2024年8月25日日曜日

ヨハネ6:22~33 天からのパン

 ヨハネ福音書は一般大衆とイエスさまの議論を詳細に載せています。それはなぜでしょう。

 五千人の給食の翌日、まだ奇跡の興奮も冷めやらぬ時に、人々は主イエスをあちこちと探し回り、主イエスを見つけた時はかなりイラついていました。(ヨハネ6:25)

「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(27節)

人々は食べたらなくなるパンが欲しかったのです。主イエスは、いつまでもなくならないパンを与えたいと願ったのです。それで議論はかみ合いません。

人々は敬虔な問いを発したように見えますが、本音はパンが欲しいだけでした。たとえば、実行する意欲がないのに、神のわざを行いたいが何をしたら良いかと質問しました(28節)。次には、五千人の給食というしるしを見た後であっても、「しるし」を見せてくれればイエスを信じると言いました(30節)。旧約聖書のマナの話などを引用して信仰深そうに装いましたが(31節)、結局、マナの現代版として毎日おいしいパンが食べたいという欲望を述べただけでした。

一般大衆と主イエスの議論が記録された理由の第一は、ヨハネ6章の一般大衆の中にあなた自身を見つけてほしいからです。絵本『ウォーリーを探せ』のようにして探してみましょう。自己中心な人々とは私なのです。
 第二に、主イエスはこのような人々のために十字架にかかられたのです。
 第三に、荒野の誘惑に再び打ち勝たれた主イエスの姿が示されているのです。

「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29節) 「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」(33節)

最後の晩餐の言葉を思い出すと、主イエスがご自分のことをパンだと言われた意味が分かります。これはわたしだ、わたしを食べなさいと十二弟子に言われています。

今日の聖書箇所を読んだ後に、ハイデルベルク信仰問答の第一問を味わうと今日の箇所の理解が深まります。

質問:「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」

答:「私が私自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」(ローマ14:7~8)

私たちが何かを獲得することよりも、私たち自身が主イエスのものとされている事にこそ永遠の価値があり真の幸せがあるのです。

「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)

□パンが欲しいと主イエスを利用する、それが私たち
 □主イエスは、そんな私たちのためにいのちを捨てられた

 □私たちの慰めは、生きていても死んでも主イエスのものであること

2024年8月18日日曜日

ヨハネ6:16~21 湖を歩く 

 ヨハネは7つの奇跡を取り上げ、主イエスが神の子、救い主であることを論証しました。その5番目の奇跡が湖を歩く事でした。
 今回の奇跡は誰かを癒したわけではない、霊的に深い説話をされたのでもない、主イエスが水の上を歩いて来られただけでした。ルカはこの奇跡を載せていません。
 ヨハネはなぜこの奇跡を選んだのでしょう。

 ヨハネ6:16~18を読みましょう。5千人の給食という偉大な奇跡を経験した夜、十二弟子はガリラヤ湖で舟に乗り向こう岸を目指しました。

 東西13キロほどの小さい湖ですが、風が強まり、いくら漕いでも湖の中央付近で進めなくなりました。実は、主イエスは山の上で祈っておられたのです。(マタイ14:23)

そして、二十五ないし三十スタディオンほど漕ぎ出したころ、弟子たちは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6:19~20)

 湖の上を歩く奇跡は五千人の給食の夜なので、マタイ、マルコ、ヨハネは忘れがたい連続した出来事として記録に残しました。ルカは意図的にこの奇跡を省いています。奇跡を見たのは十二弟子だけで、ルカにはその場にいませんでした。ルカの読者である教養あるローマ人はこの奇跡を受け入れないだろうとルカは判断したのでしょう。

では、ヨハネがこの奇跡を5番目の奇跡として選んだのはどうしてなのでしょう。水の上を歩く主イエスの姿が凄まじかったからです。圧倒されたのです。まさに神としての姿だからです。

「神はただひとり、……海の大波を踏みつけられる」(ヨブ記9:8)

