなストレスになります。ナオミたちの経験した言語や文化への適応はつらいものです。自分が何者なのかというアイデンティー危機にも陥ります。
身近な者の死は悲しさと切なさで立ち上がれなくなります。歳をとるということは、誰かの死を必ず経験するという意味です。家族が減ることにより孤独が一層深まります。
「彼女と二人の息子が後に残された」(3節)
「ナオミは二人の息子に先立たれて、後に残された。」(5節)
「後に残された」という言葉が繰り返されています。ナオミは、大切な家族を自分以外すべてを失い、異国でひとりぼっちになりました。他に誰もいないのです。
劇場の幕があき、暗い舞台に一筋のライトが当たると、そこに涙にくれた女性がいる。それがルツ記の幕開けなのです。忘れないで下さい、舞台は始まったばかりなのです。
人とは何でしょう。人生とは何でしょう。物事が順調な時には、自分は強い、自分はついていると感じます。けれども、自然災害や環境激変や死別死別を経験すると、人とは弱い存在だと気づきます。だから私たちには神が必要なのです。私たちは良い時も悪い時も、神に信頼して歩み続けましょう。
「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできるだろうか。順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ。」(伝道者の書7:13~14)
ナオミの祈りや礼拝の姿が今日の箇所にはありません。ナオミの信仰の灯芯は消えそうだったのです。でもそれでは終わらない、神は共にいてくださる、幕は開いたばかりなのだと教えてくれるのがルツ記なのです。
「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」(イザヤ42:3)
☐私たちは、自然災害や環境激変や死別を経験しながら生きていく
☐逆境の日には主を頼りにして歩んでいこう
☐幕が開くまで劇場の座席は暗いもの