今日の箇所は主イエスが十字架で息を引き取った場面です。共観福音書においては、その日の午後に暗くなった空や群衆の悪口や「なぜ私をお見捨てになったのですか」という主イエスの悲壮な発言などが強調されています。以下に、ヨハネの福音書独自の5つの記述を見ていきましょう。
1、十字架は聖書の預言の成就(23~24節)
24、28、36、37節に「聖書が成就するために」と書かれてあり、詩篇22:18、34:20、69:21、ゼカリヤ12:10などが引用されています。主イエスの処刑はむごたらしく、表面的に見ると祭司長やピラトの勝利に見えますが違います。聖書の預言の成就です。父なる神のご計画が完璧に実現したのです。
2、母マリアを弟子ヨハネに託す(25~27節)
主イエスは実母のマリアを女と呼び掛けていますが、深い意味があると思われます。処刑場にいた女性が主イエスの母と分かれば逮捕や危害を受ける危険性がありました。それで、そっけない呼び方をしつつ、今までの感謝と別れの情を眼差しによって表現されたのです。ヨハネに母の世話を託したのです。
3、救いの完了を宣言(30節)
30節に「完了した」とありますが、ヨハネ独自の記録です。何を完了したのでしょう。救いの完了です。すべての人の罪を身代わりに背負って、罪を赦す神の子羊の働きを完了したという意味です。過ぎ越しの祭りで門と鴨居に子羊の血が塗られますが、その時用いられる植物はヒソプです。そのヒソプの枝で酸いぶどう酒が主イエスに差し出されています。
4、足の骨は折られず、確実な死(33~34節)
主イエスの足の骨が折られず、脇腹を槍で突くと血と水が出たとの記述もヨハネだけが残しています。主イエスは間違いなく死なれた事をヨハネが目撃し証言しています。十字架刑では呼吸が困難になり、足の伸縮によってかろうじて呼吸が保たれているのですが、足の骨を折られたらそれは死を意味しました。預言通り、主イエスが既に死んでいたので、主イエスの足の骨は折られませんでした。
5、ニコデモの信仰と覚悟(38~39節)
アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を引き受けたという行為はすべての福音書に書いてあります。主イエスの死後、議員としての自分の立場が悪くなっても構わないという勇気ある態度と主イエスへの献身が表れています。
律法学者ニコデモの様子を描いているのはヨハネの福音書だけです。臆病で悟りの鈍いニコデモにも信仰の成長があり、主イエスの死によってかえって信仰が強められたことが分かります。
ヨハネは十字架の横にいて、最初から最後まで主イエスの死をみとりました。そのヨハネは、静かな筆致で主イエスの死を記録しました。
十字架は失敗はなく、アクシデントでもなく、祭司長たちの悪行の結晶でもなく、愛なる神のみこころの成就であり、勝利であり、救いの完成の時だと証言したのです。
□十字架は神の救いの計画の完了
□主イエスは最後まで愛を届けた
□逆風の時こそヨセフやニコデモのように主について行こう