2024年11月24日日曜日

ヨハネ9:1~12 神のわざ   

弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」(ヨハネ9:2)

 なぜ弟子たちはこんな失礼な質問をしたのでしょう。

その盲人の様子が特に悲惨だったのかもしれません。彼の今の不幸は過去に起因していると弟子たちは考え、興味本位に原因を詮索し、最終的には運命を甘んじて受け入れるしかないと言いたげです。 
 もし親の罪のせいなら、盲人は親を憎んで生きることになります。自分の罪の結果なら、自分を責めるか、社会に責任転嫁するか、自暴自棄になるしか道はありません。

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネ9:3)

主イエスはまったく違う視点を持っておられました。未来志向です。希望を提示されています。弱さや欠点と見える部分にこそ神が働いて下さると言うのです。悲惨と見える盲人に神は栄光を現わそうとしておられると断言されました。

あなたには弱さがありますか。
 生まれつきの問題がありますか。外見を含めた身体的なもの、能力的なもの、人柄や精神的な部分、今までの人生でのつまずきや失敗、お金がない、年齢、仕事、家族の事など様々な弱さがあると思います。
 その弱さの中に神は驚くべきわざをしようと計画されています。

イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。(ヨハネ9:6~7)

盲人は主イエスから最小限の説明を受け、それに納得したので目に泥を塗ってもらったはずです。癒される事を望んだので池に行って目を洗ったのです。ただし、今回の聖書箇所には、盲人と主イエスとの具体的な会話は記録されていません。

つまり、神のわざに焦点が当たっているのです。注目すべきは盲人の信仰ではなく、確かに神が働かれたという事実なのです。

エルサレムにはギホンの泉があり、その水は水路でシロアムの池に注がれていました。盲人は、そこまで階段や坂道を下って行き、目を洗いました。シロアムは「遣わされた者」という意味がああり、父から遣わされた意識を強く持たれた主イエス(ヨハネ8:42)と重なっていて、父から遣わされた救い主によって癒されたと読めるのです。

近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。(ヨハネ9:8~9)

人々は盲人が癒された事を喜んだり神をたたえたりせず、逆にいぶかしく思いました。盲人の姿勢が良くなり、笑顔になり、明るい声になっていたので、盲人の物乞いには見えなかったのでしょう。確かに本人だと分かった後、人々はどのようにして癒されたのかと尋ねました。盲人は、起きた事実を説明しました。つまり、神のわざが語られたのです。

ウイリアム・バークレーの次のような言葉は意義深いです。
 人にとって最も大切な日が二つある。
 生まれた日。そして、生まれた意味を悟った日。

あなたが欠点と思っている部分は、親のせいではありません、あなたの努力不足のせいでもありません。神のわざはそこに現れます。あなたも主イエスを信頼して未来志向で生きて行きましょう。

□盲目に生まれたのは、本人や親の罪のせいではない
□神のわざが人の弱さに現れる
□行ってシロアムの池で洗いましょう

2024年11月17日日曜日

ヨハネ8:48~59 死を見ることがない

 7章から8章にかけて、仮庵の祭りに集まったユダヤ人と主イエスは神殿において長い議論をされていましたが、今回で終了です。

 ユダヤ人たちはイエスさまの言葉に反発してついに人格攻撃を始め、イエスが悪霊につかれていると悪口を言い出しました。

主イエスはそれをきっぱりと否定。悪霊とではなく、父なる神と深い関わりを持っていると述べました。主イエスはご自身を批判するユダヤ人にさえ、死に打ち勝つ道があることを明らかにされました。

「まことに、まことに、あなたがたに言います。
 だれでもわたしのことばを守るなら、
 その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」(ヨハネ8:51)

これは以前、ガリラヤの人々に語った言葉に似ています。「子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持ち、わたしがその人を終わりの日によみがえらせる」(ヨハネ6:40)

主イエスが私たちに提供された救いの両輪は、罪の赦しと永遠の命です。私たちの過去の最大問題である罪を主は十字架において解決して下さいました。そして、将来誰にでもやって来る死への恐れをも取り除いて下さったのです。

