2025年9月14日日曜日

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2) 

 マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27:55によると「ガリラヤからイエスについて来て仕えていた」女性の筆頭に挙げられています。主イエスについて行く十二弟子のそばにいて主イエスに仕え主イエスから学ぶ女性の弟子と位置付けて良いでしょう。

 ヨハネの福音書には彼女についての説明が一切ないことから初代教会にとって良く知られた信仰者だったと推測できます。マグダラのマリアは主イエスの母マリアを支えつつ十字架刑を見届け、日曜日の早朝に主イエスの墓にかけつけ、誰よりも主イエスの死を悲しんだ人でした。

マグダラのマリアは主イエスの遺体が無い事を発見してペテロとヨハネに報告しました。二人の弟子は走って墓に行き、確かに遺体が無いことを確認し、巻かれたままの亜麻布を目にしました。ヨハネは墓に入り「見て、信じた」(8節)とあるので主イエスの復活を信じた可能性がありますが、9節によると喜びながら飛ぶように帰路についたとは書かれていないので、復活を完全に理解していたとは言えません。

主イエスはペテロとヨハネに対して墓の中でご自身を現わしたり声をかけたりされません。それはなぜでしょう。空の墓と巻かれたままの亜麻布があっただけでした。主イエスは後にトマスに「見ないで信じる人たちは幸いです」(ヨハネ20:29)と言われましたが、同じことを二人の弟子にも期待されていたのでしょう。

見て、考え、思い巡らし、信仰を働かせて主イエスの復活を信じられるはずだと主イエスは二人に期待されていたと考えられます。

 

 マグダラのマリアは墓に戻って来て、二人の弟子が去った後も墓の外で泣き続けました。(11節)墓の中の二人の天使に話しかけられても茫然自失でした。園の管理者らしき人物に気づいて振り返って遺体を返して下さいと言ったきり、また墓の中を見つめて泣くばかりでした。その人は園の管理人ではなくイエスさまだったのに。

  「なぜ泣いているのですか」(13節)「なぜ泣いているのですか」(15節)

 天使も、主イエスも、同じことをマリアに言いました。これは重要な質問なのです。

イエスさまが殺されたから、イエスさまの遺体が盗まれたから泣いているとマリアは答えたかったでしょう。

主イエスは、もう泣く原因はないと伝えたかったのです。死は悲しい現実だが最悪の死は終わった。罪のあがないのわざは完了した。遺体がないことを心配するな、主イエスは生きた体であなたのそばに立っている。

「なぜ泣いているのですか」という問いかけはとても大事です。私たちにも語られています。悲しい現実はもう起きてしまった。取り戻せない。けれども、主イエスは目の前におられる。

「なぜ泣いているのですか」という言葉には深い意味があります。主イエスはマリアが泣いている姿を知っているということです。マリアが主イエスをどんなに愛しているか、信頼しているかを受け止めているということです。マリアの失望を理解しているということです。復活された姿で、マリアを応援するために来たのです。そして、主イエスは言われました。マリアはその一言ですべてを理解し、悲しみの涙は去りました。

 

イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。(ヨハネ20:16)

 「マリア」との呼びかけはあの懐かしい主イエスの声でした。マリアは振り返りながら「ラボニ」と応えました。ラボニとは、私の先生という意味です。

かつて悪霊に支配され自分が望まない悪を行っていた彼女は主イエスにより解放され癒され自由と赦しと希望を経験しました。そして、今、あの時と同じように、悲しみと失意から解放され、喜びの中に入れられたのです。

マリアは「私は主を見ました」(18節)と十二弟子に報告することができました。

主イエスは復活され、今もあなたの名を呼んでおられます。主イエスの愛と励ましに満ちた声があなたに聞こえますか。

□最も悲しんだ人が最も喜ぶ人になる
 □なぜ泣く。死は終わった、泣く必要も理由もない
 □主イエスはよみがえり、あなたの名を呼ばれる


ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...