2023年3月26日日曜日

ルツ記2:1~7

 季節は春。大麦があたり一面に実り、収穫の時を迎えました。1章はナオミの物語でした。2章からはルツの物語になります。黄金に輝く畑の景色は、若い女性が苦境を乗り越え、素晴らしい男性と出会う前触れとなっています。

 「有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった」(ルツ記2:1)

素敵な独身男性が登場します。名前はボアズ。ナオミの夫の親戚であり、畑を所有している地域の有力者でした。 

モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。(2節)

ルツは外国人であり、とても貧しい女性でした。2節と6節で、ルツがモアブ人であることが強調されています。律法には、「モアブ人は主の集会に加わってはならない」(申命記23:3)と書かれていましたが、ルツがナオミの神を信じて正式に改宗者として認定されていたのかもしれません。12節でも、ボアズはルツがまことの神を信じて助けを求めたことを既に知っていました。

ルツは、初めての土地で仕事をすることにしました。「畑に行かせてください」という発言にルツの勇気を感じます。また、ナオミを経済的に支えるという決意と愛を感じます。この言葉に励まされ就職活動をしようと考える人もいるかもしれません。

外国で働きに出ると想像するだけで私たちは足がすくみます。親切にしてくれる人を与えて下さい、良い畑に導いて下さいと、ルツは祈ったことでしょう。思い切って出かけて行って、ここが良いと決めて飛び込んだ畑が「はからずも」ボアズの畑でした。
 レビ記23:22に「収穫の落ち穂も集めてはならない。」と規定されています。落穂拾いは、貧しい人と寄留者に仕事と生活の糧を与える制度でした。

 ボアズはベツレヘムから自分の畑の様子を見に来て、畑で働く人々に挨拶しました。「主が、あなたがたとともにおられますように。」(4節)

このフレーズには聞き覚えがあります。ナオミも「主が」と言って、神の恵みを語っていました。挨拶の中で自然に主のお名前を出すところにボアズの信仰がにじみ出ています。働く人々もボアズに主の祝福を願う挨拶を返し、ボアズの信仰が良い形で浸透していることがうかがえ、農夫たちからも信頼されていることが分かります。

 ルツはもちろん晴れ着を着たり、お化粧などしていません。普段着で、汗をかいて仕事をし、顔にはほこりや泥もついていたかもしれません。「あれは誰の娘か」(5節)とボアズは作業責任者に尋ねました。ボアズは、畑で働く新顔の女性ルツに目を留めました。ルツはまだその視線に気づいていません。

彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」(7節)

 畑の作業責任者は、ルツが落ち穂拾いをさせてほしいと申し出た挨拶と熱心な労働態度についてボアズに報告しました。挨拶がきちんとできる人、誰が見ていなくても与えられた仕事に忠実な人。そういう人は結婚相手にふさわしい人です。

この日はルツにとって就職初日と言えます。ルツは畑の全体像も、働く人々の名前や個性も、仕事の手順も何も分からなかったはずです。教えられた役割を果たしながら、一生懸命に働きました。人を見ずに、主だけ見ていたと言っても良いでしょう。

 信仰が日常生活ににじみ出るボアズ。ナオミを支えるために主を頼りに仕事を探し、人の目ではなく主を見上げて誠実に働く人がルツでした。二人とも、神を見上げる人です。神を見上げる横顔の美しい人です。

ルツが働いた畑は「はからずも」(3節)ボアズの畑でした。ルツが働き始めた「ちょうどそのとき」(4節)ボアズは畑にやって来ました。主はあなたのために、タイミングを整えて下さいます。主を信頼して、新たなステップを踏み出しましょう。


 ☐主を見上げる横顔の美しい人になろう。
 ☐ボアズのように、日常生活に信仰を生かす人になろう。
 ☐ルツのように、主を見上げて職場を見つけ、挨拶をし、誠実に仕事をしよう。
 ☐神は「はからずも」「ちょうどそのとき」を演出して下さる方。

2023年3月19日日曜日

ルツ記1:19~22

 ナオミとルツはベツレヘムを目指して歩きました。死海は海抜マイナス400m、ベツレヘムは海抜800m。つまり1200m登ることになります。その上、エリコからの山道は強盗も出る危険な場所なので(ルカ10章)二人の絆は一層強くなったことでしょう。故郷ベツレヘムが見えた時、ナオミは安堵したはずです。

