2023年8月27日日曜日

エペソ3:1~7 福音に仕える

 「こういうわけで、あなたがた異邦人のために、私パウロはキリスト・イエスの囚人となっています。」(エペソ3:1) 

パウロは3つのために生きて来ました。第一に、あなたがた、つまり異邦人のため、第二にキリストのため、第三に奥義のためです。

パウロの逮捕については使徒21~23章に詳しく書いてあります。パウロがエルサレム神殿にいた時、異邦人を神殿に連れ込んだと勘違いされ暴行を受け、それが大騒動になり、ローマ兵が出動してパウロは逮捕されました。(使徒21:27~29)

パウロはエルサレム神殿の庭から救助された後、階段の上から人々に向かって自分の人生と主イエスによる救いの証をしました。群衆はしばらく静かに聞いていましたが、次の言葉で逆上しました。「主は私に『行きなさい。わたしはあなたを遠く異邦人に遣わす』と言われました。」(使徒22:21)

人々はその言葉は冒涜に値すると激怒しました。神が汚れた異邦人を救うはずがないし、関心を持つはずもないし、異邦人に仕えるためにパウロを派遣するはずもないと群衆が思ったからです。

実は、復活の主イエスに出会って信仰を持った当初のパウロは、ユダヤ人の意識や文化にまだ束縛されていたと思われます。ですから、「わたしの名を異邦人、王たち、イスラエルの子らの前に運ぶ、わたしの選びの器」(使徒9:15)と言われてもすぐにその正確な意味を把握できなかったでしょう。アラビヤで一人で過ごした3年間の中で(ガラテヤ1:17~18)主イエスが語られた事柄の真意を悟ったのかもしれません。なお、奥義の理解はパウロ個人の主観的悟りではなく、他の使徒たちや預言者にも与えられていたものなので客観性がありました。(エペソ3:3~5)

「それは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人も共同の相続人になり、ともに同じからだに連なって、ともに約束にあずかる者になるということです。」(エペソ3:6)

異邦人もユダヤ人と同じく恵みによって救われる。それだけでなく、異邦人もユダヤ人と同様に同等に、神の祝福の相続人となり、共にキリストのからだの一部とされ、昔からユダヤ人に与えられていた神の約束にもあずかることができるのだと分かったのです。

異邦人が救われたら教会ができるが、ユダヤ人教会と比べて一段低いレベルの異邦人教会にするべきか、否、キリストを頭とするキリストの体に同じく組み込まれるお互いだから、一つの教会になると理解できたのです。

長い間隠されていた奥義の意味が明らかにされ、パウロの世界観が変えられました。これこそ神のみこころだとパウロは心を燃やしたことでしょう。その喜びが福音を伝える新鮮なエネルギーとなりました。すべての民族の祝福というアブラハムに与えられた使命が、パウロの使命となったのです。パウロはこの使命のためなら逮捕されても、死刑になっても本望だと考えるようになったのです。

「私は、神の力の働きによって私に与えられた神の恵みの賜物により、この福音に仕える者になりました。」(エペソ3:7)

 

今日の箇所を私たち自身に適用しましょう。

今のあなたの仕事、置かれている役割は、誰のためですか。主イエスはあなたにどんな使命を与えて下さっていますか。あなたは福音の奥義に仕える者とされています。

□私たちにとって「異邦人」とは誰でしょう
 □祝福を誰かにシェアするために私たちは生きている

2023年8月20日日曜日

エペソ2:11〜22 二つを一つに

 今日は仲直りの話をします。

 2章前半でパウロは恵みによる救いを説明しました。続く今日の箇所において、主イエスの福音が私たちを罪から救うだけではなく、ユダヤ人と異邦人を一つの家族にする力、つまり、分裂を一致に変える力を持っていると解説しました。
 争いに満ちた私たちの世界は、今こそ、この福音を必要としています。

エペソ人も、私たち異邦人も、「この世にあっては望みもなく、神もない者たち」(2:12)だったのです。けれども、キリストの血によって、神と近い関係にして頂けました。異邦人をユダヤ人となんら変わらない地位に引き上げて下さったのです。

 「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。」(2:13)

聖書全体の流れを思い浮かべて下さい。神がアブラハムを選んだ目的は、ユダヤ民族を通してすべての民族を祝福することでした。(創世記12:2~3)ところが、ユダヤ人はそれを勘違いし、特権意識を肥大させ異邦人を見下し付き合いをしないようになりました。

