2024年9月22日日曜日

ヨハネ7:25~36 遣わされた意識

主イエスは秋の仮庵の祭りに参加され、エルサレムの神殿で教えておられました。
 その様子を見て批判する人もいれば、救い主の到来を喜ぶ大勢の庶民もいました。ユダヤ当局は主イエスの人気に苛立ち逮捕を画策しましたが実現できません。十字架が翌年の春となるこの時期、主イエスがどんな心で過ごされたのかが分かるのが今日の箇所です。主イエスが持っておられたのは「遣わされた」という強い自覚でした。

見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。(ヨハネ7:26)

 エルサレムの意識の高い人々は、議会当局が主イエスを救い主として公認したのかと驚いていました。彼らは、主イエスがナザレから出て来た庶民だと知っていたので、いぶかっていました。主イエスは28~29節で、彼らが何も知らないことを指摘した上で、ご自分が父なる神から遣わされたという点を強調されました。それを聞いた彼らは主イエスを捕らえようとしましたができません。「イエスの時がまだ来ていなかったから」(30節)でした。

あなたにもこの原則は適用できます。神の時が来なければ、捕まりませんし、死にません。「ですから私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」(ヘブル13:6)とある通りです。

 

 群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。(7:31)

 最初の人々とは別に、むしろ大勢の人々は主イエスの奇跡に感銘を受け、イエスさまこそ救い主と歓迎していました。祭司長とパリサイ人は、主イエスの人気の高まりを危惧し、下役を派遣して逮捕させようとしました。(32節)その結果は、45~46節にあるように、下役たちは主イエスの素晴らしさに感銘を受け、手ぶらで戻りました。

 

 主イエスは33~36節で<遣わされている>ことに再度言及され、やがては遣わされた父のもとに帰ると言われました。これを聞いた人々は混乱し、主イエスはどこに行かれるのか、ギリシア人の所に行くのかなど、理解不能に陥りました。

 「遣わされた」という言葉に注目しましょう。ヨハネの福音書の中には、父に遣わされたという言及が35回ほどあり、その中の「遣わされた方」という表現は16回もあります。他の福音書にはほとんどありません。

・遣わされた方のみこころを行う(ヨハネ6:38)

・わたしを信じる事は遣わされた方を信じる事(12:44)

・わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見る(12:45)

・あなたがたが聞いている言葉はわたしを遣わされた方の言葉(14:24)

 主イエスの心の中にあるのは、父なる神から遣わされたという強い自覚です。主イエスがすることは父の願いであり、主イエスの言葉は父なる神が語りたい言葉であり、主イエスの示す愛は父なる神の愛なのです。主イエスはこの地上におられた時は父と共に歩まれ、そして使命を終えたなら父のもとに帰られるのです。

 主イエスの生き方は私たちのモデルです。私たちも神に命を頂きこの世に遣わされました。そして神と共に歩み、神のみこころを行い、そして神に帰ります。

そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。(7:33)

 

□主イエスは父なる神に遣わされたお方
 □主イエスの言葉、行動、愛と十字架は父のみこころの実現

 □神の時が来なければ、捕まらない、死なない、倒れない

2024年9月15日日曜日

時を見る目

 ヨハネ7章には、主イエスが仮庵の祭りに参加した時のもやもやした空気感が描かれています。ここには大きな奇跡や病人の癒しはなく、身内による冷ややかな批判、当局による重苦しい監視の目、迫りくる殺意が宙ぶらりんのままで記録されています。その中で、主イエスはご自分の時(6節)を見極めようとされていました。

主イエスの活動の三年目の春、過ぎ越しの祭り(6:4)の頃に五千人の給食が行われました。同じ年の秋の仮庵の祭り(7:2)が今回の出来事になります。

「自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うのなら、自分を世に示しなさい。」兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(4~5節)

主イエスの弟たちの目は開かれていなくて、エルサレムでデビューするように主イエスを無理強いしました。この翌年、使徒1:14によると、弟たちは十字架からペンテコステの間に主イエスを救い主として信じることになります。

