主イエスがゲッセマネの園で逮捕された後アンナスによる取り調べが行われ(ヨハネ18:12~14、19~24)、中庭で待っていたペテロが主イエスを知らないと3度言う(15~18、25~27)という内容が今日の箇所です。室内の尋問と外で火に当たるペテロの様子が同時進行し、臨場感の強い構成になっています。
大祭司を引退しても権力を手放さないアンナスと、神の子の特権をすべて投げ捨てた主イエスの姿が対比されています。
「シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。」(ヨハネ18:15~16)
「もう一人の弟子」(16節)とありますが、これは十二弟子のヨハネのことです。ヨハネが大祭司と知り合いで(15節)、この時門番をしていた大祭司の女中とも顔見知りだったので(16節)、ペテロとヨハネが大祭司の庭に入れたというわけです。
マルコ1:19~20によると、ヨハネの父ゼベダイが舟を所有しており、雇人がいたことが分かります。おそらく、ヨハネの父親は手広く魚の販売を行い、山の上のエルサレムでも塩漬けの魚を売り、質の高い魚は大祭司や金持ちにも販売していたのでしょう。ヨハネは若い時から父の仕事を手伝い大祭司の家に出入りしていたので信頼されたのでしょう。
ペテロとヨハネが「イエスについて行った」(15節)とありますが、それは物理的に後を追ったという意味です。ですが、とても印象的な言葉になっています。自分の命が危険になっても主に従い続けるという一途さは素晴らしいと思います。
「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。」(ヨハネ18:19)
アンナスの質問は十二弟子についてと教えの内容でした。主イエスは証人なしの尋問の違法性に毅然と対処され、何もお答えになりません。そして、十二弟子についての情報は一切明らかにされませんでした。主イエスは弟子たちを守り続けました。ここに主イエスの愛と勇気と誠実さを見ることができます。ご自分を否むペテロであっても主イエスは守り続けるのです。そして、私たちをも守り続けて下さいます。
「ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:27)
ペテロは「あなたのためなら、いのちも捨てます」(ヨハネ13:37)と夕食の席で述べました。鶏が鳴く前にペテロが3度私を知らないと言うだろうと予告されていました。(ヨハネ13:38)
他の福音書全部にペテロの否認と鶏の声と彼の涙が記録されています。(マタイ26:75、マルコ14:72、ルカ22:62)ヨハネにはペテロの涙がありません。なぜなのでしょう。
ペテロが聞いた鶏の声をヨハネは自分に向けて鳴いた声だと受け止めたのです。主イエスの弟子であることを隠していたからヨハネは大祭司の庭に入れました。ペテロとは違った形で主イエスを否んだのですから、ペテロと同罪と思ったのでしょう。
ペテロだけが主イエスを否んだのではないし、ペテロだけが号泣したのではない。ヨハネは、ヨハネの福音書の読者に対して、あなたも鶏の声が聞こえないかと問うているのです。
□信仰を恥じることなく、主イエスをあかししよう
□主イエスはあなたを守る方
□自分の不甲斐なさを泣いた人が他の人を励ます人になれる