主イエスの福音、主イエスの十字架は、二つに分かれた民族を一つにするための神の知恵だったのです。

主イエスも、「わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。……一つの群れ、一人の牧者となるのです。」(ヨハネ10:16)と語られ、ユダヤ人と異邦人の救いだけでなく、両者の和解と一致を願っておられました。

 奇しくもエルサレム教会が激しい迫害を受けたことにより、クリスチャンが周囲に散らされて異邦人にも福音を語り出しました。その結果、アンテオケにおいて異邦人を中心にした教会が出来上がりました。異邦人とユダヤ人混在のこの教会が、その後の世界宣教を推し進めることになりました。

 「二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。」(2:16)

 福音により、主イエスの血により、ユダヤ人と異邦人は一つの体となりました。両者は和解し、神の家族になりました。そして、一つの神殿となって神を賛美し、両者共に成長していく存在になったのです。(18〜22節)

 ユダヤ人とエペソ人にだけでなく、主イエスの福音の力は私たちの中にも働いています。主イエスの血によって罪が赦されただけでなく、もつれてしまった人間関係や家族関係が主の恵みによって一つ一つが整えられています。

 「ごめんなさい」を自分から言ったり、心を込めて「ありがとう」を言えたり、「愛しています」と言えるようになります。

 あなたは誰と仲直りしたいですか。どこの国の人と手をつなぎたいですか。

 ユダヤ人と異邦人が仲良くするなら、それだけで神の栄光が表れました。あなたも誰かと仲直りできたなら神の栄光が表れます。

神が備えて下さった救いは個人の救いにとどまらず人間関係やコミュニティー、世界の再生につながるものなのです。私たちも神がアブラハムに期待されたのと同じに、周囲の人々に神の祝福をもたらす者として歩んでいきましょう。

□キリストの血により、神の近くに移された
□福音により、ユダヤ人と異邦人が一つになった
□十字架により、神の家族にされた
□私たちは平和を作る者として召されている

2023年8月13日日曜日

エペソ2:1~10  恵みによって 

1、どこから救われたのか 

「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいたものであり」(1節)

「あなたがたは」(2:1)とありますが、パウロが「あなたがた」と言う場合は異邦人やエペソの人々を指します。「私たち」(3節)と言う場合は自分を含めたユダヤ人を意味します。エペソの人々は神を知らず霊的に死んでいたのです。

 エペソの人が自由に生きていたと感じても、実は、邪悪な力、空中の権威を持つ霊の支配下にいたとパウロは指摘しました。

神の民ユダヤ人であっても、「自分の欲のままに生き」、神から怒りを受けるほど罪深い生活をしてきたのです。

借金を抱えた若者が闇バイトに手を出し、お年寄りを殴って大金を手に入れ、見えないボスに脅されて犯罪を繰り返す構造に似ています。

私たちの古いアルバムを開くと罪人の自分に直面することでしょう。

 

2、どのように救われたのか 

「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。」(8節)

普通、信仰に入るには、自分の罪を悔い改め、主イエスを信じると告白します。私たちもそのプロセスを通ってきました。ですが4~9節でパウロは、悔い改めについて一言も触れていません。救いという事実を包括的に見直すと、罪の悔い改め、あるいは人間の信仰は救い全体の1%程度の貢献であり、神の恵みが99%を占めているのです。いいえ、神の恵み100%で救われているのです。

「しかし、あわれみ豊かな神は」「あなたがたが救われたのは恵みによるのです」(4節)

4節の原文は、「しかし、神は」となっています。マーティン・ロイド・ジョンズは、この小さな二つの言葉の中に、キリストの福音のすべが含まれていると説明しました。

私たちも死人を救うすべはありませんし、ひどい悪人を救いたいとは思いません。けれども神は、死人で罪人であった私たちを愛し、信じられないほど大きな恵みで包んで下さって、救いに導いて下さいました。補欠合格者扱いのぎりぎりの救いでなく、天において最高の指定席に着かせて下さり、永遠の命を与え、主がずっと共にいて下さるという救いなのです。

 

3、何のために救われたのか 

 救いには方向性があり推進力があります。また自分自身のアイデンティティーを確認させる命を持っています。救われた人は何のために生まれたかを徐々にあるいはクリアに理解していくことになります。

「実に、私たちは神の作品であって、私たちが良い行いに歩むように」(10節)

私たちはガチャポンのボタンを押されて偶然にこの世に生まれた者ではありません。「すべてのものは、この方によって造られた。」(ヨハネ1:3)とあるように、私たちはキリストにあって大切に造られたのです。大量生産で作られた工業製品ではなく、手作りの工芸品、作者の魂のこもった芸術作品、世界でたった一つの神によるユニークな傑作なのです。

