2025年2月23日日曜日

ヨハネ12:20~26 一粒の麦 

 ギリシア人が尋ねて来たと聞いて、主イエスは強いインスピレーションをお受けになりました。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(ヨハネ12:23)と言われたほどです。

 やって来たのは「何人か」にすぎません。けれども、このわずかな動きをご覧になって、世界の人が救い主を求める大きなうねりの始まりだと感じられたのでしょう。

 

 あなたは今、何かの息吹を感じませんか。あなたの周囲の膨らんだ蕾に目をとめましょう。その新しい芽生えが神の祝福の始まりです。


 

この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(ヨハネ12:21)

 

 ピリポがギリシア人を主イエスに引き合わせたことは良い判断でした。ピリポは十二弟子の名前のリストでは5番目が定席です。他の福音書にはピリポの記述はありません。ヨハネはピリポのすぐれた特性に気づいていたようです。


ヨハネ2:43〜45を見て下さい。主イエスに対する信仰を持ち献身を表したピリポが、自らの意思でナタナエルに伝道している様子が書いてあります。ヨハネ6:5〜7を見て下さい。5000人のためにどこからパンを取得するかという質問を主イエスがピリポにしています。ピリポは頭をフル回転させてこの課題に対応しました。そして今日の箇所では、ギリシア人を主イエスに引き合わせてよいものか、門前払いすべきかの選択を迫られていました。

 

ピリポは新しい息吹を見極める対処力を鍛えられ、新しいステージへと何度も引き上げられました。あなたに今、どんなチャレンジが来ていますか。


 

まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(12:24)

 

イスラエルの春は麦が実る時期です。主イエスは一粒の麦の話をされました。麦の穂ではありません。麦の畑ではありません。たった一粒の麦のことです。

一つの麦。それはとても小さなもので、何の役にも立たないように見えます。ですが、種として地にまかれると多くの実を結びます。

あなたの小さな一歩や隠れた親切も無駄ではありません。

 

麦が実を結ぶために必要なことが一つだけあります。死ぬことです。主イエスはご自分を一粒の麦にたとえました。そして、死ぬ覚悟を示されたのです。死ぬことによって多数の人を救いに導くためでした。

 

多くの人は普段の生活の中で、死ねば終わりと考え、自分だけが生きようとします。そのあまり、人を騙したり、人を利用したりします。でも死ぬことは、捨てることであり、捨てることは誰かに自分の持っているものを与えることにもつながります。

 

主イエスを信じる者は自分に死ぬことを徐々に学んでいきます。そして、日々の生活の中で小さな死を選ぶようになります。

あなたの今の生活では、今の職場では、今の家族との関わりでは、何をすることが死ぬことですか。死ねば実を結びます。

 

□始まろうとする新しい息吹がある
 □ピリポのように、新しい波に対処しよう

□自分に死んでみよう

 

2025年2月16日日曜日

ヨハネ12:9~19 ホサナ

 過ぎ越しの祭りです。エルサレムと周辺の村は地方からやって来た人々であふれていました。そんな時、主イエスが今日エルサレムに来られるという情報が広まり、大勢の人が主イエスの到来を待ちわびることになりました。

  群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。(ヨハネ12:18)

大人気の理由は、主イエスがラザロを生き返らせた事にあります。ラザロの復活の目撃者たちがその時の様子を生き生きと語ったので、人々は主イエスを自分の目で見ようとしました。

人々の姿をよく観察して下さい。①枝を持つ、②出迎える、③大声で叫ぶ。

なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(ヨハネ12:13)

 人々は、勝利や栄誉を象徴するナツメヤシの葉を道に敷き、手にもって歓迎しようとしました。そのため、高さ10mもあるようなナツメヤシの木の頂上の葉を切り取って来たのです。ここに、王への献身、奉仕、従順の姿勢が出ています。

 また、自分の家の二階からパレードを眺めるという気楽な態度ではありません。玄関に出る、イエスさまが通る道の最前列に立つ、もっとベタニア村側に近づいてお待ちする、つまり、主イエスを歓迎する心が表れています。
 主よ、お待ちしていました。主よ、私の心にお入り下さいという心が感じられます。

人々は叫びました。集団的な信仰告白ともいえます。主イエスを神から遣わされた救い主と認めています。王である主イエスを喜んでいます。当時のユダヤには正式な王もいて、ローマ総督も駐在していましたが、人々は主イエスをイスラエルの王として歓迎しました。

人々が叫んでいるのは詩篇118:25~26の言葉です。「ああ主よ、どうか救って下さい」のヘブル語は、ホシアンー、ナーという発音になり、当時は誰かをほめたたえる時に「ホサナ」と言うようになっていました。

王さまなら大きな名馬に乗って堂々と来るのかと思いきや、小さなロバに乗ってトコトコと来られたので、沿道の人々は笑顔になったはずです。
 15節にあるように、弟子たちは後になって主イエスがロバに乗った意味をゼカリヤ9:9から悟りました。

 王さまと私。

 他国の王は私たちとは何の関係もありません。主イエスを私の王としてお迎えしなければ、主イエスは他人のままです。棕櫚の日曜日の沿道の人々は、「主イエスよ、あなたを歓迎します」「私という独立国の王としてあなたをお迎えします」と言っているのに等しいのです。あなたは、どうですか。

