人間の労苦は益になるのか(伝道者の書1:3)。それが本書のテーマでした。2章においては、それを楽しさや幸福と言い換えて考察しました。
1~8節では仕事の成功や資産の拡大や欲望の追求をしました。9~11節においては、世界一の知者になろうと試みました。12~23では財産を永遠に誰にも渡したくないと抵抗しました。24~26節は結論です。
ソロモン王は、他人から狂気だ愚かだと言われても、「快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」(1節)とあらゆる道徳的な制限を取り払って欲しいものの獲得に没頭しました。
在位40年の間に彼は防衛拠点を築き、軍備を増強させ、城壁を築き、領土を広げ、経済を向上させました。(第一列王記9~10章)王としては立派ですが、国民は重税と過酷な労役で疲弊していました。
ソロモンは自分の家を建設するため13年をかけ(第一列王7:1)、シェバの女王はそれを見て「息が止まるばかり」に驚きました。(第一列王10:5)優秀な奴隷を買い取って働かせ、CDプレーヤーのように歌手に歌わせ、快楽のためにそばめを300人持ちました。(第一列王11:3)国民も奴隷もそばめも彼にとってはモノでした。
成功、財産、権力、快楽を手に入れても、すべては空しいと彼は述べました。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝道者の書2:11)
12~17節での彼の試みは、並外れて賢い人間になることでした。膨大な知識を獲得し、深く考える人間になり悟りを広げるなら幸せになれると思い、勉強に励んだようです。けれども、その賢くなった頭脳で先が見えてしまいました。賢者も愚かな者も死ねば同じだと。「私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。』私は心の中で言った。『これもまた空しい』と。」(15節)
大学教授になれるほど学問に打ち込み、人知れず勉強して専門家になっても、無学な庶民と同じように忘れられてしまうのは空しいと気づきました。(16節)
18~23節では、努力して蓄えた金銀、豪邸などをずっと持っていたいのですが、死ねば息子たちに譲ることになる。愚かな後継者に譲ることは腹立たしいと思いました。(21節)
ソロモンは長年にわたる壮大な実験の結果を述べました。財産や快楽を手に入れても空しい。けれども、自分の一日の労苦に満足し、普通の食事をして「おいしい」と喜べる道がある。
「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。」(24~25節)
彼は、幸せはすぐそばにあることに気づきました。けれども、それは、神から離れる苦い経験をした後にやっと悟ったことなのかもしれません。
「主はソロモンに怒りを発せられた。
それは彼の心がイスラエルの神、主から離れたからである。」
(第一列王記11:9)
賢いソロモンにとって、2章に描かれた欲望追求の実験を披露する事は恥であり、みじめな経験になることは分かっていました。あえてこのように書き残したのは、ある種、彼の罪の告白なのかもしれません。私は誰よりも愚かであり、誰よりも罪多き者だと暗に言いたいのかもしれません。
富と欲望を追求した時、正義やきよさは失われました。また、人を人として認識することができず人格的な交わりが消え、親切心や分け合う喜びや愛する心を無くしてしまいました。神から離れるとは、そのような結果をもたらすのです。
神から離れてはいけない。離れたら、すべてが空しくなる。神と共に歩むなら、仕事に達成感を覚え、いつもの食事をおいしく頂ける。身近な人と肩を寄せ合い、ささやかな幸せがどんなに貴重なのかを味合うことができるのです。
「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。」
□神から離れると、自分だけの幸福追求になり、空しくなる。
□神と共に生きるなら、すべてが感謝できる。