このことをよく知っておきなさい。淫らな者、汚れた者、貪る者は偶像礼拝者であって、こういう者はだれも、キリストと神との御国を受け継ぐことができません。(エペソ5:6)
誘惑に負けやすい一部のクリスチャンに対してパウロは忠告しました。エペソの町が性的誘惑の多い大都会だったからです。淫らな行いをしている人々のことを三回も繰り返し(3、4、5節)注意を喚起しています。
わいせつな行為、汚れた行いなどの性的な罪は人間の快楽を安易に満たすように見えても、実は底なしの虚しさに引きずり込み、罪の奴隷にし、人々の健全な信仰を失わせ、御国を受け継ぐことを阻止するものなのです。ですからパウロは「だまされてはいけません」(6節)、「仲間になってはいけません」(7節)、「暗闇のわざに加わらず」(11節)と述べました。
「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい。」(10節)とあるように、罪の暗闇に戻らないために自分の現状をよく見つめることが必要です。特に注意すべきクリスチャンの基本姿勢は「光の子」として歩んでいるかということです。
「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい。あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです。」(8~9節)
光の子どもという表現は主イエスが言われた言葉です。「光の子どもとなれるよう、光を信じなさい」(ヨハネ12:36)光という言葉の代わりに「イエス」と入れてもしっくりきますね。
「子ども」とは、親から同じ性質を受け継ぐ者、成長の伸びしろがある者、純粋さや謙虚さを持っている存在と考えることができます。
性的罪に惑わされていないで、自分が光の子であることを意識しなさいとパウロは言いました。その自己意識が信仰を強め、日々の具体的生活に光が当てられるようになるのです。
「善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶ」(9節)とあります。自然光に赤、緑、紫など波長の違う光が含まれているように、聖書が語る光の中には愛や親切や善意などの人格的な温かさの部分と、正義や真実などの吟味や探求に耐えうる真理の部分が含まれています。「ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。」(1節)
主イエスを愛し、主イエスについて行こうと思う者は、自然に主イエスに似た者と変えられていきます。そして、周囲の人を照らす人になっていきます。
パウロは3年間のエペソでの活動を通じてエペソ教会の長老(=牧師)を育成し任命していました。(使徒20:31)誘惑の多い大都会であっても、光の子どもとして立派に成長する者たちもいたのです。
大都会に向学心の旺盛な若者たちが多く集まることにきづいたパウロはエペソに腰を据えて若者伝道と育成を行い地域全体に派遣しようと考えました。
その中の一人、エパフラスはコロサイで伝道して教会を創設しました。(コロサイ1:7)パウロが「ティラノの講堂」で教え続けた結果、「アジアに住む人々はみな、ユダヤ人もギリシア人も主のことばを聞いた」(使徒19:10)とあるように素晴らしい成果をあげました。
誘惑を離れ、暗闇を後にして、光の子どもとして自覚して歩み、主イエスの姿に変えられながら、周囲の人々を愛と真実で照らす人になりましょう。
□悪の誘惑を跳ね返しましょう
□自分の姿を点検しましょう
□あなたは光の子どもです