2021年11月28日日曜日

詩篇29篇

「力ある者の子らよ。主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ。
 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ。」(1~2節)

29篇の主題は明快です。主に栄光を帰す、です。大自然に表された神の偉大な力を見るときに、私たち人間は神に栄光を帰すべきだと分かります。

ダビデは詩篇19篇で大空や太陽の美しさを見ながら神の素晴らしさをたたえましたが、29篇では、恐ろしいと感じるほどの神の偉大な力を語っています。

イスラエルの国土から見ると北部にレバノンの森林地帯があります。(シルヨンはヘルモン山のことです)南にはカデシュと呼ばれる荒野があります。その両方において神の偉大な力を見出せます。

「主の声は杉の木を引き裂き、主はレバノンの杉を打ち砕く。」(5節)

レバノン一帯は古代から巨大な杉の産地として有名でした。主が声を発すると落雷となり巨体なレバノン杉を引き裂きます。見上げるばかりの巨木が倒れ、まるで子牛が飛び跳ねるように次々となぎ倒されて行きます。大音響の雷鳴、稲光のすさまじさ、大きな音をたてて倒れる大木を見ると、主の声の力に圧倒され、畏怖の念が沸き起こります。(4~7節)

南部のカデシュでは乾燥した土地が無限に広がり、大きな岩があちこちにあります。主の声ひとつでそんな堅い大地が揺れ動くのです。(8節)

落雷で大規模な山火事が起き大森林が裸にされて山脈に新陳代謝を促します。そこに暮らす動物たちも、主の御手の中にあるのです。(9節)

「主の宮ではすべてのものが『栄光』と言う。」(9節)

神に造られた自然は神に栄光をささげていますが、人だけが自分の栄光を求めています。まるで、自分一人で生まれて来て、自分一人で成長し、誰の恩を受けずに生きているような傲慢な人が増えています。私たち人間は、自然界に示された神の偉大な力の前にひれふし、主をあがめるべきです。

私たちはどのようにして神に栄光を帰すことができるのでしょうか。それは第一に、礼拝することです。神さま、あなたは素晴らしい方ですとたたえることが礼拝なのです。それによって、神に栄光を帰すことができるのです。

その時、私たちは本来の人間の姿を取り戻し、11節にあるように、神から力を頂き、平安を頂き、祝福を注いで頂けるのです。

もう一つは、日常生活の中で神を意識することです。それで神に栄光を帰すことができます。仕事をしていても、何かの奉仕をしていても、私は神さまのおかげでこの事ができたと感謝することです。

音楽家バッハの自筆楽譜の冒頭にJJ、末尾にSDGというアルファベットが書かれています。ラテン語でJJ Jesu juva!イエスさま助けて下さいという意味で、Soli Deo Gloriaは、ただ神に栄光あれという意味です。バッハが神に助けを求めて作曲をスタートし、完成した時は神のおかげですと主に栄光を帰していたことが分かります。

今週、何かをする時、主イエスさまに助けて下さいと祈り、それを終えた時に主のおかげですと感謝して神に栄光を帰しましょう。何かを達成した時、完成した時、勝利した時、乗り越えた時、獲得した時、ほめられた時、あなたの心を主に向け主に栄光を帰しましょう。

□主を礼拝し、主に栄光を帰しましょう
□仕事も奉仕も人生も、主の助けを頂き、主に栄光を帰す、と心に決めましょう

2021年11月21日日曜日

詩篇28篇

「主よ、私はあなたを叫び求めます。
わが岩よ、どうか私に耳を閉ざさないでください。

私に沈黙しないでください。」(1節)

何も変化がない事。沈黙が長いこと。ダビデはそれを一番不安に思いました。私の声が主に届いていない。神の言葉が聞こえてこない。主との交流が途絶えてしまったと感じました。それまで、ダビデと主との間に緊密な交流があったことが分かります。

神とのつながりが確認できない中、ダビデがとても恐れていたことがあります。あの悪者がしかけた悪事にダビデも巻き込まれて一緒に滅んでしまう危険があると感じました。(2、3節)イスラエルの民全体にも大きな被害が及ぶと危惧しました。

3~5節には、その悪者の様子が描かれています。ダビデは悪者の名前も顔も知っていますがここには書きません。悪者は善良な姿を演じ、身近な人に平和を語りますが、実際は邪悪な事をします。(3節)イスラエルの民も被害を受けます。悪者は神を畏れぬ者たちなので(5節)、神のなさることを悟らず、主を無視して生きています。邪悪な行為にふさわしい処罰を悪者に与えてほしいとダビデは主に願いました。(4節)

ダビデの息子のアブシャロムは、数年かけて市民に甘い言葉をかけ、王を批判し、人気を集めてクーデターを起こし、都を乗っ取ったことがありました。ここでダビデが年頭に置いている人物はアブシャロムと取り巻き、それとよく似た人物だったのでしょう。

「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み私は助けられた。
私の心は喜び躍り私は歌をもって主に感謝しよう。」(7節)

結論部分の6~9節を見ると、ダビデは主をたたえています。悪者への呪いの言葉を浴びせたりせず、主に向かって喜びの歌をささげました。

主に油注がれた者、つまり王にとって神は救いの砦です。主の助けによって悪者が処罰され、イスラエルの民も救われました。主ご自身がイスラエルの民を祝福し、羊飼いとなって導いて民を下さいとダビデは祈りました。ダビデは王として謙虚でした。

「どうか御民を救ってください。

あなたのゆずりの民を祝福してください。

どうか彼らの羊飼いとなっていつまでも彼らを携え導いてください。」(9節)

