2024年4月28日日曜日

ヨハネ1:35~51 私を知っているイエス

 今日の箇所には、アンデレ、シモン、ピリポ、ナタナエルという4人の男性が登場します。4人とも大きな病気や悩みは無く、生まれつきの障がいもありませんでした。


 前半はアンデレとその兄弟シモンの話です。バプテスマのヨハネの弟子であったアンデレが先にイエスさまを救い主として信じ、兄弟のシモンに紹介しました。シモンはイエスさまから新しい名前をもらいました。ケファとはギリシア語でペテロ、意味は「岩」です。この名はシモンの将来の姿を言い当てています。


 後半はピリポと彼の知人ナタナエルのエピソードです。ピリポが先にイエスさまを救い主として見出し、ナタナエルにイエスさまを紹介しました。ナタナエルは最初、主イエスが救い主であるという説明に反発しました。ナザレから救い主は出ないという正確な知識もあるほど真剣に救い主を求めていた人物でした。ナタナエルは主イエスとの出会い、わずかな言葉を聞いただけで態度を改めて主イエスを信じました。

 この4人は、後に十二弟子に選ばれます。

 

イエスは彼らに言われた。「来なさい。そうすれば分かります。」そこで、彼らはついて行って、イエスが泊まっておられるところを見た。(39節)

 

この4人が主イエスを救い主として信じるきっかけは、主イエスのそばに行くという単純な事でした。「来なさい」と主イエスはすべての人を招いておられます。主イエスを先に信じた者も、友人に「来なさい」と語っています。伝道の中心は主イエスのところ行くようにと誘うことです。

私が世界の人にお勧めしたいことは、とにかく礼拝に行ってくださいということです。礼拝する人々の中に入って、賛美に加わり、祈りに心を合わせ、聖書の言葉に耳を傾けてください。そうすれば分かることがあるのです。

 

 「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)

 

主イエスはアンデレに質問をされました。簡単な言葉ですが、深みのある問いでした。品物や地位やお金や快適さが欲しいと私たちは漠然と考えて暮らしています。主イエスにこう問われると、どきりとします。


本当に求めているものがあるはずです。心の底で願っているもの。解決不可能と思えるもの。けれども、魂の根源的な求めがあるのです。主イエスはそれに気づかせて下さる方です。あなたは、今日、何を求めていますか。主イエスはそれに関心を持っておられます。

 

イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた。「見なさい。まさにイスラエル人です。この人には偽りがありません。」ナタナエルはイエスに言った。「どうして私をご存じなのですか。」イエスは答えられた。「ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見ました。」(1:47〜48) 

 

神の民としての自覚を強く持ち、神の前に誠実に歩みたいと心がけていたナタナエルは、主イエスの洞察に驚き、喜びました。ナタナエルは、いちじくの木の下で聖書の言葉を学んだり瞑想したり祈ったりしていましたが、その努力や信仰が知られていたことが分かり、この方は神の子に違いないと信仰告白をしたのです。

 

アンデレもピリポは、主イエスについて行き、語らい、人柄に触れただけで救い主として受け入れました。シモンやナタナエルは、心の奥まで見抜かれて感激の中で信じました。

 

□主イエスのところに行きましょう。必ず見えて来ます。
□あなたは何を求めていますか。

□私を一番よく知っておられるイエス。

2024年4月21日日曜日

ヨハネ1:19~34 見よ、神の子羊

 ヨハネの使命は証しすることでした。それは以下の節から明白です。

「この人は証しのために来た」(7節)「証しして、こう叫んだ」(15節)「ヨハネの証しはこうである」(19節)「ヨハネはこのように証しした」(32節)「この方が神の子であると証しをしているのです」(34節)

 宗教当局の調査団は、「あなたはどなたですか」(19節)と質問してヨハネがメシア(救い主)かどうかを尋ねました。「私はキリストではありません」(20節)と彼は否定し、エリヤでもない、あの預言者(申命記18:15)でもないと述べ、自分はイザヤが預言した荒野で叫ぶ声に過ぎないと謙虚に述べました。(23節)