もう一点。疲れ果てた時、長くて暗い夜、体も心も弱り果てた時、主イエスが「わたしだ。恐れることはない」と言って下さった事が大きな励ましになったのです。この短い言葉がヨハネの心に染みました。

<わたしだ>と言う言葉は、神がモーセに燃える芝の中でご自分のことを明かされた時と同じでした。「わたしは『わたしはある』という者である」(出エジプト記3:14)

ヨハネのその後の人生で辛い出来事や迫害に遭遇したり、深い孤独感を覚えたり、努力しても物事が好転しない時などに、この時の主イエスの姿と言葉を思い起こし、新たな力をもらったことでしょう。

この苦しみのときに彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から導き出された。主が嵐を鎮められると波は穏やかになった。波が凪いだので彼らは喜んだ。主は彼らをその望む港に導かれた。(詩篇107:28~30)

 

□暗い夜、嵐の日、努力しても前進できない時、あなたは一人ではない、主イエスはあなたのために祈っておられます
□主イエスは湖の上をあるいてあなたに近寄り、「わたしだ、恐れることはない」と言って下さいます

□主イエスはあなたの嵐と波を静めて下さる神です

2024年8月11日日曜日

ヨハネ6:1~15 五つのパン

 偉大な奇跡「五千人の給食」をヨハネの独自視点で見ていきましょう。 

 主イエスは、五つのパンと二匹の魚を受け取り、感謝して祈りをささげ、五千人以上の人に分け与えました。そこにいた人々は全員が食べて満腹し、残った食料は大きな籠十二個がいっぱいになりました。人々はそれを見て、聖書が予告した預言者が来られたと確信し、王になってほしいと期待しました。

 ヨハネの福音書の記述には他の3つの福音書が言及していない独自の視点があります。それは、①主イエスがピリポを試されたこと、②アンデレが動いたこと、③パンと魚を持っていたのが少年だということ、④大麦のパンと小魚だった点です。

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:5~6)

主イエスはピリポにどこからパンを買うべきかを尋ねました。それは、主イエスが彼を試みるためでした。ある程度の負荷は、その人が成長するきっかけになります。主イエスは素晴らしいラストシーンをすでに用意しておられました。

主イエスは今日も、私たちに言われます。「どこからパンを買って来てこの人たちに食べさせようか」あなたにとって、群衆とは何ですか。あなたの本当の問題は経済的な問題ですか。

 ピリポは賢いので素早く計算しました。でも、経済的なことだけにとらわれて、考える幅が狭かったのです。ところがアンデレはピリポと違いお金の問題に終始せず、別な角度で取り組み、とにかく体を動かし、人々に声をかけました。

 あなたはピリポ型ですか、アンデレ型ですか。

「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」(ヨハネ6:9)

五千人の食料の足しにはなりませんが、アンデレは一人の少年が持っていたお弁当に注目しました。大麦のパンは貧しい人のパンです。ヨハネが使った「魚」という用語は他の箇所で使われる一般的な魚(イクスース)という用語でなく、小魚(オプサリオン)でした。その上、それを持っていたのが少年だったのです。

あなたがその場にいたら、その少年に目を留めますか。少年を主イエスのもとに連れて行きますか。この奇跡は、今日も私たちにチャレンジしています。

⇒お金だけが解決方法ではない。
⇒あなたを助けてくれる誰かがいるので探しに出なさい。
⇒わずかなものであっても、主の手にささげるなら大きく用いられる。

 後にパリサイ人や祭司たちもこの奇跡について何も批判していません。そのパンを食べた証人が五千人もいたので、何も言えないのです。主イエスは、大勢いてもすべての人を気遣う方です。人々に健康や命を与える方です。わずかなものであっても主イエスにささげる人は豊かに用いられます。

 □私たちを豊かにする試み 
 □一つの考えにとらわれず、角度を変え前向きに

 □わずかなものでも、小さな私自身も、主にささげよう

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...