ナオミは一人「後に残されました」。
夫と二人の息子たちに先立たれたナオミは悲しみに暮れていたのです。1~5節には、神の名が一度も出て来ません。ナオミの祈りもありません。ところが、今日の箇所では雰囲気が変わります。ナオミの心に何が始まったのでしょう。
主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。(ルツ記1:6)
主がパンを下さったと書かれています。普通なら、ユダ地方で飢饉が終わり収穫があったという一般情報だけが届きます。ただし、ベツレヘム付近のユダヤ人が神の御手を強く感じた場合にはその信仰が一緒に伝わってくる場合があり、それを聞いたナオミが励まされたのかもしれません。もう一つの可能性として、飢饉が終わったという一般情報を聞いたナオミが、主の御手を感じた場合も考えられます。飢饉が終わったという情報がナオミの心を明るくしました。
主がパンを下さったと書かれてあります。「主」を主語にして物事を考えると、人生の見方が変わります。過去を振り返って「主が」という文章を作ってみましょう。自然に感謝の言葉になります。日常会話で「主が」という言葉を使うようになると、感謝の人になれます。
7節をご覧ください。ナオミは異国の生活に区切りをつけて、家を整理しました。二人の嫁と一緒にベツレヘムを目指して旅立ったのです。ところが嫁たちの顔つきが暗くなり、足取りが遅くなるのをナオミは察知したようです。そうだ、嫁たちにはとってユダは外国。心細いことだろう。そこで、二人の嫁を解放してあげることにしました。実家に帰りなさい。再婚して新しい人生を始めなさいと伝えました。
ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。(8~9節)
8節と9節で、ナオミは「主が」という言葉を二回使っています。未来を意識したり、他の人を意識して「主が」と言う言葉を使うと、それは自然に祈りの言葉になります。主が必ずして下さるという期待、信仰告白になります。
「主があなたたちに恵みを施してくださいますように」(8節)
「主が~新しい夫の家で安らかに暮らせるように」(9節)
二人の嫁はナオミの言葉を聞いて泣きます。お姑さんとは離れませんと言ってくれました。けれども、若い二人の将来は長いのです。
11~13節は、義理の娘たちの幸福を願うナオミの気持ちがあふれています。姑の私が今晩再婚して息子を生んでも、育ってあなた方の夫になる日まで何年かかると思うの、年下の男の子なんて歌ってる場合じゃないの。ユーモアを織り交ぜながら、断固とした態度を示しました。
悲しみの中に閉じ込められていたナオミは、若い嫁たちの将来に気を使える人になっていました。年老いて一人で帰る心細さより、若い者の未来を優先できたのです。
あなたの番です。「主が」から始まる文章を作って下さい。
過去のことを取り上げた人は感謝の言葉になっていますね。未来のことを考えた人は、主に信頼している人で、主が助けて下さると信じている人です。自分以外の誰かを想定して作った人は、とりなしの祈りをした人です。普段の生活でもっと「主が」と言える人になりましょう。
ナオミは「主が」と言い始めることにより、暗闇から光の中に移り始めたのです。
☐日常生活でもっと「主が」と言おう。
☐若い誰かの未来を助けて応援してあげよう。
☐不透明な未来であっても、主を信頼して歩み始めよう。