2024年4月14日日曜日

ヨハネ1:1~18 初めにことば

ヨハネの福音書を読んでいきましょう。

十二弟子の一人ヨハネがこの福音書を書きました。他の三つの福音書とずいぶん違います。クリスマスの話、山上の垂訓やたとえ話は一切ありません。

それはヨハネに明確な執筆目的(ヨハネ20:31)があったからです。主イエスの本質を伝えたい、主イエスを信じてほしい、主イエスを信じることによりまことの命を得てほしいと強く願ったのです。


第一に、イエスさまの本質は、ことばです。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)
 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(1:18)

人が何を考えているか、どんな気持ちなのか、それは言葉に表して初めて分かります。神がどんな方か、イエスさまが教えてくれます。神が私たちのことをどう感じているか、イエスさまの行動で分かります。主イエスは、神の真実さ、神の私たちに対する愛を教えて下さる方です。イエスさまを見れば、神が分かるのです。

第二に、イエスさまの本質は、創造主、神です。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(1:3)

主イエスは世界が始まる前から存在された神です。世界を創造された神です。箴言8:23以降には、ことばが世の最初から存在し、世界を造った様子が描かれていて興味深いです。パウロも、コロサイ1:16において、世界は御子によって造られたと書いています。ヨハネの福音書は7つの奇跡を骨格にして描かれていますが、その奇跡が主イエスの神性を裏付けています。

第三に、イエスさまの本質は、人です。

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(1:9)
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

この世に<来られた>という表現が9、11、14節と繰り返されています。神の座を捨てて完全な人になられたので、主イエスの皮膚は切れば血が出る体です。人として人の悲しみを感じる繊細な感受性を持つ心をお持ちでした。

第四に、イエスさまの本質は、人を救う方です。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(1:12)

私たちは暗闇に住む者ですが、希望の光を届けるために主イエスは来られました。(5、9節)主イエスを信じる者に神の子となる特権を与えて下さいます。私たちを新しく生まれさせ(13節)、まことのいのちを与える方です。(4節) 

もし、まだ主イエスを信じていないなら、今、心に主イエスをお迎えください。

主イエスを信じている者は、主イエスが<来て下さった>ことを思い巡らしましょう。私たちも誰かのところに行く者として導かれているかもしれません。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(1:16)

□主イエスは、ことば、神、人。
 □いのち、光、救い、を与える主。
 □<来られた方>の跡に従う者になろう。

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