伝道者の書で一番有名な箇所を読んでいきます。
「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。
殺すのに時があり、癒やすのに時がある。
崩すのに時があり、建てるのに時がある。
泣くのに時があり、笑うのに時がある。
嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。
保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
裂くのに時があり、縫うのに時がある。
黙っているのに時があり、話すのに時がある。
愛するのに時があり、憎むのに時がある。
戦いの時があり、平和の時がある。」(伝道者の書3:2~8)
人は自分の生まれる時も場所も選べません。そして、自分の死ぬタイミングも方法も選べません。若い人は家を建てる時に希望を持って設計しますが、年配者は実家の取り壊しに頭を悩ませます。色々と願いがあってあれもこれも欲しいという獲得の時期がありますが、あきらめたり投げ捨てたりする時も来ます。愛していたはずなのに、憎む日が来ることもあります。悲しみの涙にくれることがありますが、大きな喜びに満たされる時もあります。
「伝道者の書」の今までの流れなら、このような事柄を嘆き、人生は何と空しいことだと言うはずです。ところが違います。
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(11節)
人間のコントロールを越えたタイミングで大事件が起きるのですが、空しいと嘆かずに、神のなさることの美しさに強く心を打たれています。
こうした洞察が生まれたのは「天の下」という視点です。「日の下」は伝道者の書で27回用いられますが、「天の下」は3回だけです。
「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」(1節)
今までは「日の下」で行われる不条理、絶望、しいたげなどに言及して来ました。そこは、人間の罪と欲望の世界であり、神を忘れた現実です。「天の下」という表現を用いることにより、愛の神のご配慮を想定しています。生も死も、喜びも悲しみも、主の深いみこころの中で導かれていると考えるのです。
あなたは今、どんな時を迎えていますか。植える時ですか、抜く時ですか。裂く時ですか、縫う時ですか。涙の時ですか、笑顔の時ですか。
3章では「すべて」という言葉も目立ちます。人生のすべての事象を貫く真理があるはずだという探求心から「すべて」という言葉も10回ほど使われています。
すべてのことには時があるのです。神の温かく深いみこころに裏打ちされた時があるのです。人生で起こるすべての事を、静かな心で眺めてみましょう。
登山者が森の中を上り続ける時のように、物事の始まりと終わりを人は見極めることはできません。でも、見晴らしの良い場所に出ると来た道や頂上が見えます。天の下のすべての営みに時があるのです。神と共に歩む登山道には可憐な高山植物が咲くはずです。
「私の時は御手の中にあります」(詩編31:15)
□神の時を静かに受け入れる
□神のなさることは美しい