主イエスは、願いがかなわない中途半端な気持ちや、肉親に批判される居心地の悪さを体験しておられました。

主イエスは置かれている状況を総合判断して、

「わたしの時はまだ来ていません」(7:6)

「わたしの時はまだ満ちていない」(7:8)

と結論づけました。今回の仮庵の祭りは命をささげる時ではないと判断され、時期を待つことにされました。
 私たちも時を見極める目が必要です。止める。進む。待つ。みことばに支えられ、祈りの中で主の導きを求めて時を判断しましょう。

主イエスは熟慮の結果、仮庵の祭りに参加することにしました。約1週間行われる祭りの後半、神殿で神の言葉を語られました。宗教当局の監視の目の厳しさを感じて、人々は表立って主イエスのことを話せない空気でした。(11~13節)

主イエスの教えは今回も評判(14~15節)になりました。父なる神の栄誉だけを求める姿勢(18節)が印象的でした。

 宗教指導者たちが律法から離れ人為的な枝葉ルール順守で汲々となり、結局は律法を守っていないと主イエスは批判されました。(19節)また、律法学者は安息日に割礼という仕事をしているのに、主イエスが安息日に病人を癒すことを非難している事を指摘。うわべでさばかず、本質を見るべきだ(24節)と主は言われました。

今日の出来事の半年後の春、過ぎ越しの祭り(11:55)の時に、主イエスはこう言われました。

「父よ、時が来ました」(17:1)

そして、主イエスは十字架で命をおささげになりました。

「私の時は御手の中にあります。」(詩篇31:15)


□私たちの人生は、北風、宙ぶらりん、もやもやの中
□だから私たちには主イエスの光と励ましが必要

□私の時がいつなのかを見極め、止まる、進む、待つを決めよう

2024年9月7日土曜日

ヨハネ6:52~71 離れ去る人々

 主イエスは五千人にパンを与えました。それは何のためだったのでしょう? 

五千人の給食の翌日、大勢の人が集まり主イエスを探しました。(ヨハネ6:22)それは、前日にパンを食べておいしかったからです。食べたら満腹になり、嬉しくなり、元気が出たのです。彼らは無意識のうちに主イエスのいのちを体験していたのです。

主イエスが与えたパンは永遠のいのちの前味を体験させるためだったのです。

生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。(ヨハネ6:57)

主イエスは願っていました。主イエスを信じてほしかったのです。昨日、自分の口でパンを食べたように、主イエスを信じてほしかったのです。そうすれば永遠のいのちを得ることができるからです。

私たち人間は、自分の体温を保ちつつ活動するためのエネルギー源としてアデノシン三リン酸を吸収するために植物や動物を食します。また、私たちの皮膚や筋肉や骨や血液を作るたんぱく質を構成する20種類のアミノ酸を必要としますが、そのうち9つのアミノ酸は人間の体内では作る事ができないので、植物や動物から取り入れないといけません。

私たちのいのちは、植物や動物のいのちを頂いて初めて生きることができるのです。それと同じように、私たちは主イエスのいのちを頂いて永遠のいのちを得ることができるのです。

今日の箇所では、天から下って来たパンを食べるという意味が生々しく説明されています。主イエスが与えようとしている永遠のいのちとは、イエスさまのいのちによってもたらされるものです。この説明は、十字架の予告であると現代の私たちには分かりますが、この時点ではそれは明らかになっていません。主イエスの血を飲み、肉を食べるとは、主イエスを信じることを意味し、主イエスが投げ出されたいのちをしっかりと受けるということです。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。(ヨハネ6:53~54)

 これを聞いて「弟子のうちの多くの者」が一気に冷めてしまいました。ついて行けない、ありえないと憤り、最終的には多くの者が離れ去りました。(66節)真の弟子というより、主イエスのファンというレベルの人たちなのでしょう。

