2023年9月24日日曜日

エペソ4:17~32 古い人を捨てて 

 エペソ人への手紙とローマ人への手紙の構成は同じで、前半が救いの説明、後半が救われた人の実際生活になっています。

ローマ人への手紙12章の実践編の冒頭は前向きな提案を列挙していますが、エペソ人への手紙の場合は、「主にあって厳かに勧めます。あなたがたはもはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」(エペソ4:17)とあるようにパウロはかなり厳しい口調で命じ、まず捨てるべきものを捨てよと語りました。

パウロはエペソに2年間滞在していたので(使徒19章)教会を熟知していました。一方、ローマの教会には手紙を書いた当時は行ったことがなかったのです。

「古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること」(22節)、「偽りを捨て」(25節)、「すべて捨て去りなさい」(31節)。

エペソの町はアジア州の州都で、巨大な劇場を持ち、海から水路でアクセスできる港があるので貿易で栄え、世界の七不思議のひとつに数えられたアルテミス神殿があるため参拝客で賑わい巨大な歓楽街が併設されていました。こうした町の雰囲気はクリスチャンたちに影響を与えていたのです。

 エペソの人々はクリスチャンになっても異邦人時代の習慣を捨てきれずにいました。いったいどんな事を続けていたのでしょうか。

「好色=不潔な行い」(19、22節)エペソのクリスチャンのある人々は、性的な快楽の奴隷でした。神が意図された結婚と性の道を外れ、性的快楽だけを切り抜いていたのです。

「偽り」(25節)自分の罪や失敗や恥を隠すために平気で嘘をつきました。人によっては、エペソの町にやって来た観光客をだましていたのかもしれません。

「怒り」(26節)、「悪口」(29節)これらの行為は相手を威圧する口の暴力です。人間関係を優位にするための手段です。

「盗み」(28節)観光客目当てにスリを働けば、大きな稼ぎになったでしょう。

「無慈悲」(31節)自分さえ良ければという自己中心は思いやりの気持ちを失わせます。

 「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。」(22~24節)

 「古い人」を捨てて、「新しい人」を着る。パウロは<古い服>とは言わず、<古い人>と言いました。外側の服だけを着替える表面的で安直な変化でなく、人の心の深い内面性全部が刷新されることを願っているのです。内面の変化は、聖霊によるもので、神のなさることであり、神の正しさやきよさに似ることになるのです。クリスチャンは古い人を捨てる決断をし、新しい人を着る姿勢を保つ必要があります。

では新しい人とは、何をすることなのでしょう。

嘘をつかず、隣人に真実を語ることによって、周囲の人々に安心感を与え、その積み重ねによって、キリストの体を建て上げる。(25節)

 怒りに支配されず(26節)、悪い言葉を用いず、人の成長に役立つ言葉を話し、恵みを語る人になる。(29節)

 まっとうな仕事をする。それで得た金銭を困っている人に分け与える(28節)

 人の成長に役立つ積極的な言葉と恵みをもたらす言葉を話す。(29節)

 親切にふるまう。人を赦す。(32節)

 恵みによって救われた人たち。具体的な生活で何を選びますか。古い人を捨て、新しい人を着る、そう心に決めてください。

□新しい歩みは捨てることから始まる。何を捨てますか。
 □主によって、聖霊によって、新しくされ続ける
 □新しい人として何を着たいですか。きよさ、正直、親切、怒らない、励ます、ゆるす。

2023年9月17日日曜日

エペソ4:1~16 キリストのからだを建て上げる

パウロは、4章からクリスチャンの具体的生活を語り始めました。

1〜16節においては、まずクリスチャン生活の基本指針を述べました。その方針をひとことで言うと、キリストのからだをみんなで造り上げよう、となります。

神の国をつくる働きに召された私たちですから、教会の内部的にはこうした指針を持つことが必須となります。

 1~6節:みんな違うが信仰は同じ。7~11節:神は各人に異なる賜物をお与えになった。12~16節:違う人々が組み合わされてキリストのからだが造られる。

 クリスチャンが陥りやすい罠は、自分だけがスーパークリスチャンになろうとすることです。そうした霊的個人主義は、熱心なクリスチャンほど急進的になりがちです。パウロの視点に注目してください。キリストのからだ全体の成長を目指しています。他の人とつなぎ合わされ、組み合わされて初めて皆が建て上げられるのです。

