2024年5月12日日曜日

ヨハネ2:13~25 神殿にて 

さて、ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた。そして、宮の中で、牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを見て、細縄でむちを作って、羊も牛もみな宮から追い出し、両替人の金を散らして、その台を倒し、鳩を売っている者たちに言われた。「それをここから持って行け。わたしの父の家を商売の家にしてはならない。」(ヨハネ2:13~16)

なぜ主イエスは「宮きよめ」をされたのでしょう。
 その後に復活の話をされたのはなぜでしょう。

 主イエスは、神殿のことを「わたしの父の家」と呼びました。ヨハネの福音書の中には「父」という言葉が110回ほどあり新約聖書の三分の一を占めます。「わたしの父」という表現も福音書の中で一番多く21回も出てきます。
 ヨハネの福音書では、主イエスと父なる神の関係が親密であることが繰り返し述べられています。主イエスは、目に見えない父なる神を解き明かす方であり(ヨハネ1:18)、父のお心を一番知っていたお方でした。だから宮きよめという行動をされたのです。

エルサレム神殿の門をくぐると静寂な祈りの場になるはずでした。でも、動物を売る者やローマ硬貨をユダヤの硬貨にする両替商などが広い庭で商売をしており、客を奪い合う喧噪で満ちていました。主イエスは、動物たちを追い立て、机を倒し、商売人たちを門から追い出しました。

主イエスの行動が過激だったので、商売人に殴られ、当局に逮捕される可能性がありました。逮捕されなかったのは主イエスの主張と行動が旧約聖書に照らして正当なものだったからです。「わたしの家はあらゆる民の祈りの家と呼ばれる」(イザヤ56:7)とある通りです。神殿を本来の姿に戻すために主イエスは宮きよめをされたのです。

「わたしの父の家を商売の家にしてはならない」(ヨハネ2:16)という言葉に注目して下さい。ヨハネの福音書では共観福音書に書かれている「祈りの家」という説明がありません。焦点は、罪の赦しの商売化です。罪の赦しという魂に関わる行為を商売にしてはいけない。父なる神の悲しみや憤りを主イエスが汲み取って宮きよめをされたのでしょう。
 本来、自分の犯した罪を悲しみながら神殿まで旅をし、かけがいのない自分の家畜の中から傷のない動物をささげる痛みを経験してこそ真の礼拝、真の悔い改めになるのです。手ぶらでエルサレムまで旅行し、神殿の庭でお金を払ってさっと動物を祭司に渡すようでは、罪の赦しのいけにえ代行業を利用したに過ぎないのです。


イエスは彼らに答えられた。「この神殿を壊してみなさい。わたしは、三日でそれをよみがえらせる。」(ヨハネ2:19)

ヨハネの福音書には、明瞭であっても意味を解読できない主イエスの宣言が何度も出てきます。この言葉もその一つです。
 宮きよめの場にいたユダヤ人達は、何の権威で宮きよめをしたのかと主イエスに抗議しましたが、主イエスは「三日でそれをよみがえらせる」と謎に満ちた答えをされました。人々には理解不能です。十二弟子でさえ、主イエスのすべての活動を見て十字架と復活を経験した後に、やっと意味が分かったのです。

ヘロデ王の指示で作られた巨大な神殿のことではなく、主イエスはご自分のよみがえりを語られたのです。よみがえりの前提は、死ぬということです。主イエスは、人々の罪を赦すために死ぬつもりだとここで暗に語られたのです。(まだ伝道の初期ですから、注意深く十字架の死については秘密にされています)十字架と復活により罪の赦しは完結します。動物のいけにえが無用になることも暗示されています。

それゆえに、主イエスこそが「世の罪を取り除く神の子羊」(1:29)だと分かるのです。

□父の心を解き明かす主イエス
□罪の赦しのために砕かれた心が大切
□私の礼拝にも宮きよめが必要

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