 ユダヤ人たちは激高しました。偉大なアブラハムも死んだというのに、主イエスの言葉を守れば死なないと約束する。そんなあなたはいったい誰なのかと。

「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見るようになることを、大いに喜んでいました。そして、それを見て、喜んだのです。」(56節)

 アブラハムはこんな日が来るのを喜んでいたと主イエスは述べました。ユダヤ人はその発言にあきれ、50歳にもならない主イエスに何が分かるか、アブラハムを見たはずがないのにと詰め寄りました。

イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』なのです。」(58節)

 主イエスは、アブラハムの生まれる前から存在していたと語りました。しかも「わたしはある」という神独特の自己啓示の言葉をあえて使って答えられました。ユダヤ人はこれを冒涜とみなし、石打ちにしようとしました。主イエスがご自分を神と等しくされたからです。
 主イエスは神殿を去りました。皮肉な事に神が神殿を追われたことになりました。

 58節で主イエスが神であると言われた事を唐突に感じる人がいるかもしれませんが、理由があります。死を乗り越える根拠を明らかにされたのです。主イエスがまことの神であるから主イエスの言葉を守る者に死の解決を与えることができるのです。

 旧約聖書に登場したエノクが特別な方法で天に移されたことは、私たちへの励ましになります。

信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。(ヘブル11:5)

信仰者は、永遠のいのちについての理解を日々深めていきましょう。他人からの受け売りでなく、聖書の言葉を土台として心の深い部分で確信を持ちましょう。具体的な死が近づき、身体的な回復が困難になり、痛みや熱や呼吸困難や不快感に包まれる時も、「わたしのことばを守るなら、その人はいつまでも決して死を見ることがありません。」との約束をしっかりと握ることができます。主イエスは真実で愛に満ちたお方で、死を経験し復活されたお方で、約束を守られるお方です。

□主イエスの言葉にとどまる者は誰も、死を見ることはない
□主イエスはまことの神、アブラハムの生まれる前からおられた

2024年11月11日月曜日

ヨハネ8:31~47 自由にする 

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「あなたがたは、わたしのことばにとどまるなら、本当にわたしの弟子です。あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:31~32)

 これが今回の中心聖句です。主イエスを信じた人にその時だけの一時的な信仰決心で終わらせず、ずっと信じていてほしいと主イエスは願いました。主イエスの弟子として生きてほしいと主イエスは期待しておられます。そうすれば、真理が分かり、束縛から解放されて自由になるからです。

 これを聞いたユダヤ人は、33、39、41節で反発しました。
「私たちはアブラハムの子孫であって、今までだれの奴隷になったこともありません。」
「私たちの父はアブラハムです。」 
「私たちにはひとりの父、神がいます。」

 自分たちは誰の奴隷にもなっていないから自由にされる必要はないとユダヤ人は反論しました。アブラハムを祖先とする血筋が自分たちを守ると考えたからです。

 頑強な反論を受けたので主イエスの語調は強くなりました。まず34節で、自分がしたくない罪を行っている現状こそが罪の奴隷状態だと指摘されました。

 さらに44~45節によると、ユダヤ人たちが「父」と呼んでいる存在は本当は悪魔なのだと解明されました。悪魔の本質とは何でしょう。①人殺し。②真理なし。③偽り。

悪魔は反対者を排除するために暴力を使います。その究極は殺人です。ユダヤ人当局者が主イエスを殺そうとするのはそうした表れです。(37~38節)悪魔に真理は無く、空っぽです。あるのは自己顕示や欲望追求です。そして、人々を洗脳し誘導するために平気で嘘をつきます。悪魔の影響下にある人々は悪魔に似てきます。

 神から出た者は、神のことばに聞き従います。ですから、あなたがたが聞き従わないのは、あなたがたが神から出た者でないからです。(8:47)

 