 二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。(ルツ記1:1~20)

 主を見上げて歩いて来たナオミでしたが、町の人の態度の冷たさに心が折れてしまいました。

 ナオミという名前は、喜びや心地よさという意味です。日本語にすれば、幸子さんや良子さんという感じです。ナオミは、マラ(苦いという意味)と呼んでほしいと言い出し、落伍者自虐モードになってしまいました。

 何がナオミを変えたのでしょう。視線を神さまから町の人々に移してしまったので、みじめになったのです。女たちの噂、人々の態度や視線に関心を向けたので心が崩れてしまったのです。

 あなたは今、周囲の人々から注目を浴び、凝視されていると感じますか。心が弱っているとそう思えるだけで、実はそれほどあなたに関心があるわけではありません。自意識過剰なのです。目を主に向けましょう。上を向きましょう。

 私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(21節)

 自暴自棄になったナオミは神を非難しました。どんな事でもおできになる神、全能者が、私を助けてくれなかった。夫が死に、二人の息子が死んだ。全能者が私を卑しい立場に突き落とされました。つらい目に合わせた。以前はたくさん持っていたのに、今では、すべてを失った。何もない。

 こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。(22節)

 すべてを失ったとナオミは感じていました。22節の記述は、そうではないと言いたいのです。さらっと読むと、単なる要約に思えます。いいえ、違います。こんな時でも神の希望が注がれていると言いたいのです。

 すべてを失ったように見えて新しく手に入れたものがあったのです。ルツです。ナオミを尊敬し、愛し、どこまでもついて行くと献身を表明した、若くて情熱があって信仰に燃えているルツがナオミのヘルパーになったのです。ナオミはそれを忘れています。あなたの周囲にもルツがいますよ。探してください。

 もう一つ。帰って来た時期が素晴らしい。大麦の収穫が始まったときだったのです。飢饉は去り、豊かな実りが期待できました。希望が感じられるフレーズです。あなたの周りにも大麦の刈り入れが始まっています。気づいてください。

□人の目、人の態度に惑わされないこと
□落伍者自虐モードに入らないこと
□すべては失っていない、ルツが加わった
□収穫の季節が始まろうとしている

2023年3月14日火曜日

ルツ記1:15~18

嫁の一人、オルパは泣きながら実家に帰りました。けれどもルツはナオミにすがりついて離れません。ナオミは、帰りなさいと命じましたが、これで4回目になるので、(8、11、12、15節)ルツは、お母様を捨てて帰るように仕向けないで下さいと抗議しました。

 お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(ルツ記1:16)

 実家に帰らないのは嫁の義務を果たすためではない。お母さんを尊敬しているから、お母さんが大好きで、お母さんに幸せになってほしいから、一緒にいたいからなのです。

 ルツの言葉は結婚式の誓いの言葉を連想させます。ナオミに対する約束だけでなく、17節から分かるように神に向けた約束でもあるのです。アメリカ版の結婚の誓いの言葉には「死が二人を分かつ時まで」という表現がありドキリとさせられますが、最も強い表現で結婚相手への愛を伝えいるのです。ルツも、あなたが死ぬところで私も死にますという強い愛と献身の姿勢を表わしています。

 夫婦のみなさん、結婚の誓いをもう一度思い出し、生涯それを実行しましょう。嫁や姑の立場の人ならば、ルツの愛の言葉やナオミの優しさから何かをつかんで下さい。

 

 もう一人の嫁オルパが帰った姿を見て、「自分の民とその神々のところに帰って行きました」(15節)とナオミは表現しました。モアブの女性は自分たちの神々を信じていたのです。けれどもルツは、ナオミの神が私の神になったと述べました。これは短いですが、完全なる信仰告白です。

 なぜ、ルツは聖書の神を信じるようになったのでしょう。ルツは、神の奇跡を何一つ経験していません。夫を失い悲しみの中にいたのです。神がいるなら何故こんなことになったのだと神を恨んでもおかしくありません。

ナオミに慰められたことが信仰をもつきっかけかもしれません。あるいは、ナオミの悲しむ姿を見たり、ナオミの日常生活を見て、尊敬できる人だと感じたのかもしれません。信頼できる人が信じている神を私も信じたいと思うことは、とても自然なことなのです。

