ナオミとルツはベツレヘムを目指して歩きました。死海は海抜マイナス400m、ベツレヘムは海抜800m。つまり1200m登ることになります。その上、エリコからの山道は強盗も出る危険な場所なので(ルカ10章)二人の絆は一層強くなったことでしょう。故郷ベツレヘムが見えた時、ナオミは安堵したはずです。
二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。(ルツ記1:1~20)
主を見上げて歩いて来たナオミでしたが、町の人の態度の冷たさに心が折れてしまいました。
ナオミという名前は、喜びや心地よさという意味です。日本語にすれば、幸子さんや良子さんという感じです。ナオミは、マラ(苦いという意味)と呼んでほしいと言い出し、落伍者自虐モードになってしまいました。
何がナオミを変えたのでしょう。視線を神さまから町の人々に移してしまったので、みじめになったのです。女たちの噂、人々の態度や視線に関心を向けたので心が崩れてしまったのです。
あなたは今、周囲の人々から注目を浴び、凝視されていると感じますか。心が弱っているとそう思えるだけで、実はそれほどあなたに関心があるわけではありません。自意識過剰なのです。目を主に向けましょう。上を向きましょう。
私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(21節)
自暴自棄になったナオミは神を非難しました。どんな事でもおできになる神、全能者が、私を助けてくれなかった。夫が死に、二人の息子が死んだ。全能者が私を卑しい立場に突き落とされました。つらい目に合わせた。以前はたくさん持っていたのに、今では、すべてを失った。何もない。
こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。(22節)
すべてを失ったとナオミは感じていました。22節の記述は、そうではないと言いたいのです。さらっと読むと、単なる要約に思えます。いいえ、違います。こんな時でも神の希望が注がれていると言いたいのです。
すべてを失ったように見えて新しく手に入れたものがあったのです。ルツです。ナオミを尊敬し、愛し、どこまでもついて行くと献身を表明した、若くて情熱があって信仰に燃えているルツがナオミのヘルパーになったのです。ナオミはそれを忘れています。あなたの周囲にもルツがいますよ。探してください。
もう一つ。帰って来た時期が素晴らしい。大麦の収穫が始まったときだったのです。飢饉は去り、豊かな実りが期待できました。希望が感じられるフレーズです。あなたの周りにも大麦の刈り入れが始まっています。気づいてください。
□人の目、人の態度に惑わされないこと
□落伍者自虐モードに入らないこと
□すべては失っていない、ルツが加わった
□収穫の季節が始まろうとしている