救われたのは何のためでしょう。神の備えた「良い行い」をするためです。「良い行い」とは何でしょう。神を愛し、人を愛し、正しくきよく生活し、本来の人間の良さを体現し、与えられた賜物で仕事を行い、生活のすべてを通して神の栄光を表すことが良い行いです。小さく弱い者が用いられたら主の栄光になります。

奴隷船の船長で後に信仰を持ったジョン・ニュートンは言いました。「私はあるべき姿にはなっていないし、なりたい自分の姿にも程遠い、けれども、私はかつての自分ではない、そして、神の恵みで今の私になっている」

□私たちは死人の中から、邪悪な力の支配から救出された
□私たちは、ただ神の大きな恵みによって救われた
□私たちは神の作品、良い事を行うために造られた

2023年8月6日日曜日

第一ペテロ1:3~7 ペテロと手紙 

ペテロの手紙第一。
 ペテロはこの手紙を紀元60~64年頃に書いたと思われます。イエスさまの十字架と復活から30年過ぎたペテロはどのように生活していたのでしょうか。彼の手紙を手掛かりにペテロの晩年に焦点を当てようと思います。

ペテロの手紙第一1:1で手紙の宛先の地域が示されていますが、現在のトルコ全地域を網羅しています。ペテロはその地域に住むクリスチャンを良く知っていました。ペテロがエルサレム教会ばかりでなく、異邦人教会の指導者としても認められていたことが分かります。ペテロは主イエスさまに命じられたように、主の羊を立派に導いていました。

1:2から、ペテロは神を賛美しています。主を礼拝することが生活の第一になっている印です。主イエスの十字架と復活が救いの土台だと説明しています。新生、希望、朽ちない霊的資産、神による守り、完全な救いについても言及しています。主イエスの救いに関するペテロの説明は、高学歴のパウロの理解と寸分たがいません。

 「今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。」(第一ペテロ1:6~7)

ペテロは試練について触れました。試練を通ることは悲しく辛いことだが金より価値があると述べ、主イエスからの称賛を受ける経験だと人々を励ましました。るつぼで金属を高温で熱し不純物を取り出す苛烈な過程を試練にたとえ、試練の苦しさに共感を示しています。こうした箇所を読むと、ペテロが情の厚い人、痛みに寄り添う人だということが分かります。

「キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。あなたがたは、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。」(1:8~9)

 ペテロは救われた人の心に特別な喜びがあることを体験的に知っていました。それで、各地に住むクリスチャンの信仰が本物だと認定し、試練の中でもその喜びを維持していることを称賛しました。ペテロは主イエスと離れて30年たっても、同じ喜びを持っていたのが分かります。

この手紙は迫害を受け苦しむ人々を励ますために書かれたものでした。それで、永遠に変わらないみことばを慕い求めるようにとアドバイスしました。(1:23~2:2)あなたたちは地域の人々に捨てられ村八分にされたかもしれないけれども、主イエスも人に捨てられたことを思い出してほしいと語りました。(2:4~8)不当な苦しみを受けている人は主イエスの十字架に目を向けるようにと語りました。(2:21~25)

「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(第一ペテロ3:9)

このような言葉が手紙のあちこちに書かれていますが、主イエスが語られた山上の垂訓を彷彿させます。いつのまにか、ペテロの発想や感覚が主イエスそっくりになっています。主イエスの姿に変えられたペテロがこの手紙に投影されています。

ペテロの生涯を8回に分けて見て来ました。ペテロとは、あなたであり私です。私たちが主エスによって変えられて行くという励ましとしてペテロの姿が記録されているのでしょう。私たちも主イエスの姿に変えられて行きます。

30年以上前の主イエスとの共同生活は、この頃のペテロにとって遠い思い出に風化する危険もありました。けれども、主イエスへの信仰は色あせたアルバム写真にはならず、今も生きておられる主イエスとの生活が瑞々しく力強く続いています。

晩年のペテロは、神学的理解が深められ、礼拝が生活の中心となり、ユダヤ人にも異邦人にも福音を伝え続け、キリストの教会を牧し守り導き、試練の中にいる人を励まし、救われた喜びを心に持ち続け、キリストをいつも指し示し、愛に富み情に厚く、みことばを大切にしていました。

 □ペテロの生涯は私の鏡
 □生涯イエスさまについて行こう
 □主イエスの姿にきっと変えられる

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...