31~32節の中心聖句に戻りましょう。 
 信じた人は救われます。でも信じただけの人だけでは社会を変える力にならないのです。
 世界は主イエスの弟子を必要としています。
 聖書を読み、主イエスの言葉を注意深く聞き取り自分の内に蓄えましょう。そして、主イエスの言葉を実行しましょう。それが主イエスの弟子の生き方です。福音を伝え、神の栄光をあらわし、神の国を実現するために、主イエスの弟子が用いられるのです。

学生応援団の人たちは、何点差で負けていても応援を続けます。大量得点差で引き離されても、選手が戦意喪失したとしても、応援団は決してあきらめません。主イエスは「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)と言われました。主イエスは私たちが主イエスの弟子になることを期待し応援を続けておられるのです。主の弟子になりましょう。その応援に応えて主イエスの言葉にとどまり続けましょう。

「わたしにとどまりなさい。」(ヨハネ15:4)

□主イエスのことばにとどまろう。
□主イエスの真理が私たちを解放する。
□主イエスの弟子になろう。

2024年11月4日月曜日

ヨハネ8:21~30 上から来た 

 「イエスがこれらのことを話されると、多くの者がイエスを信じた。」(ヨハネ8:30)

主イエスを信じる人が多く起こされたと書いてあります。なぜ、人々はイエスさまを信じたのでしょうか。大きな奇跡ありません。山上の教えや感動的なたとえ話も主イエスは話しておられません。

第一に、そのままでは罪の中で死ぬという主イエスの警告が原因です。第二は、イエスさまが<わたしはあるという者である>とご自分の本質を語られたからです。

イエスは再び彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜しますが、自分の罪の中で死にます。わたしが行くところに、あなたがたは来ることができません。」(8:21)

ある人は、主イエスが自殺するのかと考えたほど(22節)理解が追い付きませんでした。主イエスはご自分が死んだ後に行く場所を知っておられました。主イエスは人々をその良い場所に招きたかったのです。でも、それはできないときっぱりと言われました。この警告が人々の心に強く刺さったのです。罪の中で死にたくない。罪を持ったまま滅びたくないと聴衆は強く思ったので主イエスを信じたのです。

ある人は、親しい人の死に接して神を求め始めます。また、ある人は自分の死を身近に感じる病気や事故などの経験によって、生死を貫く真理、まことの救いを求めます。あなたはどうでしょう。自分の罪が解決されないまま死ぬのは嫌だと多くの人が感じます。

それで、あなたがたは自分の罪の中で死ぬと、あなたがたに言ったのです。わたしが『わたしはある』であることを信じなければ、あなたがたは、自分の罪の中で死ぬことになるからです。」(8:24)

 <わたしが「わたしはある」である>。この言葉は、旧約聖書の中で特に大事なフレーズです。モーセが燃える芝で神と出会った時、神がご自身の名前を明らかにされた時の言葉です。出エジプト記3:14だけで用いられ、あまりにも重要なので引用すらされません。

神は、他の何によっても造られたことがないお方。神は誰とも比べられない独自なお方。神は永遠に存在される方。

この重要な言葉が、ヨハネ8:24、8:28、8:58、13:19で用いられています。しかも、すべて主イエスがご自分の本質の説明として語られています。

人々は、主イエスのこの大胆な言葉を驚きと感動を持って受け入れました。主イエスという方の大きなスケールを実感して信じたのでしょう。そして、神だけが罪を赦すことができるという事を人々は知っていたのでしょう。

ヨハネの福音書の1章において主イエスが神であることが静かに力強く語られていますが、20章はヨハネの福音書の結論部分と言えます。その中心はトマスの信仰告白です。

復活の主にお会いできなかったトマスは、主イエスの手に釘の痕を見なければ復活を信じないと述べました。それを聞いておられた主イエスは、1週間後に現れ、手と脇腹の傷を彼にお示しになりました。トマスがそこで語った言葉は「私の主、私の神」(ヨハネ20:28)でした。主イエスを神と最初に告白したのはトマスだったのです。

□主イエスは良い場所に私たちを招いておられる。
□罪の中で死にたくないなら主イエスを信じよう。
□主イエスは、「わたしはある」と言えるまことの神です。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...