2023年11月26日日曜日

詩編44篇 あなたの右の手

「自分の剣によって彼らは地を得たのではなく自分の腕が彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手あなたの御腕あなたの御顔の光がそうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。」(詩編44:3)

 44篇を要約します。

 かつてイスラエル民族は、神によって約束の地に「植えられました」。神の右の手、神の御腕、神ご自身が私たちの先祖に住む土地を与えて下さいました。それは過去の思い出で終わらず今も勝利は神から与えられるものです。自分たちの腕や剣や弓で勝利するのではありません。だから私たちはいつも神を誇ります。(1~8節)
 そう述べたのは、王国が繁栄していた時ではありません。敵に敗北し、略奪され、人々が散り散りになり、近隣諸国の物笑いの種になった時でした。(9~16節)
 「これらすべてが私たちを襲いました。」(17節)そんな悲惨な状況になっても、私たちは神を忘れず、他の神々に心変わりせず、たじろぐことなく、神の約束を守り、神の道から離れませんでした。(17~22節)
 神よ起きて下さい、目を覚まして下さい。私たちは倒れています。助けてください。(23~26節)

 ユダ王国末期には神から離れ偶像を拝む時代になったので、この詩編の時代背景はヨシャファテ王かヒゼキヤ王の時代かもしれませんが特定は困難です。

 敵に打ち破られ、国家的危機を迎え、悲惨な状況に陥った時、人は自分の苦悩にだけ焦点を当てて私だけがなぜ苦しむのかと嘆くものです。ところが詩編44篇では「私たち」に焦点が当てられ、新改訳聖書においては「私たち」が25回も使われています。詩編の中で「私たち」が最も多く用いられています。

「これらすべてが私たちを襲いました。しかし私たちはあなたを忘れずあなたの契約を無にしませんでした。私たちの心はたじろがず私たちの歩みはあなたの道からそれませんでした。」(17~18節)

 戦禍に苦しむ中で「私たち」として神の道を選び取れたのはなぜでしょう。信仰に堅く立つ者が身近な人を励ましたのだと思われます。神の約束を確認したり、賛美したり、互いに祈り合う中で「私たち」皆が信仰を捨てずに歩めたのでしょう。

 国家的危機と苦難と辱めの中にあっても主への信頼を保つ詩編44篇はパウロの目に留まりました。神へのささげ物にされる羊が囲い場で死を覚悟する様子と人々の様子を重ねている22節にパウロは注目しました。健気な信仰者たちを支えているのは神の愛なのだとパウロは理解しました。

 「だれが、私たちをキリストの愛から引き離すのですか。苦難ですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。こう書かれてあります。『あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。』しかし、これらすべてのことにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。」(ローマ8:35~37)

 困難に直面した時でも、私たちは互いに励まし合うことにより主の道を歩き続けることができます。私たちの剣や腕ではなく神の右の手が勝利をもたらすので、神への信頼が肝要です。私たちは神と神の愛によって圧倒的な勝利者になれるのです。

□勝利は神の御腕がもたらす
□励まし合う中で勝利者になる
□神の愛が下を支えている

2023年11月19日日曜日

詩編43篇 神を待ち望め

詩編43篇が42篇と切り分けられているのは何故でしょう。

 42篇と43篇は、あきらかに一つの詩編です。「わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか」というフレーズが42:5、42:11、43:5と3つの節で繰り返されていることからもそれが分かります。

42篇は絶望がテーマの詩編でした。43篇も同じテーマを引き継いでいます。43篇2節は42篇9節の繰り返しであり、内容的には神に忘れられている不安がさらに深まり、神に退けられているという気持ちにまでなっています。

絶望的な状態になっても神に嘆願し続けています。そこに信仰があるのです。その祈りの中で、無意識のうちに神がどのような方かを告白しています。

43篇を注意深く読み直すと、雪景色の中で梅のつぼみを見つけたような感覚になります。苦しみの中で同じうめきを繰り返しているうちに、らせん階段を上るようにして希望の光を見つけようとしています