律法には、血のついたままの肉は食べてはならないとあるので(レビ記17:14)、ユダヤ人たちは主イエスの言葉を生理的に拒否したのでしょう。

 主イエスのスタンスは、来る者拒まず、去る者追わず、です。主イエスは、離れ行く人を無理に引き留めません。ユダのような裏切り者さえ除外しません。(70~71節)

ペテロも人に流されません。主イエスの教える永遠のいのちを受け止め、主イエスについて行きますと述べました。

すると、シモン・ペテロが答えた。「主よ、私たちはだれのところに行けるでしょうか。あなたは、永遠のいのちのことばを持っておられます。私たちは、あなたが神の聖者であると信じ、また知っています。」(68~69節)

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもその人のうちにとどまります。(ヨハネ6:56)

五千人の給食の目的が分かりました。パンを食べて喜んだ人々に、もっとすばらしいパンがあることを教えるためでした。それは、永遠のいのちです。そのパンを食べるには主イエスの肉を食べ血を飲むことが必要でした。それによって、私たちはずっと主イエスのいのちに包まれ守られることになるのです。

□主イエスは、血を流し、肉を裂いて、ご自身のいのちを私たちに下さった
□イエスさまのいのちが、今も、ずっと、私たちの中に生きている

2024年9月1日日曜日

ヨハネ6:34~51 永遠のいのち 

 まことに、まことに、あなたがたに言います。信じる者は永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:47)

 今日は、永遠のいのちについて考えましょう。
 「永遠のいのち」という言葉は共観福音書に各3回程度しか登場しません。ヨハネの福音書では17回も使われています。それは、ヨハネの福音書が他の福音書と強調点が違い、イエスさまと私たちとの関係性に焦点を当てているからです。

言い換えるなら、主イエスさまをどのように信じたらよいか、信じた人にはどんな祝福が与えられるのかがヨハネの福音書で詳しく語られています。今日の箇所では、主イエスが永遠のいのちについて繰り返し語り(40節、44節、47節、51節)、信じる者に永遠のいのちを与えようとしていることが分かります。

イエスさまはご自分が天から下って来た「いのちのパン」(ヨハネ6:35)であると語られました。人々は明日のパンがほしいだけなので、議論は空転して平行線のまま終わってしまいました。34~40節は永遠のいのちについての主イエスの説明。41~42節は、天から下ったパンとは理解できず批判する人々の声。43~51節では、父なる神に導かれる人は主イエスの語ることを理解できると語られました。

 主イエスを信じたあなたに質問します。あなたは永遠のいのちを持っていますか。永遠のいのちはあなたにとって意味がありますか。永遠のいのちをリアルなものと感じていますか。あなたの臨終が近づいた時に永遠のいのちの理解は役にたちますか。

 永遠のいのちを理解するために主イエスが語られた39~40節に注目して下さい。

わたしを遣わされた方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしが一人も失うことなく、終わりの日によみがえらせることです。
 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせることなのです。(39~40節)

街頭で宣伝用ティッシュペーパーを受け取ることがありますが、特段の喜びもなくポケットやバッグに入れます。信じた者に与えられた永遠のいのちという祝福も、ティッシュ小袋程度の認識の人がいます。

主イエスは重大なことを言われたのです。永遠のいのちを持つことは、父なる神のみこころなのです。愛に満ちた父なる神が私たちのために準備しておられる新たないのちなのです。全宇宙と私たちを創造された全能者が、永遠のいのちを与えるとお決めになったのです。永遠のいのちは、父なる神がご計画された救いの中心的祝福なのです。

ヨハネは、永遠のいのちを「持つ」と説明しました。ヨハネは福音書だけではなくその手紙においても、「永遠のいのちを持っていることを、あなた方に分からせるためです」(第一ヨハネ5:13)と書いています。永遠のいのちはしっかりと持つことができるものなのです。

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。そして、わたしが与えるパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。(6:51)

 永遠のいのちは父なる神が用意された素晴らしいギフトです。

 「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」(ローマ6:23)

 □主イエスは天から下って来たまことのいのちのパン
 □主イエスを信じた者は、永遠のいのちを持っている

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...