なぜ主イエスはマルタの家に直接行かなかったのでしょう?
主イエスがベタニア村の入り口に到着した事を知らされたマルタは主イエスを出迎えに行きました。(20、30節)
主イエスがマルタの家に直接行かなかったのは、主イエスがマルタと個人的に話をするためだったと私は考えています。家には大勢の弔問客がおり(19節)ゆっくり話すことはできません。
マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)
主イエスはマルタの話をまず黙ってすべて聞かれました。主イエスはそういうお方です。
だとするなら、主イエスは、今日も、あなたの話を聞こうとされています。
マルタは次のような信仰を持っていました。
①主イエスは癒し主(21節)。その場にいて下さればラザロは死ななかった。
②終わりの日に死者は神の前に立つ(24節)。
③主イエスは救い主(27節)。罪から救う方だと信じていた。
ただし、復活に関してはあやふやでした。
主イエスの立場に立ってみましょう。主イエスはマルタの話をまず全部聞くおつもりでした。その次に、喜ばしい知らせをマルタに伝えようとしていたのです。ラザロがよみがえるというサプライズを用意されていました。
イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23節)
あなたがこの時のマルタの立場にいたら主イエスの言葉を聞いてどんな気持ちになりますか。「嬉しい、感謝します」と喜んで飛び跳ねますか。それとも、「ありえない、冗談はやめてください」と落ち込みますか。マルタは信じられなかったのです。
主イエスは3つのよみがえりがあると言われました。
第一、 ラザロは、まもなくよみがえる。(23節)
第二、 主イエスが死んでもよみがえる。(25節)
第三、 マルタが死んでも、よみがえる。(26節)
イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25~26節)
主イエスは今日のあなたにも同じことを尋ねます。「あなたは、このことを信じますか」
兄弟ラザロの葬式を終えて4日たったマルタに、主イエスは弔意を伝えていません。惜しい人を亡くした、ラザロがいなくなって悲しいなどの言葉を言っていません。真の慰めの言葉とは、復活の希望なのです。
イエスがマルタの家に直接行かなかったのは、マルタの話を聞くためと、マルタと私たちに復活の希望を伝えるためだったのです。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」
あなたは、罪を赦して下さる救い主イエスさまを信じていますか。では、あなたをよみがえらす「復活の主」を信じていますか。
□ラザロはよみがえる
□主イエスは、よみがえりであり、いのちです。
□主イエスを信じる者は、死んでも生きる。