イースターおめでとうございます。主はよみがえられました。
主イエスは2000年前の金曜日に十字架にかかられました。その直後の日曜日の夕方、主イエスの弟子の二人がエルサレムを離れ、エマオという町に向けて歩いていました。エマオはエルサレムから西に11キロほど離れた町です。クレオパともう一人の弟子は、西日を顔に浴びながら坂道を下り、真剣に話し込んでいたのでしょう。(13~14節)
そこに、男性が一人現れ、何を話しているのですかと質問しました。二人はその男性が復活されたイエスさまだとは気づかず、顔を曇らせながら一連の出来事を説明しました。(17〜18節)
なぜ、主イエスはクレオパたちに名乗らないのでしょう。主イエスにはお考えがあったようです。
クレオパたちは説明しました。ナザレ出身のイエスを聖書が預言して来た救い主だと私たちは信じました。人間には絶対にできない奇跡を行い、素晴らしい教えを語られました。イエスさまこそイスラエルを解放して下さる方だと期待していましたが、金曜日に十字架で処刑されてしまいました。もう何もかも終わりです。私たちは失望しました。数人の女たちが今朝墓に行ったのですが、墓は空っぽで遺体はなかった、と言うのです。何があったのか見当もつきません。天使がそこに現れて、主イエスはよみがえられたと言ったと、いうのです。彼女たちは悲しみのあまり取り乱し天使の幻でも見たのでしょう。(19~25節)
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じない者たち。キリストは必ずそのような苦しみを受け、それからその栄光に入るはずだったのではありませんか。」それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに解き明かされた。(ルカ24:25〜27)
クレオパたちは2000年前の人々ですが、現代人の私たちとそっくり同じ考え方をしています。論理的で科学的でした。常識的な判断をしたはずですが、悲しみに暮れ、失望落胆し、とぼとぼとエルサレムから遠ざかる最中でした。主イエスがご自分を隠してクレオパたちと語ったり理由の一つは、復活を知らないキリスト者の姿がどんなにあわれかを示したかったと思われます。
主イエスの十字架と復活をセットで理解しないなら、主イエスがして来たことすべてを無駄にすることになり、父なる神の愛も知恵もご計画も全否定することになるのです。
主イエスがクレオパたちに旧約聖書の預言を取り上げてどのように解説されたか、今では知る由もありません。以下のような内容だったかもしれませんね。
一人息子をモリヤの地(エルサレム)でささげたアブラハム→創世記22:2
子羊の血で救われた過ぎ越しの祭り→出エジプト記12:7
竿の先の青銅の蛇を仰ぎ見て救われる→民数記21:8
救い主は処女から生まれる→イザヤ7:14
救い主はベツレヘムで生まれる→ミカ書5:2
ガリラヤで活動する→イザヤ書9::1
ロバに乗って入城する→ゼカリヤ9:9
裏切られる→詩篇41:9、
裁判で弁明しない→イザヤ53:7、
捨てられる→詩篇118:22、
銀貨30枚で売られる→ゼカリヤ11:13、
十字架でとりなしの祈りをされる→イザヤ53:12、
乾きを経験する→詩篇22:15、
父なる神との関係が絶たれる→詩篇22:1、
骨が砕かれない→詩篇34:20、
槍で突かれる→ゼカリヤ12:10、
死んだままで終わらない→詩篇16:10
クレオパたちは、主イエスの解説を聞いているうちに心が燃えてきました。(32節)復活された主イエスに直接面会することよりも、聖書の言葉をしっかりと理解できたほうが何倍も力があるのです。
主イエスさまは、今日も、私たちの横をそっと歩いて私たちを励ましてくださいます。もしも身近にクレオパのような人がいたら、その話を全部聞いてあげましょう、そして、聖書を開いて励ましてあげましょう。
御使いが言った言葉を心に刻みましょう。
イエスさまが生きておられる。(ルカ24:23)
□復活を信じないなら主イエスの働きを無駄にしてしまう。
□聖書は、救い主の苦難と復活を預言していた。