「私パウロはキリスト・エスの囚人となっています。」(エペソ3:1)
パウロは拘束されて囚人の立場にいても落ち込んでいません。「落胆することのないようにお願いします」(3:13)とエペソの人々を思いやるほどでした。パウロは苦難と囚人の身の上を受け入れていましたが、どうしてそんな心境になれたのでしょう。
理由が3つあります。1、小さな自分に与えられた大きな恵みに感謝している。2、福音の奥義を明らかにできることが生きがい。3、誰もが大胆に神に近づけることになり嬉しい。
1、恵みに感謝(8節)
「私は使徒の中で最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。」(第一コリント15:9~10)
エペソの手紙の数年前のパウロの自己洞察は、使徒の中で一番小さいというものでした。
「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり」(エペソ3:8)
カイザリアで2年間幽閉され、ローマで囚人となった後のパウロは、自分が限りなく小さいと感じました。救いようのない自分の罪深さを強く深く認識したので、「すべての聖徒のうちで一番小さな私」と言ったのです。自分が主から頂いた恵みとは、測り知れない富であると気づいたのです。
今、あなたが置かれている状況がどんなに悲惨でも、パウロの視点に立てば感謝と賛美が生まれます。
2、奥義を知らせる生きがい(9~10節)
「奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。」(10節)
異邦人が割礼や儀式や律法を行わずに恵みで救われる。ユダヤ人と異邦人が一つになる。パウロはこれらの神の奥義の素晴らしさに気づいて、誰にでも言いたくなったのです。奥義は教会を通じ周囲の人たちに明らかにされて行きました。その影響は、人間にとどまらず天的な存在にまで及びました。
奥義を明らかにできることを特権ととらえ、生きがいを感じていました。
3、神に近くなる(11~12節)
「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」(12節)
かつて異邦人は神から遠く離れ、神も望みもありませんでした。(2:12)ところが神の恵みによって救われ、神の近くにいられるようになりました。
十字架の死と復活は神の救いの計画であり完全に「成し遂げられた」もの、完結したのです。12節の原文は「キリストの真実」(共同訳)とも訳せます。恵みによる救いとは徹頭徹尾キリストにあって、キリストの真実のゆえに私たちにもたらされたものです。
主イエスは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ17:46)と言われました。これは詩編22:1の言葉をご自分の言葉として語られたと思われますが、実はその続きがあります。「私を救わず、遠く離れておられるのですか。」(詩編22:1)。ここを読むと、主イエスが私たちの代わりに神から遠く離されたのだと推測できます。神の愛の届かない、絶望的な孤独、暗闇、悲惨さ、遠さを主イエスが経験して下さったゆえに、私たちは神に近づけられたのです。
このような3つの理由から、パウロは囚人の立場に置かれても落胆せず、むしろ福音に仕える者にされたことを喜んでいました。神の栄光はこのようにして表れ出るのです。
「私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」(13節
□不遇な身であっても感謝と栄光を見つけられる
□小さな私に注がれた測り知れない神の恵みがある
□主イエスの真実のゆえに成し遂げられた救い