 あなたが普通に生活しているだけで、誰かに神さまのことを伝えていることになります。成功したら神をあかしできると考えなくてもよいのです。人に良く見られようとメッキを塗るような生活態度には無理があり、続きません。信仰者にも喜びの日もあれば悲しみの日もあります。ありのままの姿が神を指し示しているのです。

 あなたへの永遠の誓いをしてくれたのは、あなたの配偶者だけではなく、もう一人います。イエスさまです。「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)

 私たちを見放さない主イエスさまに感謝して、どこへでも行きます、何でもします、いつまでも一緒にいますと告白しましょう。

 ☐大切な人への約束を生涯にわたり果たしていきましょう
 ☐あなたの普段の姿が誰かに神を伝えています
 ☐信頼している人の信じている神は、私の神になる

2023年3月5日日曜日

ルツ記1:6~14

 ナオミは一人「後に残されました」。

 夫と二人の息子たちに先立たれたナオミは悲しみに暮れていたのです。1~5節には、神の名が一度も出て来ません。ナオミの祈りもありません。ところが、今日の箇所では雰囲気が変わります。ナオミの心に何が始まったのでしょう。

主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。(ルツ記1:6)

 主がパンを下さったと書かれています。普通なら、ユダ地方で飢饉が終わり収穫があったという一般情報だけが届きます。ただし、ベツレヘム付近のユダヤ人が神の御手を強く感じた場合にはその信仰が一緒に伝わってくる場合があり、それを聞いたナオミが励まされたのかもしれません。もう一つの可能性として、飢饉が終わったという一般情報を聞いたナオミが、主の御手を感じた場合も考えられます。飢饉が終わったという情報がナオミの心を明るくしました。

 主がパンを下さったと書かれてあります。「主」を主語にして物事を考えると、人生の見方が変わります。過去を振り返って「主が」という文章を作ってみましょう。自然に感謝の言葉になります。日常会話で「主が」という言葉を使うようになると、感謝の人になれます。

 7節をご覧ください。ナオミは異国の生活に区切りをつけて、家を整理しました。二人の嫁と一緒にベツレヘムを目指して旅立ったのです。ところが嫁たちの顔つきが暗くなり、足取りが遅くなるのをナオミは察知したようです。そうだ、嫁たちにはとってユダは外国。心細いことだろう。そこで、二人の嫁を解放してあげることにしました。実家に帰りなさい。再婚して新しい人生を始めなさいと伝えました。

 ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。(8~9節)

 8節と9節で、ナオミは「主が」という言葉を二回使っています。未来を意識したり、他の人を意識して「主が」と言う言葉を使うと、それは自然に祈りの言葉になります。主が必ずして下さるという期待、信仰告白になります。

 「主があなたたちに恵みを施してくださいますように」(8節)
 「主が~新しい夫の家で安らかに暮らせるように」(9節)

二人の嫁はナオミの言葉を聞いて泣きます。お姑さんとは離れませんと言ってくれました。けれども、若い二人の将来は長いのです。

11~13節は、義理の娘たちの幸福を願うナオミの気持ちがあふれています。姑の私が今晩再婚して息子を生んでも、育ってあなた方の夫になる日まで何年かかると思うの、年下の男の子なんて歌ってる場合じゃないの。ユーモアを織り交ぜながら、断固とした態度を示しました。

悲しみの中に閉じ込められていたナオミは、若い嫁たちの将来に気を使える人になっていました。年老いて一人で帰る心細さより、若い者の未来を優先できたのです。

 

あなたの番です。「主が」から始まる文章を作って下さい。

 過去のことを取り上げた人は感謝の言葉になっていますね。未来のことを考えた人は、主に信頼している人で、主が助けて下さると信じている人です。自分以外の誰かを想定して作った人は、とりなしの祈りをした人です。普段の生活でもっと「主が」と言える人になりましょう。
 ナオミは「主が」と言い始めることにより、暗闇から光の中に移り始めたのです。

☐日常生活でもっと「主が」と言おう。
☐若い誰かの未来を助けて応援してあげよう。

☐不透明な未来であっても、主を信頼して歩み始めよう。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

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