今日の聖書箇所には、ピラトが主語となって発言し行動している場面が13箇所もあります。ピラトが主イエスを解放しようとした努力の跡が見られます。(1、4、5、6、8、10、12、13、14、15、16、19、22節)
それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。(ヨハネ19:1)
1節の「それで」という接続詞に注目して下さい。
ピラトは主イエスに罪を認めず恩赦の対象として助けようとしました。(18:38~40)けれども、ユダヤ人指導者たちの策略でバラバ釈放に事態は傾きました。「それで」ユダヤ人の作戦を阻止するためにピラトが奇策を用いたのです。
ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」(ヨハネ19:4~5)
ピラトはイエスにむごたらしいむち打ちを指示しました。兵士らは主イエスを王として茨の冠を頭に被せ、嘲弄するため紫の衣を着せました。(2~3節)私は、これらすべてはピラトの指示ではないかと推測しています。高価な紫の衣は普通手に入りません。
ピラトは「何の罪も見出せないことがおまえたちに分かるだろう」(4節)と前置きしてから、王服をまとった瀕死の主イエスをユダヤ人の前に立たせました。ユダヤ人はおおいに笑い喜んだことでしょう。そして、ピラトは言いました。「見よ、この人だ」と。その意味するところは、ユダヤ人らが求めていた辱めと罰を受けたのだから解放せよとの主張なのです。
ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」(12節)
ピラトは、その後も主イエスを釈放する努力を行いましたが阻止されました。最後は、主イエスを助けることはカエサルに背くことになるとユダヤ人が暗に脅迫してきました。ピラトは不本意ながら主イエスの十字架刑を承諾しました。(16節)
十字架の上には罪状書きが掲げられました。それを見てユダヤ人は、イエスが王と自称したと書き直すよう要求しましたが、ピラトは憤然として拒絶しました。(19~22節)ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれた看板ですが、それはまるでピラトが全世界に向かって主イエスこそあなたの王であると告白しているようにも見えます。
共観福音書では死刑執行責任者である百人隊長がこの方は神の子だったと証言しましたが、ヨハネの福音書ではその役割をピラトがしているのです。
なぜピラトは、主イエス解放のためにこんなに努力したのでしょう。
ピラトは主イエスの奇跡を目にしていません。ただ、主イエスと語り合っただけです。主イエスの人柄、温かさ、きよさ、真理、世界観の大きさ、勇気、落ち着き、主イエスと言うお方に触れて、この人は死んではいけない人だと感じたのです。理屈っぽい律法学者ニコデモや罪深い人生を送って来たサマリアの女、そして、政治家ピラトも、主イエスと語り合うだけで心動かされたのです。
すべてのものを
与えし末 死のほか何も報いられで
十字架の上に
あげられつつ 敵を赦しし この人を見よ(賛美歌121番)
□主イエスは、命乞いをせず、父のみこころの真ん中を歩かれた
□ピラトは主イエスと出会い、心洗われ、何かに目覚めた
□私たちも、この人をしっかり見よう