2025年6月21日土曜日

ヨハネ16:5~16 真理の御霊

  もうすぐ主イエスと別れることになるという十二弟子の声にならない声を主イエスは聞き取っておられたので、パラクレイトス(助け主)のことを語られました。 

 すでに14章で聖霊について予告されていました。主イエスが助け主を遣わすと言われ、聖霊が信じる者と共にあると語られ、御霊が主イエスの言葉を思い起こさせてくれると説明されました。今回はその内容をさらに深めて語られました。

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。(ヨハネ16:7)

主イエスが去ることにより助け主が来る。一人一人に個別にすばらしい助け手がついて下さるのです。経験ある弁護士で愛情深いカウンセラーであり有能なコーチで頼もしい山岳ガイドを兼ね備える人生の水先案内人です。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。(ヨハネ16:8)

助け主の働きは、私たちに正しい理解を与えることです。罪の本質は、主イエスを信じないという傲慢さと自己中心です。素晴らしい奇跡を見ても心を閉ざす姿勢が罪の源なのです。多くの場合、正義とは人の比較に基づく相対的な正しさを言います。御霊が教えてくれるのは、正しい人が十字架で命を捨てて罪人を救うことこそが神の正義だと教えてくれます。さばきに関しては、一番悪い者を神が必ず処罰されることを信じる必要があります。 

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことをすべて語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。(ヨハネ16:13~14)

十二弟子は主イエスの語るすべてを理解することは不可能でした。それで、その後の人生のふさわしい時に真理を理解できるように聖霊が働きかけて下さるのです。
 また、助け主は、これから起こることについてアドバイスして下さいます。
 そして、最終的に御霊は主イエスの栄光を現わされます。

私たちの生活はテレビやインターネットなどからの情報が多すぎるため、静寂な時間が失われてしまいました。そのため自分の心を見つめられず、助け主が語り掛けていることを聞けなくなっています。

真理の御霊は、あなたに何を語っていますか。あなたが聞くべき言葉は何ですか。

□助け主はあなたの心に遣わされたカウンセラー、弁護者、ガイド
 □真理の御霊はすべての真理に導く
 □助け主は将来の道先案内人

 

2025年6月15日日曜日

ヨハネ15:18~16:4 世が憎んでも  

 世があなたがたを憎むなら、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを知っておきなさい。(ヨハネ15:18)

 主イエスは警告されました。
 十二弟子よ、あなたは憎まれる。そして、迫害され、場合によっては殺される。
 だから、覚悟しておきなさい。 
 このように語られた目的は、迫害された時につまずかないためでした。

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。(ヨハネ16:1)

主イエスは今までも迫害について語ってこられました。山上の垂訓では、「ありもしないことで悪口」(マタイ5:11)を言われと予告されました。4つの種のたとえでも、迫害によって信仰を失うような岩地の種になるなと注意されました。逮捕、投獄などに遭い、王たちの前で裁判を受ける事態や(ルカ21:12)、「会堂から追放」(ヨハネ16:2)されることを警告されていました。

もしあなたがたがこの世のものであったら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではありません。わたしが世からあなたがたを選び出したのです。そのため、世はあなたがたを憎むのです。(ヨハネ15:19)

 

 今日の箇所において主イエスは迫害が起こる背景を解説されました。

 ①世が先に主イエスを憎まれたので、弟子たちも憎まれる(15:18)
②主イエスが弟子たちを世から選び出したので憎まれる(15:19)

 ③世が父なる神とイエスさまを知らないから憎まれる(15:21)

 ④主イエスのわざ(奇跡)を見たから、神を憎むようになった(15:24)

 ⑤「ゆえもなくわたしを憎んだ」(詩篇35:19)の預言が成就

 ⑥神への奉仕だと思い込んでいるから(16:2)

イエスさまを信じる者は、正しく歩み、愛を行い、神を喜びます。けれども、人々は理不尽に、理由なく、気分と先入観で、クリスチャンを憎みます。

 あなたも、信仰を持っているという理由だけで周囲から憎まれた経験があるかもしれません。信仰ゆえの迫害はそういうものです。

 パウロは長い伝道生涯で凄まじい迫害を通りましたが、その迫害の中で「私が弱いときこそ、私は強い」(第二コリント12:10)という体験をしました。

わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち、父から出る真理の御霊が来るとき、その方がわたしについて証ししてくださいます。(ヨハネ15:26) 

ゆえもなく憎まれる人に、主は真理の御霊を送ると言われました。御霊は、迫害で苦しむ信仰者の心の目を開かれ、主イエスをあかしして下さり、励まして下さいます。

 あなたは、今、信仰ゆえの迫害を受けていますか。聖霊の助けを求め、その試練を乗り越えて実を結ぶ人生へと導いて頂きましょう。

 「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示録2:10)

 □ゆえもなく憎まれることを覚悟しよう
□つまずかず、実を結ぼう

2025年6月8日日曜日

ヨハネ15:12~17 選ばれて友情

人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。(ヨハネ15:13~14)

友のために命を捨てるという最高度の愛に私たちは目を向けますが、その前に、主イエスが弟子たちを友と呼ばれた事に注目して下さい。十二弟子を友と呼ぶのは福音書では、今日の箇所にしか出てこない内容です。 

