ギリシア人が尋ねて来たと聞いて、主イエスは強いインスピレーションをお受けになりました。「人の子が栄光を受ける時が来ました。」(ヨハネ12:23)と言われたほどです。
やって来たのは「何人か」にすぎません。けれども、このわずかな動きをご覧になって、世界の人が救い主を求める大きなうねりの始まりだと感じられたのでしょう。
あなたは今、何かの息吹を感じませんか。あなたの周囲の膨らんだ蕾に目をとめましょう。その新しい芽生えが神の祝福の始まりです。
この人たちは、ガリラヤのベツサイダ出身のピリポのところに来て、「お願いします。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。(ヨハネ12:21)
ピリポがギリシア人を主イエスに引き合わせたことは良い判断でした。ピリポは十二弟子の名前のリストでは5番目が定席です。他の福音書にはピリポの記述はありません。ヨハネはピリポのすぐれた特性に気づいていたようです。
ヨハネ2:43〜45を見て下さい。主イエスに対する信仰を持ち献身を表したピリポが、自らの意思でナタナエルに伝道している様子が書いてあります。ヨハネ6:5〜7を見て下さい。5000人のためにどこからパンを取得するかという質問を主イエスがピリポにしています。ピリポは頭をフル回転させてこの課題に対応しました。そして今日の箇所では、ギリシア人を主イエスに引き合わせてよいものか、門前払いすべきかの選択を迫られていました。
ピリポは新しい息吹を見極める対処力を鍛えられ、新しいステージへと何度も引き上げられました。あなたに今、どんなチャレンジが来ていますか。
まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。(12:24)
イスラエルの春は麦が実る時期です。主イエスは一粒の麦の話をされました。麦の穂ではありません。麦の畑ではありません。たった一粒の麦のことです。
一つの麦。それはとても小さなもので、何の役にも立たないように見えます。ですが、種として地にまかれると多くの実を結びます。
あなたの小さな一歩や隠れた親切も無駄ではありません。
麦が実を結ぶために必要なことが一つだけあります。死ぬことです。主イエスはご自分を一粒の麦にたとえました。そして、死ぬ覚悟を示されたのです。死ぬことによって多数の人を救いに導くためでした。
多くの人は普段の生活の中で、死ねば終わりと考え、自分だけが生きようとします。そのあまり、人を騙したり、人を利用したりします。でも死ぬことは、捨てることであり、捨てることは誰かに自分の持っているものを与えることにもつながります。
主イエスを信じる者は自分に死ぬことを徐々に学んでいきます。そして、日々の生活の中で小さな死を選ぶようになります。
あなたの今の生活では、今の職場では、今の家族との関わりでは、何をすることが死ぬことですか。死ねば実を結びます。
□始まろうとする新しい息吹がある
□ピリポのように、新しい波に対処しよう
□自分に死んでみよう