「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」(ヨハネ8:30)
主イエスを信じる人が多く起こされたと書いてあります。なぜ、人々はイエスさまを信じたのでしょうか。大きな奇跡ありません。山上の教えや感動的なたとえ話も主イエスは話しておられません。
第一に、そのままでは罪の中で死ぬという主イエスの警告が原因です。第二は、イエスさまが<わたしはあるという者である>とご自分の本質を語られたからです。
イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(8:21)
ある人は、主イエスが自殺するのかと考えたほど(22節)理解が追い付きませんでした。主イエスはご自分が死んだ後に行く場所を知っておられました。主イエスは人々をその良い場所に招きたかったのです。でも、それはできないときっぱりと言われました。この警告が人々の心に強く刺さったのです。罪の中で死にたくない。罪を持ったまま滅びたくないと聴衆は強く思ったので主イエスを信じたのです。
ある人は、親しい人の死に接して神を求め始めます。また、ある人は自分の死を身近に感じる病気や事故などの経験によって、生死を貫く真理、まことの救いを求めます。あなたはどうでしょう。自分の罪が解決されないまま死ぬのは嫌だと多くの人が感じます。
それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(8:24)
<わたしが「わたしはある」である>。この言葉は、旧約聖書の中で特に大事なフレーズです。モーセが燃える芝で神と出会った時、神がご自身の名前を明らかにされた時の言葉です。出エジプト記3:14だけで用いられ、あまりにも重要なので引用すらされません。
神は、他の何によっても造られたことがないお方。神は誰とも比べられない独自なお方。神は永遠に存在される方。
この重要な言葉が、ヨハネ8:24、8:28、8:58、13:19で用いられています。しかも、すべて主イエスがご自分の本質の説明として語られています。
人々は、主イエスのこの大胆な言葉を驚きと感動を持って受け入れました。主イエスという方の大きなスケールを実感して信じたのでしょう。そして、神だけが罪を赦すことができるという事を人々は知っていたのでしょう。
ヨハネの福音書の1章において主イエスが神であることが静かに力強く語られていますが、20章はヨハネの福音書の結論部分と言えます。その中心はトマスの信仰告白です。
復活の主にお会いできなかったトマスは、主イエスの手に釘の痕を見なければ復活を信じないと述べました。それを聞いておられた主イエスは、1週間後に現れ、手と脇腹の傷を彼にお示しになりました。トマスがそこで語った言葉は「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)でした。主イエスを神と最初に告白したのはトマスだったのです。
□主イエスは良い場所に私たちを招いておられる。
□罪の中で死にたくないなら主イエスを信じよう。
□主イエスは、「わたしはある」と言えるまことの神です。