改めてあなたの心の王座に主イエスに座って頂きましょう。イエスさまと相談しながら選択しましょう。人生の最後まで主イエスと共に歩きましょう。

□ホサナ! 主イエスをたたえます。
□主イエスよ、私の心の王座にお着き下さい。

2025年2月9日日曜日

ヨハネ12:1~8 ナルドの香油

過ぎ越しの祭りまで6日と迫っています。ベタニア村のマルタの家では、主イエスと十二弟子を迎えて夕食の席になりました。

 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。 (ヨハネ12:2)

 マルタは以前のように苛立っていません。マリアの香油についても口出ししません。
 なぜでしょう。

 ラザロのよみがえりを感謝しているからです。主イエスと交わした会話でマルタの心と信仰が変えられたのです。マルタはこの忙しさを楽しみ、笑顔で走り回って奉仕したことでしょう。

 「イエスのため」(2節)の食事だと理解していたのです。料理作りやもてなしがマルタにとってのナルドの香油です。

一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)

 7節を見ると、マリアがこの日のために「取っていた」香油だと分かります。おそらくは、主イエスがマリアの家に来た時に、祭司長たちがあなたを指名手配していてこの場所は危険ですと話したはずですが、主イエスの返答や様子を受けて、主イエスの死が近いとマリアは悟ったのでしょう。

 高価なナルドの香油を一度に注ぐ行為は、マリアから主イエスへの尊敬、感謝、賛美、愛、献身、などを表す礼拝行為です。足の香油を髪の毛でぬぐうしぐさは主イエスにひれ伏さなければできない姿勢です。

 それまではご馳走の匂いで部屋は一杯でしたが、香油が注がれると家中にかぐわしく高貴な香りが満ちました。この香りは、神の子、救い主、王の王にふさわしい目に見えない王服とも言えます。

「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」(5節)

 十二弟子のユダは、マリアの純粋な礼拝行為をなじりました。無駄だ。その香油は年収に等しい価値があり、その金で貧しい人に施したほうが役に立つとマリアを責めました。

 6節にあるように、ユダは十二弟子の会計係をしていながら金を盗んでいました。単なる着服以上に後ろめたい事を抱えていたのでしょう。それでマリアを責めました。さらに言えば、隣人を愛すべきだという分析や視点を主イエスに認めてもらいたかったのでしょう。主イエスはユダの主張を退け、マリアの献身と礼拝を受け入れて下さいました。

 あなたは誰に似ていますか。マルタ、マリア、ユダ。

 掃除、料理、皿洗い、賛美練習、会計処理、会議出席、草取り。そうした行為を主のためにするならマルタの喜びを持つことができます。

 ただただ賛美する、自分の人生をおささげする、思い切った献金をする。それらを主イエスのためだけにするならば、マリアと共にナルドの香油をささげることができます。

□主のために、奉仕する
□主にだけ、ささげ尽くす


2025年2月5日水曜日

ヨハネ11:45~57 一人の死 

ラザロの復活は、12月の宮きよめの祭りと春に行われる過ぎ越しの祭りの間に起きた出来事です。

マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。しかし、何人かはパリサイ人たちのところに行って、イエスがなさったことを伝えた。(ヨハネ11:45~46)

 ラザロの復活を見て、主イエスを信じる人が大勢あらわれました。 
 その一方で、ラザロの復活を見ても信仰は持たず、パリサイ人に報告する人もいました。ただし、主イエスの反対者ですらラザロの復活を目撃したのでその奇跡を否定できません。

最高法院が緊急招集されました(47節)。議題はラザロの復活の真偽の調査ではありません。ラザロの復活の影響が今後どうなるかの予測と今後の対策でした。

 議員たちは落ち込んでいました。奇跡が行われたのに何も対処しなかったという過去を猛省しました。このままにしておくと、主イエスを信じる者が大多数となり、クーデターが起き、ローマ政府に鎮圧されてユダヤ王国は滅びると悲観的な未来を考えました。

しかし、彼らのうちの一人で、その年の大祭司であったカヤパが、彼らに言った。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないですむほうが、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない。」(ヨハネ11:49~50)

 最高法院の様子や大祭司カヤパの発言は、アリマタヤのヨセフやニコデモの証言によるものでしょう。大祭司の言葉は、彼が自分から話したのではなく、神が彼の口を用いた預言になっていました。いみじくも主イエスの十字架の意図を解き明かすものになったのです。主イエスは、人々の救いのためにご自分の命を投げだされたのです。
 ユダヤの最高会議は主イエス殺害を決めました。(53節)

主イエスは指名手配されたので、エルサレムに残ることはできず、できるだけ人目につかない荒野に近い場所で過ごし(54節)、過ぎ越しの祭りになるのを待っておられました。人々は主イエスが過ぎ越しの祭りに来ることを期待しました。どんな奇跡が見られるかという興味もあったのでしょう。

大祭司たちはラザロを殺害する計画まで立てました。(ヨハネ12:10)ユダヤ当局者が主イエスを逮捕し殺害に導いた事は歴史上の事実であり、それはまた、ラザロの復活が本当にあったという事を裏付ける結果にもなるのです。

世の中は不正と悪に満ちている。まるでタペストリーの裏側を見るようなものです。勝手な色の糸が何本も無秩序に縫われていますが、その布を裏返すと美しい模様が描かれています。

ユダヤ当局者がラザロの復活を知っても心を固くし主イエス殺害を企てたとしても、人類の罪を救うための十字架の計画は実現されたのです。

□反対者たちもラザロの復活を事実と認めた
□たった一人の死が大勢の人を救う
□不条理な出来事の背後に神のご計画が隠れている

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...