ヨハネの使命は証しすることでした。それは以下の節から明白です。
「この人は証しのために来た」(7節)「証しして、こう叫んだ」(15節)「ヨハネの証しはこうである」(19節)「ヨハネはこのように証しした」(32節)「この方が神の子であると証しをしているのです」(34節)
宗教当局の調査団は、「あなたはどなたですか」(19節)と質問してヨハネがメシア(救い主)かどうかを尋ねました。「私はキリストではありません」(20節)と彼は否定し、エリヤでもない、あの預言者(申命記18:15)でもないと述べ、自分はイザヤが預言した荒野で叫ぶ声に過ぎないと謙虚に述べました。(23節)
ヨハネの福音書では、「バプテスマのヨハネ」という表記が一度もなく、ヨハネとだけ呼んでいます。ラクダの毛皮を着て、野蜜やいなごを食べ、厳しい言葉で悔い改めを迫った彼の活動も書いてありません。それは「声」というヨハネの本質を描きたかったのです。登壇者を紹介するアナウンスと同じで、きちんと紹介すれば声の役割は終わるのです。ヨハネは、自分が主イエスの靴の紐を解く値打ちもない者だと証ししました。私より先におられた方だと紹介しました。そして、最も優れた証しは以下の言葉です。
「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(29節)
ヨハネは主イエスの教えも聞いていないし、奇跡や愛の姿も見ていないのに、主イエスの本質を見抜きました。罪を赦すためにささげられる犠牲の子羊だと悟ったのです。すべての人の罪を赦すために命を捨てる方だと紹介したのです。
世界で最も短い伝道の言葉は「見よ」です。私たちも同じように、主イエスを紹介すればよいのです。知り合いの人を教会の礼拝に誘って下さい。そして「見てください」と言って、賛美や祈りやメッセージの様子を見てもらいましょう。また、その人を笑顔で歓迎してくれる教会員の様子を見てもらいましょう。
私たちは証し人です。証しする人が自意識過剰になることはありません。私たちは「声」なのですから。
ヨハネはヨルダン川で聖霊がイエスさまに降り、留まる様子を目撃し、この方こそ救い主であり、「聖霊によってバプテスマを授ける者である」(33節)と確信しました。
バプティゾーとはギリシア語で水の中に完全に浸すという意味です。その名詞形がバプテスマです。私たちがイエスさまを信じて新しく生まれるということは、罪が赦され、新しい命を頂き、私たちが聖霊の中に完全に浸されることなのです。聖霊によるバプテスマの原意はここにあります。クリスチャンの生き方は、道徳を勉強し、強い精神力で善を行うというものではありません。聖霊に満たされ、聖霊により新しい心や視点や意識や意思や愛が与えられた結果なのです。聖霊との交わりと励ましと支えの中で、あらゆる面に変化が表れ、気がつくとキリストのような姿に変えられていくことなのです。
ヨハネは、罪を悔い改めた者に水のバプテスマを授けていました。それで、聖霊のバプテスマと水のバプテスマが根本的に次元が違うとヨハネ自身が一番理解していたのです。
「それで、この方が神の子であると証しをしているのです」(34節)
□証しのために来たヨハネ
□「見よ」と言おう
□聖霊に導かれた歩みを意識しよう