 「召されたその召しにふさわしく歩みなさい」(1節)とあります。エペソ人として召されたならばエペソ人であることに誇りを持てば良いのです。ユダヤ人になる必要はありません。ただし謙虚で寛容であることを心掛け、平和を作りながら、ユダヤ人と共に生きる道を求めて行くようにパウロは勧めました。

あなたは教会で嫌いな人が二人くらいいるでしょう。それ以外にも、考え方や行動パターンの違う人が複数いることでしょう。違っているから良いのです。異なっていても皆が同じ一つの信仰を持っています。

「からだは一つ、御霊は一つです。主はひとり、信仰は一つ、バプテスマは一つです。」(4〜5節)とある通りです。

あなたと同じく考え感じ行動する人ばかりの教会になれば楽だと考える人がいますが、そうなるとカルト教会と同じになります。違う人が組み合わされるからキリストの体が造られるのです。

 「キリストの賜物」(7節)、「贈り物」(8節)とあるように、主は各人に異なった賜物をお与えになりました。

第一コリント12章にはさまざまな賜物のリストがあります。使徒や牧師の賜物もそのリストの一部に書かれていますが、使徒や牧師は聖徒たちを整え、キリストのからだ全体を建て上げるために用いられるのです。(11節)

あなたに与えられた賜物は何ですか。「皆の益となるために、一人ひとりに御霊の現れが与えられているのです。」(第一コリント12:7)とあるように、各人に与えられた賜物は周囲の人たちのために用いられるのです。それが、キリストのからだを建て上げることにつながります。

「キリストによってからだ全体はあらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。」(16節)

色々な言葉を使ってパウロは建て上げるという意味を深めています。「成長」(15、16節)、「成熟した大人」(13節)、「満ち満ちる」(13節)、「建て上げる」(12、16節)

あなたは、キリストのからだを建て上げるために召されています。何をして貢献しますか。

 □異なる人々がいてこそキリストのからだ
 □組み合わされ、つなぎ合わされて、みんなでキリストのからだを建てよう
 □私たちはキリストのからだを建て上げるために召されている

2023年9月10日日曜日

エペソ3:14~21 とりなしの祈り

 パウロは手紙の口述筆記を一旦止めて、エペソの人々のために祈り始めました。この流れがとても自然で新鮮です。私たちも、説得、計画、考慮、相談などを中断して祈ってみましょう。暗礁に乗り上げた事柄も、誰かの行く末が心配な時も、膝をついて祈ると別な世界が開けてきます。今日の箇所(14~21節)全部がパウロの祈りです。パウロの言葉を手本にして祈りを学びましょう。

 パウロのこの祈りはゴシック建築のように入り組んでいます。父なる神の本質を詳細に述べ、祈りの実現には聖霊の助けや主イエスの仲立ちや信仰が必要なのでそれらの内容を加え、所々にぐっと力が入るので込み入って見えます。

けれども、ゴシック建築の教会堂に力強い塔がそびえ立つように、今回のパウロの祈りにはいくつかの特徴がはっきり見て取れます。エペソの人々の行動や外側の事を祈らず、内面に集中して祈っています。コロサイ1:9~12にも手紙の途中の祈りがありますが、人々の日々の歩み、実を結ぶこと、忍耐できるようにという行動面の祈りが全面に出ています。エペソ人のためには、内面が整えられる事を第一に祈りました。内面が変われば外側の行動が変化すると知っていたのです。

私たちの子供への祈りや友人のための祈りは「外なる人」に関わる祈りが多いです。時にはパウロのように、内面的で本質的なことを祈ることも必要です。

 「内なる人に働く御霊により……あなたがたを強めてくださいますように。」(16節)

 「あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように」(17節)

 「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。」(19節)

 パウロの祈りの柱は、1)内なる人が強くなるように、2)キリストが住んでくださるように、3)キリストの愛を深く知ることができるように、となります。

 人生を飛行機の操縦にたとえるなら、あなたが副操縦士の席に座り、イエスさまに機長になってもらいましょう。キリストが私の心の真ん中におられるなら、人生で直面する出来事への対処が変わってきます。内なる人が強くされるので、外なる人の問題の核心が見えるし、判断力や勇気が与えられます。そのためにも、キリストの愛の深さ広さを借り物でなく自分なりにしっかりと受け止めておきましょう。

 「人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように」(19節)この祈りは矛盾を含んでいます。キリストの愛は人の理解を超えているので、本来、人間には理解不能です。しかし、人間の悟りを超えた理解方法があります。神からの啓示があるなら大丈夫です。祈りとは無限の神への願いです。祈りに制限を付ける必要はありません。だから、「神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように」(19節)と祈って良いのです。

