「こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています。」(エペソ3:1)
パウロは3つのために生きて来ました。第一に、あなたがた、つまり異邦人のため、第二にキリストのため、第三に奥義のためです。
パウロの逮捕については使徒21~23章に詳しく書いてあります。パウロがエルサレム神殿にいた時、異邦人を神殿に連れ込んだと勘違いされ暴行を受け、それが大騒動になり、ローマ兵が出動してパウロは逮捕されました。(使徒21:27~29)
パウロはエルサレム神殿の庭から救助された後、階段の上から人々に向かって自分の人生と主イエスによる救いの証をしました。群衆はしばらく静かに聞いていましたが、次の言葉で逆上しました。「主は私に『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」(使徒22:21)
人々はその言葉は冒涜に値すると激怒しました。神が汚れた異邦人を救うはずがないし、関心を持つはずもないし、異邦人に仕えるためにパウロを派遣するはずもないと群衆が思ったからです。
実は、復活の主イエスに出会って信仰を持った当初のパウロは、ユダヤ人の意識や文化にまだ束縛されていたと思われます。ですから、「わたしの名を異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器」(使徒9:15)と言われてもすぐにその正確な意味を把握できなかったでしょう。アラビヤで一人で過ごした3年間の中で(ガラテヤ1:17~18)主イエスが語られた事柄の真意を悟ったのかもしれません。なお、奥義の理解はパウロ個人の主観的悟りではなく、他の使徒たちや預言者にも与えられていたものなので客観性がありました。(エペソ3:3~5)
「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」(エペソ3:6)
異邦人もユダヤ人と同じく恵みによって救われる。それだけでなく、異邦人もユダヤ人と同様に同等に、神の祝福の相続人となり、共にキリストのからだの一部とされ、昔からユダヤ人に与えられていた神の約束にもあずかることができるのだと分かったのです。
異邦人が救われたら教会ができるが、ユダヤ人教会と比べて一段低いレベルの異邦人教会にするべきか、否、キリストを頭とするキリストの体に同じく組み込まれるお互いだから、一つの教会になると理解できたのです。
長い間隠されていた奥義の意味が明らかにされ、パウロの世界観が変えられました。これこそ神のみこころだとパウロは心を燃やしたことでしょう。その喜びが福音を伝える新鮮なエネルギーとなりました。すべての民族の祝福というアブラハムに与えられた使命が、パウロの使命となったのです。パウロはこの使命のためなら逮捕されても、死刑になっても本望だと考えるようになったのです。
「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。」(エペソ3:7)
今日の箇所を私たち自身に適用しましょう。
今のあなたの仕事、置かれている役割は、誰のためですか。主イエスはあなたにどんな使命を与えて下さっていますか。あなたは福音の奥義に仕える者とされています。
□私たちにとって「異邦人」とは誰でしょう
□祝福を誰かにシェアするために私たちは生きている