2023年2月26日日曜日

ルツ記1:1~5

 ルツ記の舞台が始まりました。

 時代背景は紀元前1050年より古い時代で士師記の時代と重なります。

1節に目を留めましょう。主人公の名前を意図的に「ある人」としています。その「ある人」は、飢饉のために、妻と二人の息子を連れて移住しました。中央山地に位置するベツレヘムから、死海の東側のモアブに引っ越しました。

その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。(ルツ記1:2)

彼らはベツレヘム出身のエフラテ人でした。預言者ミカの言葉で「ベツレヘム、エフラテよ。」(ミカ5:2)とありますが、エフラテとはベツレヘムの古い名前、あるいは別名とされています。1節と2節でユダ族のベツレヘムが繰り返されていますが、これは、物語のラストへの伏線となっています。

するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。(3節)

頼りにしていた夫のエリメレクは死んでしまいました。成人した息子が二人いたので、外国生活もなんとか守られ、モアブ滞在は10年に及びました。

二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。(4節)

二人の息子は現地の女性と結婚したのでナオミもほっとしたことでしょう。家族が一気に華やいだはずです。

するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。(5節)

幸せは束の間でした。二人の息子が次々と亡くなりました。伝染病だったのでしょうか。ルツ記はその死因は書きません。ナオミの涙すら記録しません。

ナオミは、人が遭遇する3つの悩みを全部経験したことになります。第一は自然災害。第二は環境の激変。第三は死別。

生きている限り自然災害は避けられません。飢餓、台風、地震、津波、洪水、土砂崩れ。コロナのような伝染病の広がりもあります。命を守るだけで精一杯でした。

 突然のリストラや会社の倒産、経験のない部署での仕事、見知らぬ地への転居、人間関係のもつれ、うつ病、などは大きなストレスになります。ナオミたちの経験した言語や文化への適応はつらいものです。自分が何者なのかというアイデンティー危機にも陥ります。

身近な者の死は悲しさと切なさで立ち上がれなくなります。歳をとるということは、誰かの死を必ず経験するという意味です。家族が減ることにより孤独が一層深まります。

「彼女と二人の息子が後に残された」(3節)
 「ナオミは二人の息子に先立たれて、後に残された。」(5節)

「後に残された」という言葉が繰り返されています。ナオミは、大切な家族を自分以外すべてを失い、異国でひとりぼっちになりました。他に誰もいないのです。

 劇場の幕があき、暗い舞台に一筋のライトが当たると、そこに涙にくれた女性がいる。それがルツ記の幕開けなのです。忘れないで下さい、舞台は始まったばかりなのです。

 人とは何でしょう。人生とは何でしょう。物事が順調な時には、自分は強い、自分はついていると感じます。けれども、自然災害や環境激変や死別死別を経験すると、人とは弱い存在だと気づきます。だから私たちには神が必要なのです。私たちは良い時も悪い時も、神に信頼して歩み続けましょう。

 「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできるだろうか。順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ。」(伝道者の書7:13~14)

 ナオミの祈りや礼拝の姿が今日の箇所にはありません。ナオミの信仰の灯芯は消えそうだったのです。でもそれでは終わらない、神は共にいてくださる、幕は開いたばかりなのだと教えてくれるのがルツ記なのです。

 「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」(イザヤ42:3)

 私たちは、自然災害や環境激変や死別を経験しながら生きていく
 逆境の日には主を頼りにして歩んでいこう
 幕が開くまで劇場の座席は暗いもの

2023年2月19日日曜日

創世記50:1~26

 ヨセフ物語は今日で完結します。
 家族は和解し、主の約束は実現しています。

ヨセフ物語の第一のテーマは家族の再生でした。父のえこひいきがヨセフを傲慢にさせ、それをねたんだ兄達がヨセフ殺害を企て、結果的にはヨセフは奴隷としてエジプトに売られました。父も含めてヨセフと兄たちがどう和解するかが語られてきました。
 第二のテーマは、共におられる神です。ヨセフがどんなに苦しんでも主が守りすべての事を益として下さいました。
 第三のテーマは神の祝福です。ヤコブの生き方がどんなに歪んでいても、ヨセフの兄たちが邪悪であっても、すさまじい飢饉が押し寄せて来ても、神の約束は確実に実現していきました。

今日の箇所、創世記50章は、ヤコブの死と埋葬、兄達への保護の約束、ヨセフの死と希望について書かれています。

ヤコブの遺言通りにマクペラの畑地の洞穴に葬りました。「息子たちは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地の洞穴に葬った。」(創世記50:13)

長寿を全うしたように見えるヤコブであっても、ヨセフは父の顔の上に崩れ落ちて泣きました。(1節)70日間の喪の期間が過ぎてから、ヨセフは父の遺言通りの埋葬を行いました。愛する人が亡くなったら、涙が枯れるまで悲しみましょう。葬儀と埋葬を通して新しい歩みを始める区切りとしましょう。