 このような信仰姿勢が見て取れるので、42篇と切り分けられて一つの詩編とされたのかもしれません。

 43篇の言葉の奥に隠されている信仰告白を解きほぐしていきましょう。

1節では、不公平な扱いを受けているのですが、神こそ正義を行う方であると告白しています。

2節では、神が力の神であると述べています。私を助け出す力をお持ちだと知っているのです。共同訳ではここを「わが砦なる神」と訳しています。

3節では、神が光を照らし、真実を実現する方だと述べています。真っ暗で行く先が見えなくても、神は道を照らし、導いて下さる方だと分かっています。

4節で、エルサレム神殿に連れ戻して下さいと願っています。そして、神を高らかに賛美する日が来るようにと祈っています。苦難の真っただ中でこのような輝かしい日が来ることを思い描けるでしょうか。そう祈れる事自体が希望と信仰を持っていることの証です。

 現実がどんなに悲惨でも、神が神であることに変わりはないのです。

「わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。」(43:5) 

「わがたましいよ」と呼び掛ける言葉は、詩編42~43篇以外では詩編に6か所あります。詩編103篇に3回。詩編104篇に2回。詩編146篇に1回。

「わがたましいよ、主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ、聖なる御名をほめたたえよ。」(103篇1)

「わがたましいよ」という自分自身への呼びかけは、これから主を賛美するという時のきっかけの言葉であることが分かります。42篇と43篇では喜びと感謝にあふれた場面ではありませんが、主をたたえる姿勢に入っていると受け取れます。

絶望しないと見えない美しい景色があります。絶望は信仰の窓を開ける鍵です。徹底して自分の罪に絶望した者だけが赦しの恵みを実感できます。人間的助けの道を遮断された者だけが神の奇跡を目撃できます。

43篇の内容を私なりに言い換えてみました。目に見える景色は絶望しかないけれど、さあ、わがたましいよ、神を待ち望もう、神をほめたたえる日が必ず来る、私の神は誰よりも信頼できる方だ、この今の瞬間も神をほめたたえる。

□絶望状態でも、神が神であることに変わりはない
□神を待ち望み、身を任せよう
□さあ、わがたましいよ、主をほめたたえよう

2023年11月12日日曜日

詩編42篇 魂の渇き

 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、

神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(詩編42:1)

詩篇42篇の基本テーマは霊的スランプからの回復です。前半の1~5節では霊の渇き、後半は、試練の厳しさでおぼれそうな様子が述べられています。

1節で、鹿が乾いた川底に下りても水を見つけられず苦しみあえぐ姿が語られています。神を求めても満たされない信仰者の霊の渇きがその鹿の姿に重ねられています。

 周囲の人々は「おまえの神はどこにいるのか」とあざけりの言葉を投げかけてくるので、昼も夜も涙にくれていたのです。

 「私は自分のうちで思い起こし」(4節)とありますが、そうした悲しみにつぶされないために、霊的に祝福された時の心のアルバムを見返すことは役に立ちます。

 主にある仲間たちと心からの賛美をしながらエルサレムの神殿に上った時を思い出しました。過去は確かに貴重な体験であり、その時の霊的喜びは真実のものだったのです。

 自分の心に語り掛ける詩編42篇独特の印象的な言葉が5節に登場します。同じ内容は11節でも繰り返され、とても深く心に刻まれるフレーズになっています。

わがたましいよなぜおまえはうなだれているのか。私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。御顔の救いを。(5節)

 

 6~11節では枯れた川でなくて滝と滝つぼの様子が描かれています。パレスチナ北部にある最高峰ヘルモン山(標高2800m)はヨルダン川の水源となっていました。ミツアルの山とはヘルモン山の一部だったのでしょう。大きな滝が激しく落ちて水しぶきを上げる様子は大きな試練によって翻弄される様子を象徴しています。エルサレムから遠く離れた地にあって、とても大きな悩みに直面していたのでしょう。

 「おまえの神はどこにいるのか」(10節)というあざけりの声は耳から離れません。神に忘れられたと感じるほど厳しい試練の中にいました。その圧力に屈しないためにできることがあります。恵みを数え、賛美し、祈ることです。

 昼には主が恵みを下さり夜には主の歌が私とともにあります。私のいのちなる神への祈りが。(8節)

