弟子たちはイエスに尋ねた。「先生。この人が盲目で生まれたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。両親ですか。」(ヨハネ9:2)
なぜ弟子たちはこんな失礼な質問をしたのでしょう。
その盲人の様子が特に悲惨だったのかもしれません。彼の今の不幸は過去に起因していると弟子たちは考え、興味本位に原因を詮索し、最終的には運命を甘んじて受け入れるしかないと言いたげです。
もし親の罪のせいなら、盲人は親を憎んで生きることになります。自分の罪の結果なら、自分を責めるか、社会に責任転嫁するか、自暴自棄になるしか道はありません。
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。この人に神のわざが現れるためです。(ヨハネ9:3)
主イエスはまったく違う視点を持っておられました。未来志向です。希望を提示されています。弱さや欠点と見える部分にこそ神が働いて下さると言うのです。悲惨と見える盲人に神は栄光を現わそうとしておられると断言されました。
あなたには弱さがありますか。
生まれつきの問題がありますか。外見を含めた身体的なもの、能力的なもの、人柄や精神的な部分、今までの人生でのつまずきや失敗、お金がない、年齢、仕事、家族の事など様々な弱さがあると思います。
その弱さの中に神は驚くべきわざをしようと計画されています。
イエスはこう言ってから、地面に唾をして、その唾で泥を作られた。そして、その泥を彼の目に塗って、「行って、シロアム(訳すと、遣わされた者)の池で洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗った。すると、見えるようになり、帰って行った。(ヨハネ9:6~7)
盲人は主イエスから最小限の説明を受け、それに納得したので目に泥を塗ってもらったはずです。癒される事を望んだので池に行って目を洗ったのです。ただし、今回の聖書箇所には、盲人と主イエスとの具体的な会話は記録されていません。
つまり、神のわざに焦点が当たっているのです。注目すべきは盲人の信仰ではなく、確かに神が働かれたという事実なのです。
エルサレムにはギホンの泉があり、その水は水路でシロアムの池に注がれていました。盲人は、そこまで階段や坂道を下って行き、目を洗いました。シロアムは「遣わされた者」という意味がああり、父から遣わされた意識を強く持たれた主イエス(ヨハネ8:42)と重なっていて、父から遣わされた救い主によって癒されたと読めるのです。
近所の人たちや、彼が物乞いであったのを前に見ていた人たちが言った。「これは座って物乞いをしていた人ではないか。」ある者たちは、「そうだ」と言い、ほかの者たちは「違う。似ているだけだ」と言った。当人は、「私がその人です」と言った。(ヨハネ9:8~9)
人々は盲人が癒された事を喜んだり神をたたえたりせず、逆にいぶかしく思いました。盲人の姿勢が良くなり、笑顔になり、明るい声になっていたので、盲人の物乞いには見えなかったのでしょう。確かに本人だと分かった後、人々はどのようにして癒されたのかと尋ねました。盲人は、起きた事実を説明しました。つまり、神のわざが語られたのです。
ウイリアム・バークレーの次のような言葉は意義深いです。
人にとって最も大切な日が二つある。
生まれた日。そして、生まれた意味を悟った日。
あなたが欠点と思っている部分は、親のせいではありません、あなたの努力不足のせいでもありません。神のわざはそこに現れます。あなたも主イエスを信頼して未来志向で生きて行きましょう。
□盲目に生まれたのは、本人や親の罪のせいではない
□神のわざが人の弱さに現れる
□行ってシロアムの池で洗いましょう