パレスチナの土地をヤコブの子孫に与えるという約束はまだ実現しておらず、アブラハムの買った埋葬のための畑地だけが彼らの土地でした。ヤコブがそこに葬られたいと遺言したのは神の約束の完全な成就を信じた信仰の表明だったのです。

 

ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。(創世記50:15)

父ヤコブの死をきっかけにヨセフが復讐するのではと兄達は恐れに捕らわれました。それで、父が兄達を赦すように遺言していたとヨセフに伝えました。(15~17節)

ヨセフはそれを聞いて泣きました。これは複雑な涙なのです。ヨセフが奴隷に売られたのが32年前のこと。兄達との再会して、「心を痛めたり自分を責めたりしないでください」(45:5)と兄達を赦してから17年もたっていました。復讐を恐れた兄達が不憫でした。ヨセフにとっての苦難の日々は過去になっていたのです。

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。(創世記50:20)

ヨセフの言葉はパウロの手紙を思い出させてくれます。悪を善に変えて下さるお方が私たちの信じている神なのです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)


この出来事から50年たった頃、今度は、ヨセフが臨終になり遺言を述べました。

ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」(創世記50:24)

ヤコブの生き方を引き継いだヨセフは、神が約束を実現してくださると希望を持って亡くなりました。神は「必ず」約束の地に上らせて下さる。ユダヤ民族がかの地に移住する時には、私の遺骸も携え上ってほしいと語りました。

約400年後、出エジプトを果たした人々の列に、ヨセフの遺骸が担われていました。(出エジプト13:19)


☐愛する人の死は心ゆくまで悲しみましょう。
 ☐神がおられるので、悪は良い事に変えられます
 ☐神の約束は必ず実現する

 ☐死ぬ時も希望を抱いて死んでいける

2023年2月12日日曜日

創世記49:1~33

 ヤコブは息子たちを呼び寄せて言った。「集まりなさい。私は終わりの日に おまえたちに起こることを告げよう。(創世記49:1)

神の祝福とヤコブによる祝福の違いを確認しておきましょう。神の祝福とは将来の幸せを約束したものです。子孫が増える事と約束の地を与えるという希望に満ちた将来を神は保証されました。また、祝福を受ける人物の不完全さに関わらず恵みを実現するのが神の祝福でした。

一方、ヤコブの祝福は、恵みの約束とはだいぶ異なり、息子達の過去の評価に基づくもので、場合によってはネガティブな未来を予測しています。また、ヤコブは人間ですから未来予想図を確約する完全な力はありません。

ただし、息子12人の特徴を良く知っていることは父親として立派で、それぞれにふさわしい祝福を与えたと言えるでしょう。イッサカルはロバ(14節)、ダンは蛇(17節)、ナフタリは雌鹿(21節)、ベニヤミンは狼(27節)という具合に、その人の性格や今後の生き方を的確にとらえています。

3~27節までにヤコブの祝福の祈りが記録されており、長男から末っ子の順になっています。

 

(5~6節)ルベンは「わが初穂」と呼ばれ長男として期待されていましたが、父のそばめビルハと床を共にした破廉恥な罪のため(創世記35:22)、長男の特権を奪われました。シメオンとレビは、妹ディナに関わる虐殺事件を起こしたことで(創世記34:25~28)厳しく責められました。

過去の失敗や罪は、悔い改めと謙虚な生き方によってやり直しは可能です。場合によっては将来の祝福の入り口にさえなります。年長の3人の息子はヤコブから厳しい言葉をもらいましたが、それもまた父の愛の表れです。レビ族はその後、祭司を助け礼拝と神殿のために奉仕する部族になっていきます。

ユダよ、兄弟たちはおまえをたたえる。 おまえの手は敵の首の上にあり、 おまえの父の子らはおまえを伏し拝む。ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。 雄獅子のように、雌獅子のように(創世記49:8~9)

(9~10節)ヤコブはユダの将来を明るく祝福しました。12部族で首位の座を与えられ、その力はライオンにたとえられ、王権がとどまり、その繁栄はぶどうの実によって象徴されました。ダビデ王はユダ部族出身であり、救い主イエスさまもユダ族の子孫としてお生まれになりました。ユダがベニヤミンの身代わりになり命を投げ出した勇気と犠牲が祝福のきっかけになったのです。

誰かのために貴重なものを投げ出した人は、失うのではなく祝福を受けることになるのです。「受けるより与えるほうが幸いである」(使徒20:35)とイエスさまが言われたとおりです。あなたにもライオンの心が与えられています。主から勇気を頂いて行動しましょう。

ヨセフは実を結ぶ若枝、 泉のほとりの、
 実を結ぶ若枝。 その枝は垣を越える。(22節)