 詩編42篇は、うなだれて落ち込んでいる自分を、もう一人の自分が励ます詩編です。
 弱く、倒れ果てている自分を客観視し、その状態を受け入れながらも、神を見上げようと自分を励ましています。

無理やり自分を元気づけても返って疲れます。義務感で外見を装っても長続きしません。神を待ち望む心が大切なのです。

多くの信仰者は生涯に一度や二度は深刻な霊的うえ渇きを経験し、魂の暗黒を通過します。振り返ると、その危機的状況で神の深い愛に気づき、生ける神との絆を深めることがあるのです。

わがたましいよ、なぜおまえはうなだれているのか。なぜ私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い私の神を。(11節)

□うなだれた自分をそのまま受け入れましょう。
□過去の恵みを思い起こす事と賛美や祈りを続けましょう。
□神を待ち望みましょう。

2023年11月5日日曜日

エペソ6:10~24 御霊の武具

エペソ人への手紙の最後のアドバイスは、ファイティングスピリットを持て、です。

「終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(エペソ6:10)

パウロはこの数年の間に、逮捕、監禁、不当な裁判、暗殺計画、ローマへの護送、獄中生活、裁判のプロセスなどを経験し、「戦い」という現実を日々体験してきましたが、その経験が今回のアドバイスに生かされているのでしょう。

困難や闘いが突然起きた時、私たちは動揺し、濁流にのまれてしまいます。戦いが起きているにも関わらず、それが現実と認識できなかったり、逃げてばかりいたり、目を閉じたり、神を非難したり、他人任せにすることがあります。それでは滅んでしまいます。

あなたが戦うのです。生身のあなたは弱いのですが、武具があれば守ってくれます。みことばの剣を持てば、あなたは戦士です。強められなさい、それがパウロの最後の忠告でした。この箇所の内容はエペソの手紙だけにあるユニークな励ましです。

ローマ兵が武具を身に付けた状態のように、神の大能の力を頂いてクリスチャンも隙を作らずに、戦闘態勢を取るように勧めました。パウロは、エペソ1:19でも神の大能の力に触れています。

「堅く立つ」という表現が11、13、14節で用いられています。試練という強い北風に吹かれても立ち続ける心意気が大事なのです。

「私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。」(12節)

 私たちは目の前にいる人物が敵だと考えやすいのですが、パウロは真の敵は背後にいる敵だと見抜いていました。ですから、戦うためには神の武具を身に付けないと立ち向かえないのです。

 神の武具は6つあります。ローマ兵の装備で言うならば、帯、胸当て、靴、盾、かぶと、剣です。それぞれに、真理、正義、福音、信仰、救い、みことばが当てはめられています。あなたに必要な武具はどれですか。

 この6つは、クリスチャン生活に不可欠な要素です。自分が救われていることを確信し、生けるキリストへの信頼を持ち、聖書の出来事を歴史的な真理として受け止め、十字架の福音を語る用意を怠らず、正義を動機とし、みことばの希望を信じて困難に立ち向かうのです。

 ローマ兵が持っていない秘密兵器を私たちは持っています。7番目の武具は祈りです。

 「あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。」(18節)

 私たちは誰かのために祈るために生まれました。そして、誰かに祈られて支えられて生きていくのです。

 パウロですら祈りの援護を必要としました。裁判のプロセスで皇帝は神ではないとか、政府に逆らう言動をすれば死刑は免れません。しかし、福音を薄めて語るなら伝道者として失格です。ですから、どんな場面でも「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」(19節)祈ってほしかったのです。

 21~24節は最後の挨拶の部分です。この手紙はアジア人ティキコが運びました。(使徒20:4、第二テモテ4:12)エペソ教会では良く知られた人物だったのでしょう。手紙の文面に書けない実情を彼が詳しく伝えたと思われます。

 あなたの戦いは何ですか。
 今、どんな敵と相対していますか。
 その戦いで逃げ腰になっていませんか。
 勝利者イエスとつながっているので、必ず勝てます。

 「特別に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」(ダニエル10:19)

 □目の前の人物は本当の敵ではない。
 □神の武具を身に付けて、固く立とう。
 □祈り、祈られ、勝利しよう。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...