 20、21節は神の栄光をたたえる頌栄の祈りです。祈りの最後のテーマはいつも神の栄光です。

 「どうか、私たちのうちに働く御力によって、私たちが願うところ、思うところのすべてをはるかに超えて行うことのできる方に」(20節)

神の素晴らしさは、私たちの願うところを超えて祈りを実現して下さる点にあります。最終的には私たちの願いと違う結末になっても、よく考えてみると、そのほうがもっと素晴らしい結論があり、神の栄光が表れたと分かります。

 □活動を中断して、祈りましょう

 □あの人の内なる人が強められますようにと祈ろう
 □キリストの愛を深く知り、キリストに住んで頂きましょう
 □私たちの願いを超えた神の栄光が実現しますように

2023年9月4日月曜日

エペソ3:8~13 測り知れない富

「私パウロはキリスト・エスの囚人となっています。」(エペソ3:1)

パウロは拘束されて囚人の立場にいても落ち込んでいません。「落胆することのないようにお願いします」(3:13)とエペソの人々を思いやるほどでした。パウロは苦難と囚人の身の上を受け入れていましたが、どうしてそんな心境になれたのでしょう。

理由が3つあります。1、小さな自分に与えられた大きな恵みに感謝している。2、福音の奥義を明らかにできることが生きがい。3、誰もが大胆に神に近づけることになり嬉しい。

1、恵みに感謝(8節)

「私は使徒の中で最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。」(第一コリント15910

 エペソの手紙の数年前のパウロの自己洞察は、使徒の中で一番小さいというものでした。

「すべての聖徒たちのうちで最も小さな私に、この恵みが与えられたのは、キリストの測り知れない富を福音として異邦人に宣べ伝えるためであり」(エペソ3:8)

カイザリアで2年間幽閉され、ローマで囚人となった後のパウロは、自分が限りなく小さいと感じました。救いようのない自分の罪深さを強く深く認識したので、「すべての聖徒のうちで一番小さな私」と言ったのです。自分が主から頂いた恵みとは、測り知れない富であると気づいたのです。

今、あなたが置かれている状況がどんなに悲惨でも、パウロの視点に立てば感謝と賛美が生まれます。

2、奥義を知らせる生きがい(9~10節)

 「奥義の実現がどのようなものなのかを、すべての人に明らかにするためです。」(10節)

異邦人が割礼や儀式や律法を行わずに恵みで救われる。ユダヤ人と異邦人が一つになる。パウロはこれらの神の奥義の素晴らしさに気づいて、誰にでも言いたくなったのです。奥義は教会を通じ周囲の人たちに明らかにされて行きました。その影響は、人間にとどまらず天的な存在にまで及びました。

 奥義を明らかにできることを特権ととらえ、生きがいを感じていました。

3、神に近くなる(11~12節)

 「私たちはこのキリストにあって、キリストに対する信仰により、確信をもって大胆に神に近づくことができます。」(12節)

かつて異邦人は神から遠く離れ、神も望みもありませんでした。(2:12)ところが神の恵みによって救われ、神の近くにいられるようになりました。

十字架の死と復活は神の救いの計画であり完全に「成し遂げられた」もの、完結したのです。12節の原文は「キリストの真実」(共同訳)とも訳せます。恵みによる救いとは徹頭徹尾キリストにあって、キリストの真実のゆえに私たちにもたらされたものです。

主イエスは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ17:46)と言われました。これは詩編22:1の言葉をご自分の言葉として語られたと思われますが、実はその続きがあります。「私を救わず、遠く離れておられるのですか。」(詩編22:1)。ここを読むと、主イエスが私たちの代わりに神から遠く離されたのだと推測できます。神の愛の届かない、絶望的な孤独、暗闇、悲惨さ、遠さを主イエスが経験して下さったゆえに、私たちは神に近づけられたのです。

このような3つの理由から、パウロは囚人の立場に置かれても落胆せず、むしろ福音に仕える者にされたことを喜んでいました。神の栄光はこのようにして表れ出るのです。

「私が受けている苦難は、あなたがたの栄光なのです。」(13節

□不遇な身であっても感謝と栄光を見つけられる
□小さな私に注がれた測り知れない神の恵みがある
□主イエスの真実のゆえに成し遂げられた救い

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...