2024年8月11日日曜日

ヨハネ6:1~15 五つのパン

 偉大な奇跡「五千人の給食」をヨハネの独自視点で見ていきましょう。 

 主イエスは、五つのパンと二匹の魚を受け取り、感謝して祈りをささげ、五千人以上の人に分け与えました。そこにいた人々は全員が食べて満腹し、残った食料は大きな籠十二個がいっぱいになりました。人々はそれを見て、聖書が予告した預言者が来られたと確信し、王になってほしいと期待しました。

 ヨハネの福音書の記述には他の3つの福音書が言及していない独自の視点があります。それは、①主イエスがピリポを試されたこと、②アンデレが動いたこと、③パンと魚を持っていたのが少年だということ、④大麦のパンと小魚だった点です。

イエスは目を上げて、大勢の群衆がご自分の方に来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人たちに食べさせようか。」イエスがこう言われたのは、ピリポを試すためであり、ご自分が何をしようとしているのかを、知っておられた。(ヨハネ6:5~6)

主イエスはピリポにどこからパンを買うべきかを尋ねました。それは、主イエスが彼を試みるためでした。ある程度の負荷は、その人が成長するきっかけになります。主イエスは素晴らしいラストシーンをすでに用意しておられました。

主イエスは今日も、私たちに言われます。「どこからパンを買って来てこの人たちに食べさせようか」あなたにとって、群衆とは何ですか。あなたの本当の問題は経済的な問題ですか。

 ピリポは賢いので素早く計算しました。でも、経済的なことだけにとらわれて、考える幅が狭かったのです。ところがアンデレはピリポと違いお金の問題に終始せず、別な角度で取り組み、とにかく体を動かし、人々に声をかけました。

 あなたはピリポ型ですか、アンデレ型ですか。

「ここに、大麦のパン五つと、魚二匹を持っている少年がいます。でも、こんなに大勢の人々では、それが何になるでしょう。」(ヨハネ6:9)

五千人の食料の足しにはなりませんが、アンデレは一人の少年が持っていたお弁当に注目しました。大麦のパンは貧しい人のパンです。ヨハネが使った「魚」という用語は他の箇所で使われる一般的な魚(イクスース)という用語でなく、小魚(オプサリオン)でした。その上、それを持っていたのが少年だったのです。

あなたがその場にいたら、その少年に目を留めますか。少年を主イエスのもとに連れて行きますか。この奇跡は、今日も私たちにチャレンジしています。

⇒お金だけが解決方法ではない。
⇒あなたを助けてくれる誰かがいるので探しに出なさい。
⇒わずかなものであっても、主の手にささげるなら大きく用いられる。

 後にパリサイ人や祭司たちもこの奇跡について何も批判していません。そのパンを食べた証人が五千人もいたので、何も言えないのです。主イエスは、大勢いてもすべての人を気遣う方です。人々に健康や命を与える方です。わずかなものであっても主イエスにささげる人は豊かに用いられます。

 □私たちを豊かにする試み 
 □一つの考えにとらわれず、角度を変え前向きに

 □わずかなものでも、小さな私自身も、主にささげよう

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