ヨハネの福音書では、「バプテスマのヨハネ」という表記が一度もなく、ヨハネとだけ呼んでいます。ラクダの毛皮を着て、野蜜やいなごを食べ、厳しい言葉で悔い改めを迫った彼の活動も書いてありません。それは「声」というヨハネの本質を描きたかったのです。登壇者を紹介するアナウンスと同じで、きちんと紹介すれば声の役割は終わるのです。ヨハネは、自分が主イエスの靴の紐を解く値打ちもない者だと証ししました。私より先におられた方だと紹介しました。そして、最も優れた証しは以下の言葉です。

「見よ、世の罪を取り除く神の子羊。」(29節)

 ヨハネは主イエスの教えも聞いていないし、奇跡や愛の姿も見ていないのに、主イエスの本質を見抜きました。罪を赦すためにささげられる犠牲の子羊だと悟ったのです。すべての人の罪を赦すために命を捨てる方だと紹介したのです。

 世界で最も短い伝道の言葉は「見よ」です。私たちも同じように、主イエスを紹介すればよいのです。知り合いの人を教会の礼拝に誘って下さい。そして「見てください」と言って、賛美や祈りやメッセージの様子を見てもらいましょう。また、その人を笑顔で歓迎してくれる教会員の様子を見てもらいましょう。

 私たちは証し人です。証しする人が自意識過剰になることはありません。私たちは「声」なのですから。

 

 ヨハネはヨルダン川で聖霊がイエスさまに降り、留まる様子を目撃し、この方こそ救い主であり、「聖霊によってバプテスマを授ける者である」(33節)と確信しました。

バプティゾーとはギリシア語で水の中に完全に浸すという意味です。その名詞形がバプテスマです。私たちがイエスさまを信じて新しく生まれるということは、罪が赦され、新しい命を頂き、私たちが聖霊の中に完全に浸されることなのです。聖霊によるバプテスマの原意はここにあります。クリスチャンの生き方は、道徳を勉強し、強い精神力で善を行うというものではありません。聖霊に満たされ、聖霊により新しい心や視点や意識や意思や愛が与えられた結果なのです。聖霊との交わりと励ましと支えの中で、あらゆる面に変化が表れ、気がつくとキリストのような姿に変えられていくことなのです。

ヨハネは、罪を悔い改めた者に水のバプテスマを授けていました。それで、聖霊のバプテスマと水のバプテスマが根本的に次元が違うとヨハネ自身が一番理解していたのです。

「それで、この方が神の子であると証しをしているのです」(34節)

□証しのために来たヨハネ
 □「見よ」と言おう
 □聖霊に導かれた歩みを意識しよう

2024年4月14日日曜日

ヨハネ1:1~18 初めにことば

ヨハネの福音書を読んでいきましょう。

十二弟子の一人ヨハネがこの福音書を書きました。他の三つの福音書とずいぶん違います。クリスマスの話、山上の垂訓やたとえ話は一切ありません。

それはヨハネに明確な執筆目的(ヨハネ20:31)があったからです。主イエスの本質を伝えたい、主イエスを信じてほしい、主イエスを信じることによりまことの命を得てほしいと強く願ったのです。


第一に、イエスさまの本質は、ことばです。

「初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」(1:1)
 「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」(1:18)

人が何を考えているか、どんな気持ちなのか、それは言葉に表して初めて分かります。神がどんな方か、イエスさまが教えてくれます。神が私たちのことをどう感じているか、イエスさまの行動で分かります。主イエスは、神の真実さ、神の私たちに対する愛を教えて下さる方です。イエスさまを見れば、神が分かるのです。

第二に、イエスさまの本質は、創造主、神です。

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(1:3)

主イエスは世界が始まる前から存在された神です。世界を創造された神です。箴言8:23以降には、ことばが世の最初から存在し、世界を造った様子が描かれていて興味深いです。パウロも、コロサイ1:16において、世界は御子によって造られたと書いています。ヨハネの福音書は7つの奇跡を骨格にして描かれていますが、その奇跡が主イエスの神性を裏付けています。