あなたは、家庭や職場で、何らかの意味で小さな羊飼いであり、小さな国の王さまです。あなたが世話をする人たちのことを主に導いてもらいましょう。

□主に、聞いてもらい、語ってもらい、風通しの良い交わりを保とう。
□悪者の処罰は神にゆだねる

□あなたが世話している人達を羊飼いである主に導いて頂こう。

2021年11月14日日曜日

詩篇27篇

 27篇の前半1~6節には、揺るぎない確信と神を慕い求める心が満ちています。「主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。」(1節)「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。」(4節)

けれども後半の7節から14節は、心が崩れて動揺し、捨てないでと助けを求めています。「見放さないでください。見捨てないでください。私の救いの神よ。」(9節)

それで27篇は、二つの別な詩篇がつなぎ合わされたように見えます。でも、これが人間のありのままの姿なのです。

前半から見て行きましょう。私を殺害するための戦争が起き、敵が陣営を張っても、私は動じないとダビデは力強く述べました。主が私の光であり、私の救いであることを知っていたので恐れなかったのです。

ダビデが最も望んでいたことは何でしょう。主の家に住むことです。

「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。(4節)

人生で一番大事なことは何か、それが分かっている人はぶれません。主イエスをもてなしたマルタは心が分かれて落ち着かず、主イエスに言われてしまいました。「必要なことは一つだけです」と。(ルカ10:42)一方マリアは主イエスのおことばに聞き入っていました。

主を見上げ、神のご性質の素晴らしさに触れた時、私たちは喜びで心が満たされ、魅了され、時を忘れ、心が澄み渡り、力と勇気と愛が内側から溢れてきます。

ダビデは神殿を建設することはできませんでしたが、どんな場所にいてもどんな環境にいても「主の麗しさ」を仰ぎ見ることができた人でした。もう主の家に住んでいたのです。

私たちの礼拝も、神の麗しさを見上げているのです。神の麗しさを体験した人は、神が光であり、神が私の救いだと確信できるので、恐れなく歩めるのです。

ただし、私たちの人生には通常の試練のレベルを超えたとんでもない困難が数回襲ってきます。そんな時は、飛行機が墜落する時のように錐もみ状態で落下し、信仰の確信が吹き飛び、神さまの御顔が見えなくなります。

「どうか御顔を私に隠さないでください。あなたのしもべを怒って押しのけないでください。あなたは私の助けです。」(9節)と叫ぶしかないのです。

たとえ父母が見捨てても見捨てない神(10節)がおられると分かっていても、悩みが深いと御顔が見えなくなります。「あなたに代わって私の心は言います。『わたしの顔を慕い求めよ』と。」(8節)神の御顔を慕い求めることが脱出の道だと知っていても、それができない時もあります。主はいつくしみ深い方なのだと自分に言い聞かせ続けます。(13節)

解決の糸口を失い絶望しそうになった時は、自分の魂に向かって言いましょう。主を待ち望めと。主は私の救いです、必ず主は助けて下さいます。

「待ち望め主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め主を。」(14節)


□主は私の救い、私は恐れない。
□主の麗しさを仰ぎ見る礼拝をしよう

□嵐の日は、主を待ち望もう。

2021年11月6日土曜日

詩篇26篇

「主よ私を弁護してください。
私は誠実に歩み、よろめくことなく主に信頼しています。」(1節)

 詩篇26篇には、誠実に歩くための秘訣が書かれています。誠実な人は損しても正しい道を選ぶので周囲の人はそれを奇異に感じ、別の動機を疑ったり誤解したりします。正しく歩む人がいると、悪者たちは自分の悪事があぶり出される事を恐れて、正しく歩む人を攻撃します。

 (3~5節)ダビデは悪者の仲間にならないと述べました。それは詩篇1篇に通じる内容です。不真実な人や偽善者や悪を行う人と関係を持たないことは身を守ることになります。悪者のそばにいると影響を受けたり賛同することになるからです。

 (6~8節)ダビデは礼拝を愛しましたが、これは誠実に歩むための大きな秘訣です。神を見上げる時、私たちは自分の本当の姿を見つめることができます。誰しもが正しい道を選びたいと願うのですが、悪に負けやすいのが人間です。自分の弱さに向き合い、礼拝の中で主に軌道修正してもらうのです。

 「あなたの恵みは私の目の前にあり」(3節)とありますが、礼拝で神の恵みを味わうなら正しく生きるためのエネルギーをもらえます。

 「あなたの奇しいみわざのすべて」(7節)を語り告げるとあるように、礼拝の中で、神が私のためにして下さった事を思い起こし、神をみわざを積極的に賛美していると、誠実に歩むための励ましを頂けるのです。

 「彼らの手には悪事があり、その右の手は賄賂で満ちているのです。」(10節)

(9~10節)私を罪人と一緒に滅ぼさないで下さいとダビデは願いました。悪者たちは、暴力とお金という不当な手段を用いて欲しいものを手に入れています。ダビデは、そうした不正を嫌い、正しい道を選びました。

 (11~12節)悪者が多くなった現代ですが、私たちもダビデと共にこう言いましょう。「しかし私は誠実に歩みます」(11節)

 神を礼拝し、神の恵みと神のみわざに目を留める人は、穏やかで、温かくて、誠実に歩む人になれます。「私は平らな所に立っています」(12節)とダビデは述べていますが、とてもバランスのとれた人格と生き方を身に着けたことが分かります。

□暴力や賄賂や嘘を遠ざけよう。
□主を礼拝し、神の恵みとみわざに目を留めよう。

□誠実で、温かい人になろう。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...