2023年8月13日日曜日

エペソ2:1~10  恵みによって 

1、どこから救われたのか 

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいたものであり」(1節)

「あなたがたは」(2:1)とありますが、パウロが「あなたがた」と言う場合は異邦人やエペソの人々を指します。「私たち」(3節)と言う場合は自分を含めたユダヤ人を意味します。エペソの人々は神を知らず霊的に死んでいたのです。

 エペソの人が自由に生きていたと感じても、実は、邪悪な力、空中の権威を持つ霊の支配下にいたとパウロは指摘しました。

神の民ユダヤ人であっても、「自分の欲のままに生き」、神から怒りを受けるほど罪深い生活をしてきたのです。

借金を抱えた若者が闇バイトに手を出し、お年寄りを殴って大金を手に入れ、見えないボスに脅されて犯罪を繰り返す構造に似ています。

私たちの古いアルバムを開くと罪人の自分に直面することでしょう。

 

2、どのように救われたのか 

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(8節)

普通、信仰に入るには、自分の罪を悔い改め、主イエスを信じると告白します。私たちもそのプロセスを通ってきました。ですが4~9節でパウロは、悔い改めについて一言も触れていません。救いという事実を包括的に見直すと、罪の悔い改め、あるいは人間の信仰は救い全体の1%程度の貢献であり、神の恵みが99%を占めているのです。いいえ、神の恵み100%で救われているのです。

「しかし、あわれみ豊かな神は」「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」(4節)

4節の原文は、「しかし、神は」となっています。マーティン・ロイド・ジョンズは、この小さな二つの言葉の中に、キリストの福音のすべが含まれていると説明しました。

私たちも死人を救うすべはありませんし、ひどい悪人を救いたいとは思いません。けれども神は、死人で罪人であった私たちを愛し、信じられないほど大きな恵みで包んで下さって、救いに導いて下さいました。補欠合格者扱いのぎりぎりの救いでなく、天において最高の指定席に着かせて下さり、永遠の命を与え、主がずっと共にいて下さるという救いなのです。

 

3、何のために救われたのか 

 救いには方向性があり推進力があります。また自分自身のアイデンティティーを確認させる命を持っています。救われた人は何のために生まれたかを徐々にあるいはクリアに理解していくことになります。

「実に、私たちは神の作品であって、私たちが良い行いに歩むように」(10節)

私たちはガチャポンのボタンを押されて偶然にこの世に生まれた者ではありません。「すべてのものは、この方によって造られた。」(ヨハネ1:3)とあるように、私たちはキリストにあって大切に造られたのです。大量生産で作られた工業製品ではなく、手作りの工芸品、作者の魂のこもった芸術作品、世界でたった一つの神によるユニークな傑作なのです。

救われたのは何のためでしょう。神の備えた「良い行い」をするためです。「良い行い」とは何でしょう。神を愛し、人を愛し、正しくきよく生活し、本来の人間の良さを体現し、与えられた賜物で仕事を行い、生活のすべてを通して神の栄光を表すことが良い行いです。小さく弱い者が用いられたら主の栄光になります。

奴隷船の船長で後に信仰を持ったジョン・ニュートンは言いました。「私はあるべき姿にはなっていないし、なりたい自分の姿にも程遠い、けれども、私はかつての自分ではない、そして、神の恵みで今の私になっている」

□私たちは死人の中から、邪悪な力の支配から救出された
□私たちは、ただ神の大きな恵みによって救われた
□私たちは神の作品、良い事を行うために造られた

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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