第三に、イエスさまの本質は、人です。

「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。」(1:9)
 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」(1:14)

この世に<来られた>という表現が9、11、14節と繰り返されています。神の座を捨てて完全な人になられたので、主イエスの皮膚は切れば血が出る体です。人として人の悲しみを感じる繊細な感受性を持つ心をお持ちでした。

第四に、イエスさまの本質は、人を救う方です。

「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」(1:12)

私たちは暗闇に住む者ですが、希望の光を届けるために主イエスは来られました。(5、9節)主イエスを信じる者に神の子となる特権を与えて下さいます。私たちを新しく生まれさせ(13節)、まことのいのちを与える方です。(4節) 

もし、まだ主イエスを信じていないなら、今、心に主イエスをお迎えください。

主イエスを信じている者は、主イエスが<来て下さった>ことを思い巡らしましょう。私たちも誰かのところに行く者として導かれているかもしれません。

「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。」(1:16)

□主イエスは、ことば、神、人。
 □いのち、光、救い、を与える主。
 □<来られた方>の跡に従う者になろう。

2024年4月7日日曜日

伝道者の書12章  神を恐れよ 

 伝道者の書の最終回です。

 すべては空しい。それが基調トーンとなって始まりました。時代が変わっても何も変わらない。仕事で成功しても、お金を得ても、快楽を追求しても空しい。人は生まれ、人は死んで行く。曲がったものは元に戻せない。世の中は不平等で、不条理。このようにして著者は世界と人生を冷徹に見つめました。

 伝道者の書は、人生や社会を客観視しているのですが、時折、読者を指さしてきます。あなたの心を見つめよと突然迫ってきます。12章もそうです。

 あなたの人生だから、あなたの若い日にあなたの心を方向付けよと言うのです。神はどこか遠くの存在ではなく、神とはあなたと密接な関係がある。あなたを創造した方が神なのだと。大切なのは、あなたの心、あなたの態度です。あなたの創造者を覚えよ、と迫ってきます。

あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(伝道者の書12:1)

 

3~7節では老化の現実が描かれています。一行の内容を一枚の絵のように描いています。目が見えなくなる、耳が聞こえなくなる、運動能力が衰える、背が曲がる、白髪になる、熟睡ができなくなる、葬儀が増える。

こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、水がめは泉の傍らで砕かれて、滑車が井戸のそばで壊される。土のちりは元あったように地に帰り、霊はこれを与えた神に帰る。(6~7節)

今はもう動かないおじいさんの時計という歌を思い出します。6節では、毎日使って来た井戸の道具が突然壊れる様子を書いて、昨日まで元気だった人の死を語っています。

若い時は今日も明日も楽しみがあります。でも歳を取ると老化のために今までのようには生活できず、「何の喜びもない」と嘆くようになります。雨の後に青空が来るのでなく、再び雨雲が来るような生活が待っています。だから若い時に神を心に覚えよというのです。

 

創造者を覚える事とは何か。

神の存在を受け入れ、神を信じることです。私は神に造られたと認めることです。そうすると、感謝と謙虚さが生まれます。神が手塩にかけて造り、育てて下さったと分かると、神の愛を感じることができます。だから、神への愛と尊敬と賛美の心が生まれます。神の心に耳を傾け、神の心を理解するなら、神に似た者とされていきます。神の国建設のために用いられます。

あなたが子供時代、十代や二十代で救われた人であったなら幸いな事です。長い人生を神と共に歩めるからです。若い時の純粋さは信仰を持ち、信仰を深めるためにとても助けになります。あなたも、あなたの周囲の若者に神を伝えて下さい。

 13節は、まとめの言葉であり、結論です。

結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(13節)

 神を恐れて生きることは、創造者を心に覚えることと同じです。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(3:11)、「ただ、神を恐れよ」(5:7)、「神のみわざに目を留めよ」(7:13)、伝道者の書は一貫して神を恐れよと語ってきました。

 

□創造者をあなたの心に覚えよ。
□あなたの若い日、今日、神を信頼しよう。
□神を恐れて生きることが、不条理な社会を生きる秘訣になる

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...