(22~23節)ヤコブはヨセフを「実を結ぶ若枝」と表現して祝福しました。若枝は実りと希望を象徴した言葉です。ヨセフが奴隷生活に耐えてエジプトの指導者に立てられ、ヤコブの一族の生活を守ってくれたことをヤコブは高く称賛し感謝しているのです。

モーセの後継者ヨシュアはヨセフの子エフライム族(民数記13:8)から出ます。また、ミデヤン人と戦った士師ギデオンはヨセフの子マナセ族(士師記6:15)の出身です。

神は私たちの中にも「実を結ぶ若枝」を見ていて下さり、将来の結実を期待して待っておられます。寒い冬につぼみをふくらます梅の木のように、あなたの中にも将来の祝福がつぼみとなってその日を待っています。あなたも実を結ぶ若枝です。

 

☐子供たちや後輩のため、将来の祝福を祈ろう
 ☐失敗を祝福の入り口にしよう
 ☐私を獅子のように強くし、若枝のように育てて下さい

2023年2月5日日曜日

創世記48:1~22

 今回も祝福について考えてみましょう。

ヤコブは臨終を迎えました。ヨセフは息子のマナセとエフライムを連れて枕元にやって来ました。ヤコブはベッドに座るだけて一苦労で(2節)、目は見えていません。(10節)

ヤコブはヨセフに言った。「全能の神はカナンの地ルズで私に現れ、私を祝福して、仰せられた。『見よ、わたしはあなたに多くの子を与える。あなたを増やし、あなたを多くの民の群れとし、この地をあなたの後の子孫に永遠の所有地として与える。』(創世記48:3~4)

 ヤコブは過去に主から受けた祝福についてヨセフに語りました。ヤコブは若い頃、手に負えない自己中心な人間でした。そのため実家から夜逃げ同然で叔父の家に旅立ちました。その途中のルズ(ベテル)で神がヤコブを祝福して、多くの子供を与え、この地を与えると主は言われました。(創世記28章)

若き日のヤコブは独身で、約束の地から逃走している最中でした。約束の実現が不可能と思える状況にいました。けれども、「全能の神」が必ず実現すると確約されたのです。20年後にルズに戻った時には、子供が12人与えられていました。そして、神は同じ言葉を語られ、約束は忘れていない、約束は完全に成就する途中にあることを示されました。(創世記35章)

 祝福の本質とは何でしょう。神がその実現を保障してくださる約束です。祝福とは、言い換えるなら、神だけが見えている景色なのです。時間を造られた神は時間を超越して、約束が成就した時点を見ることができるのです。

 私たちが子供や孫のために祝福を祈るのは、私たちが受けた祝福を次の世代に継承する行為なのです。

 ヤコブは、ヨセフの二人の息子マナセとエフライムを孫の地位から、息子の地位に引き上げると宣言しました。(5節)ヨセフは二倍の遺産を受けたことになります。ヤコブからヨセフへの感謝の表れなのでしょう。

 ヤコブは手を交差させて右手をヨセフの次男の頭に乗せて祝福の祈りをしました。(14節)将来、弟が兄をしのぐとヤコブは予測していました。(9節)

 彼はヨセフを祝福して言った。「私の先祖アブラハムとイサクが、その御前に歩んだ神よ。今日のこの日まで、ずっと私の羊飼いであられた神よ。」(15節)

 ヤコブは、二人の孫のために、祖父アブラハムと父イサクの神が祝福して下さるように心を込めて祈りました。また、ヤコブが今まで生きて来て、体験的に知っていた神を一言で言い表して、その神が祝福して下さるようにと祈りました。ヤコブにとって、神とは羊飼いのような存在です。

 20年間、叔父の家で羊飼いをしてきたヤコブは、羊飼いの仕事を熟知していました。羊を危険から守るのが羊飼いであり、適切な場所に導くことも大事な任務であり、何より、どんな時も羊と共にいて羊を愛す存在が羊飼いでした。ヤコブにとって神とは羊飼いなのです。神に守られ、神に導かれてきたのです。聖書で初めて、神を羊飼いと述べたのはヤコブでした。

 ヤコブが、神の下さった祝福の約束を固く信じ通したという記述は聖書にありません。むしろ、神の約束を忘れて、人生の波に翻弄されていただけの人生でしたが、気づけば、子供や孫が70人に増え、エジプトで落ち着いた老後を迎えていました。羊飼いである神にずっと導かれて来たのです。

 神は、あなたにとっても羊飼いです。そのことを感謝しましょう。ずっと離れずにいましょう。神の祝福を、子供、孫、後輩たちに継承しましょう。心を込めて、声を出して、祝福を祈ってあげましょう。

 

☐神の祝福を子供たちや若い世代にあかししよう。
☐子供たちが祝福されるように祈りましょう。
☐神は私の羊飼いです。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...