主イエスは秋の仮庵の祭りに参加され、エルサレムの神殿で教えておられました。
その様子を見て批判する人もいれば、救い主の到来を喜ぶ大勢の庶民もいました。ユダヤ当局は主イエスの人気に苛立ち逮捕を画策しましたが実現できません。十字架が翌年の春となるこの時期、主イエスがどんな心で過ごされたのかが分かるのが今日の箇所です。主イエスが持っておられたのは「遣わされた」という強い自覚でした。
見なさい。この人は公然と語っているのに、彼らはこの人に何も言わない。もしかしたら議員たちは、この人がキリストであると、本当に認めたのではないか。(ヨハネ7:26)
エルサレムの意識の高い人々は、議会当局が主イエスを救い主として公認したのかと驚いていました。彼らは、主イエスがナザレから出て来た庶民だと知っていたので、いぶかっていました。主イエスは28~29節で、彼らが何も知らないことを指摘した上で、ご自分が父なる神から遣わされたという点を強調されました。それを聞いた彼らは主イエスを捕らえようとしましたができません。「イエスの時がまだ来ていなかったから」(30節)でした。
あなたにもこの原則は適用できます。神の時が来なければ、捕まりませんし、死にません。「ですから私たちは確信をもって言います。『主は私の助け手。私は恐れない。人が私に何ができるだろうか。』」(ヘブル13:6)とある通りです。
群衆のうちにはイエスを信じる人が多くいて、「キリストが来られるとき、この方がなさったよりも多くのしるしを行うだろうか」と言い合った。(7:31)
最初の人々とは別に、むしろ大勢の人々は主イエスの奇跡に感銘を受け、イエスさまこそ救い主と歓迎していました。祭司長とパリサイ人は、主イエスの人気の高まりを危惧し、下役を派遣して逮捕させようとしました。(32節)その結果は、45~46節にあるように、下役たちは主イエスの素晴らしさに感銘を受け、手ぶらで戻りました。
主イエスは33~36節で<遣わされている>ことに再度言及され、やがては遣わされた父のもとに帰ると言われました。これを聞いた人々は混乱し、主イエスはどこに行かれるのか、ギリシア人の所に行くのかなど、理解不能に陥りました。
「遣わされた」という言葉に注目しましょう。ヨハネの福音書の中には、父に遣わされたという言及が35回ほどあり、その中の「遣わされた方」という表現は16回もあります。他の福音書にはほとんどありません。
・遣わされた方のみこころを行う(ヨハネ6:38)
・わたしを信じる事は遣わされた方を信じる事(12:44)
・わたしを見る者はわたしを遣わされた方を見る(12:45)
・あなたがたが聞いている言葉はわたしを遣わされた方の言葉(14:24)
主イエスの心の中にあるのは、父なる神から遣わされたという強い自覚です。主イエスがすることは父の願いであり、主イエスの言葉は父なる神が語りたい言葉であり、主イエスの示す愛は父なる神の愛なのです。主イエスはこの地上におられた時は父と共に歩まれ、そして使命を終えたなら父のもとに帰られるのです。
主イエスの生き方は私たちのモデルです。私たちも神に命を頂きこの世に遣わされました。そして神と共に歩み、神のみこころを行い、そして神に帰ります。
そこで、イエスは言われた。「もう少しの間、わたしはあなたがたとともにいて、それから、わたしを遣わされた方のもとに行きます。(7:33)
□主イエスは父なる神に遣わされたお方
□主イエスの言葉、行動、愛と十字架は父のみこころの実現
□神の時が来なければ、捕まらない、死なない、倒れない