イエスさまのことを「主」と呼ぶなら、私たちは主に仕える者です。
 イエスさまを「救い主」と呼ぶなら、私たちは罪人です。
 「先生」と呼ぶなら、私たちは学ぶ者、弟子です。
 イエスさまが私たちを「友」と呼んで下さるなら、私たちも主イエスのことを友と呼ぶしかないのです。友情とはそういうものです。

主イエスは、約3年かけて弟子として必要な事を教え終わったところで、あなたたちはわたしの友だと言われました。

あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。(ヨハネ15:16)

16節では、主イエスが弟子たちを選び、実を結ぶ人生に導き、その実が残ることを願い、そのために、弟子たちの望みがかなうよう助けると約束されました。主イエスの選びは私たちが実を結ぶためだと分かりますが、それだけではないように思います。

出エジプト記33:11によると、神は人が自分の友と語るように顔と顔とを合わせてモーセと語ったと記しています。また、ヤコブ2:23によると、神を信じたゆえにアブラハムは神の友と呼ばれたと書かれています。「わたしが命じることを行う」者(ヨハネ15:14)、つまり、神を愛し神のみこころを理解して行う者を神は神の友と呼ばれています。

聖書全体と今日の箇所の流れを総合すると、主イエスが十二弟子を選ばれた最終目的は、彼らと真の友になることだと理解できます。

 

わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。(ヨハネ15:12)

主イエスと真の友となった十二弟子は、主イエスが天に上られた後、主イエスとのフレンドシップを身近な仲間に向け、真実な友となることが求められているのです。

友達とのフレンドシップを深める方法は、会って話すことや友達の苦労している時に助けたり励ましたり時には忠告をすることです。友達同士の間には互いに対する尊敬があり、人として好きで信頼できるという思いがあります。友のためなら犠牲をいといません。主にある友なら、祈り合えます。

こうした繋がりを私たちが主イエスと深めていくなら、私たちと主イエスとの友情は強くなります。

また、あなたとあなたの信仰の友にあてはめればフレンドシップは豊かにされます。互いに愛し合うことを親友との心の絆と考える直すと行動しやすいかもしれません。

「友はどんな時にも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。」(箴言17:17)

 □主イエスは私を選び友として下さった
□イエスさまを大切な友として生涯を過ごしたい

2025年6月1日日曜日

ヨハネ15:1~11 ぶどうの木と枝  

 主イエスは「立ちなさい、さあ、ここから行くのです」(ヨハネ14:31)と言われて十二弟子を連れて食事場所を後にしてゲッセマネの園に歩いていかれました。その時、神殿の門のぶどうの模様を見て今日の言葉を言われたのかもしれません。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15:1)

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。」(ヨハネ15:5)

「人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。」(ヨハネ15:5)

今日の箇所は有名な箇所で、主イエスにとどまるなら実を結ぶということはキリスト者なら知っています。でも、こう考えたことがありますか。「その人は多くの実を結びます」と主イエスが言われたのはなぜなのか。なぜ、多くの実と言われたのか。なぜ、その実についての具体的な解説がないのか。

十二弟子の立場でまず考えましょう。十二弟子は主イエスとの別離を予感し、悲しみと不安を抱えていました。それで主イエスは、私がいなくなっても大丈夫、あなたがたは必ず実をむすぶ。その秘訣は私にとどまれば良い。あなたがたは枝なのでぶどうの木の幹にとどまるなら実をむすぶことになると励まされたのです。

私たちに当てはめて考えましょう。多くの人は、自分は実をむすべないと悲観しています。私など何の役にも立たないと思い込んでいます。それで主イエスは、その否定的な大前提をくつがえし、あなたは実をむすぶと励まして下さったのです。私たちの人生は実をむすぶ人生なのです。

父なる神が農夫の役をして下さると1節で述べられています。主イエスだけでなく、父なる神も私たちが身をむすぶことを楽しみにしておられるのです。父なる神は必要に応じて剪定して私たちの実がもっと豊かになるように働いて下さいます。(2節)

実が何を意味するかが具体的に説明されていないのは、一人一人が皆違い、結ぶ実も千差万別からです。多くの実と主イエスが言われるのは、若い時、働き盛りの時、年をとった時、体や心が弱った時など、色々な段階において結ぶ実が違うからです。

あなたは今までどんな実を結んだのでしょう。これから、どんな実を結ぶのでしょう。

11節では、「わたしの喜びがあなたがたのうちにあり」と主イエスが言われましたが、これは実の一つでしょう。

 わたしにとどまりなさい。そう主イエスは言われました。主イエスから離れて自分だけでやろうとする事がとても多いのです。ですから主イエスにとどまりましょう。

では、主イエスにとどまるとはどんな事でしょう。

  主イエスのことばが私たちのうちにあること。(7節)

  主イエスに求めること、つまり祈ること。(7節)

  主イエスの愛を思い出し、感謝すること。(9節)

  主イエスの言葉を守ること。(10節)

 今週、主イエスにとどまることを意識しましょう。

「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまっているなら、何でも欲しいものを求めなさい。そうすれば、それはかなえられます。」(7節)

  □主イエスはぶどうの木、私はその枝
 □主イエスにとどまれば実をむすぶ


ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...