ヨハネ福音書は一般大衆とイエスさまの議論を詳細に載せています。それはなぜでしょう。
五千人の給食の翌日、まだ奇跡の興奮も冷めやらぬ時に、人々は主イエスをあちこちと探し回り、主イエスを見つけた時はかなりイラついていました。(ヨハネ6:25)
「なくなってしまう食べ物のためではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。それは、人の子が与える食べ物です。この人の子に、神である父が証印を押されたのです。」(27節)
人々は食べたらなくなるパンが欲しかったのです。主イエスは、いつまでもなくならないパンを与えたいと願ったのです。それで議論はかみ合いません。
人々は敬虔な問いを発したように見えますが、本音はパンが欲しいだけでした。たとえば、実行する意欲がないのに、神のわざを行いたいが何をしたら良いかと質問しました(28節)。次には、五千人の給食というしるしを見た後であっても、「しるし」を見せてくれればイエスを信じると言いました(30節)。旧約聖書のマナの話などを引用して信仰深そうに装いましたが(31節)、結局、マナの現代版として毎日おいしいパンが食べたいという欲望を述べただけでした。
一般大衆と主イエスの議論が記録された理由の第一は、ヨハネ6章の一般大衆の中にあなた自身を見つけてほしいからです。絵本『ウォーリーを探せ』のようにして探してみましょう。自己中心な人々とは私なのです。
第二に、主イエスはこのような人々のために十字架にかかられたのです。
第三に、荒野の誘惑に再び打ち勝たれた主イエスの姿が示されているのです。
「神が遣わした者をあなたがたが信じること、それが神のわざです。」(29節) 「神のパンは、天から下って来て、世にいのちを与えるものなのです。」(33節)
最後の晩餐の言葉を思い出すと、主イエスがご自分のことをパンだと言われた意味が分かります。これはわたしだ、わたしを食べなさいと十二弟子に言われています。
今日の聖書箇所を読んだ後に、ハイデルベルク信仰問答の第一問を味わうと今日の箇所の理解が深まります。
質問:「生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか?」
答:「私が私自身のものではなく、身も魂も、生きるにも死ぬにも、私の真実な救い主イエス・キリストのものであることです。」(ローマ14:7~8)
私たちが何かを獲得することよりも、私たち自身が主イエスのものとされている事にこそ永遠の価値があり真の幸せがあるのです。
「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。」(6:35)
□パンが欲しいと主イエスを利用する、それが私たち
□主イエスは、そんな私たちのためにいのちを捨てられた
□私たちの慰めは、生きていても死んでも主イエスのものであること