2025年10月26日日曜日

第一サムエル1:20~28 男の子

 男の子が生まれました。「サムエル」(20節)と名付けたのは夫ではなくハンナで、その名の意味は「彼の名は神」または「神の名前」になります。

しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。夫のエルカナは彼女に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい」(22~23節)

夫は妻の願いを優先して「あなたが良いと思うようにしなさい」と言いました。さらに夫は「主がそのおことばを実現してくださるように」(23節)と彼の信仰と祈りをにじませました。

 ハンナの妊娠と出産を通して二人の絆は深くなっていきました。もうハンナに涙はありません。意地悪してくるもう一人の妻ペニンナの存在は意識の外になりました。

「縦の糸はあなた、横の糸は私」という歌がありますが、今日のハンナとエルカナ夫婦においては、♪縦の糸は信仰、横の糸は愛、織りなす布はいつか必ず神の栄光を現わすことでしょう♪となりますね。

 

その子が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。(24節)

ハンナは最初にいけにえをささげてから祭司に会いました。

「その子はまだ幼かった」と書かれています。普通は母親と離れることが難しい年齢でしたが、ハンナは幼い息子に、神を教え、礼拝を見せ、あなたは祈りの答えで、主に仕えるのよと教えてきたのでしょう。2章1節を見ると、別離の悲しみよりも、この日が来た喜びのほうがまさっています。

ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。(26~27節)

かつて「私は心に悩みのある女です」(15節)と自己紹介したハンナは、「私は……主に祈った女です」で、しかもその祈りがかなえられた女ですと言えました。

「それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」(28節)

 神に生涯をささげた人が神の国を作ります。

□共に主を見上げ、互いに愛し合う夫婦になりたい
□ハンナは、主に仕えする人を育てた
□私たちも生涯を主にささげ、主の御顔を拝して生きよう

2025年10月19日日曜日

第一サムエル1:9~19 ハンナの祈り

  「ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。」(第一サムエル1:10)

「このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」(1:16)

 

ハンナは最初、神への不平やペニンナへの呪いや復讐を祈ったかもしれません。

ところが、10節「主に祈った」、12節「主の前で」、15節「主の前に」とあります。ハンナの祈りは、主の前に出て主の臨在を感じる祈りでした。主と自分の間に誰もいません。

「私は主の前に、心を注ぎ出していたのです」(15節)とあるように祈りが結晶化していきました。

ハンナは自分のことを4回も「はしため」(11、11、16、18節)つまり奴隷女と言いました。自分が弱く小さく取るに足らない者と自覚していました。奴隷の役割は主人に仕えることでから、ハンナは主に仕える意識を強く持っていました。

16節で「今まで祈っていたのです」とありますが、原文では<今までお話していました>となっています。主に話しかけ、主の言葉に耳を傾け、会話のキャッチボールをしていたのです。

ハンナは、赤ちゃんを産めない事の中に主のお考えがある(5節)と考え至った可能性があります。

 

ハンナが、与えられた男の子を生涯おささげしますという祈りと提案は唐突に見えます。

ですが第一歴代誌6:33~38に書かれている系図を良く読むと、エルカナはレビ人の流れを汲んでいることが分かります。何かの理由でエルカナはレビ人の働きから外れ、エルカナの心の中に後悔と復帰したい望みがあったのかもしれません。妻のハンナはそれを知り、自分にできる事に気づいたのかもしれません。

 

北アルプスに降った雪や雨が地中に染みこみ、長い年月をかけてろ過され、湧き水となって安曇野のワサビ農場に流れ込んでいます。その農園だけで12万トンの清らかな水が毎日流れています。

そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」(第一サムエル1:11)

ハンナの心の中を汚れた言葉が通過してきましたが、ついに透明な湧き水となって純化され溢れ出ました。主にお仕えしたい。生まれて来る子をおささげしたい。私とこの子をお用い下さいと祈れたのです。

 

□神への文句でなく、誰かへの復讐や呪いでない祈りがある

□主の前に出て、主のしもべとして心を注ぎ出そう

□祈りを純化し、結晶化し、あなたの本当の願いに気づこう

□生きるにしても死ぬにしても主の栄光を願い求めよう

第一サムエル1:1~8 始まりは涙

 子供を産めなかった女性は離縁させられる。それは、世界でも日本でも広く行われた残酷な習慣です。家の継続を優先した男性中心の考え方でした。紀元前1100年ごろのユダヤでもそれは同じことでした。

エルカナは、おそらく最初ハンナと結婚したのでしょう。何年か一緒に過ごしましたが子供が生まれません。しかたなく、エルカナはハンナより若いペニンナを妻としたのでしょう。ペニンナは男の子も女の子も複数産み(4節)エルカナを安心させました。

「ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。」(第一サムエル1:5)

 ハンナが赤ちゃんを産めなかった背後に主の特別なお考えがありました。ハンナの苦悩によって生まれた祈りと熱意が祭司サムエルの誕生に結び付きますがそれは後の話です。

 ペニンナは赤ちゃんを産めないハンナを責め(6節)、苛立たせ怒らせました。毎年、その緊張関係がシロで極度に高まり、幸せなはずのご馳走の席でハンナは涙が止まらず食べられません。ペニンナの子供たちも不思議な顔で見ていたことでしょう。

 夫のエルカナは、ハンナに言葉をかけますが、ハンナの心には届きません。(8節)

 

 ところで、ペニンナは、何故ハンナを苛立たせるのでしょう。ペニンナはたくさんの子供を産み優位に立っているはずです。それは、夫エルカナが、子どもを産めないハンナを決して離縁しないことが癪に障るのです。決定的な事は、「彼がハンナを愛していた」(5節)(8節)事です。夫エルカナはハンナを愛していたとペニンナにも分かったのです。ですから、ペニンナのほうが苛立っていたのです。

 残念なことに、ハンナは自分が不幸だと思い、赤ちゃんが産めないことがその原因だと考え、全体の状況を大きく見ることができません。

環境があなたを不幸にしているのではありません。また、身近な誰かがあなたの不幸の原因ではありません。

あなたの考え方が不幸を引き寄せているのです。感謝を見出し、主の恵みに気づくなら、環境に左右されない平安と喜びがやってきます。

□誰かのせいで不幸ではない、あなたの考え方と受け止め方が不幸にしている

□与えられている感謝と恵みを数えてみよう

□思い通りに行かない時は、主との関わりの中で何かが生まれようとしている

2025年10月5日日曜日

ヨハネ21:15~25 わたしに従え 

 ルカ24:34の「シモンに姿を現された」と第一コリント15:5の「ケファに現れ、それから十二弟子に現れた」によれば、主イエスは復活された後にペテロに個人的にお会いになっています。そこでペテロは涙の悔い改めをしたことでしょう。そして主イエスの赦しを確認していたのでしょう。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)

 主イエスの質問と答えを簡潔に英語にすると、Do you love me?  Yes となります。主イエスは私を愛すかと三度同じ質問をされました。

 主イエスは、なぜ、この質問をされたのでしょう。

 第一に、この質問の大前提に気づいてもらうためです。私はあなたを愛している、では、あなたはどうなのかいと主イエスは尋ねているのです。ペテロが失敗しても、裏切っても、主イエスはペテロを愛しています。

 第二に、ペテロの再出発のためです。三度主イエスを否んだという出来事は、公の場で修復される必要があります。他の十二弟子はこのやり取りを見て、三度否んだペテロが三度愛しますと言うことで新たなスタートを切ったと納得できました。

第三に、主イエスはペテロに使命を公にお与えになりました。私の羊を飼いなさいとペテロにだけ言われました。今後の教会のリーダーシップを取りなさいとの指示です。

第四に、今後の人生は主イエスを愛して生きていきなさい。これが最も大事!

 

ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:21~22)

ペテロは殉教の死を遂げると予告されました。「両手を伸ばす」(18節)とは十字架刑を意味しています。

ヨハネがどんな人生を送ろうが、あなたはあなたの人生を送りなさいと主は言われました。

ヨハネの福音書は哲学的にまた神学的に始まり、7つの「しるし」を通して主イエスが神であり救い主であることを冷静に証明してきました。ニコデモやサマリヤの女やマルタとマリアなどとの交流を通じて主イエスの温かい人柄が示されました。さらに十字架と復活の出来事を詳細に書き記すことで主イエスまことの救い主であることを明らかにしました。あとがきでは、復活の主との喜びと平安に満ちた朝食の思い出を書き添え、ペテロの再出発で新たな始まりを感じさせ、主イエスを愛して生きようとヨハネは励ましてくれました。

 □あなたへの愛は変わらないと主は言われます
 □再出発できます
 □主イエスを愛して行こう
 □人真似でなく、人に左右されず、自分なりに主イエスに従おう

第一サムエル2:12~26 少年サムエル 

  エリの息子たちのホフニとピネハス(第一サムエル1:3)はひどく堕落していました。神に関わる儀式を執行しながらも「よこしまな者たちで、主を知らなかった」(12節)とあります。一般人が純粋な心でささげる「主へのささげ物を侮った」(17節)という罪はとても重いものでした。 ...