2025年1月26日日曜日

ヨハネ11:38~44 出て来なさい 

 ヘブル4:15にあるように、主イエスは私たちの弱さに同情できない方ではなく、私たちと同じように試みにあわれた方です。

新生児の皮膚のような柔らかく傷つきやすい心を主イエスも持っておられました。それは、主イエスがマリアの涙や会葬者の泣く姿を見て、心の深い部分で憤り、また、涙され、そして、今回の箇所のようにラザロの墓に行く途中で再び憤られたことからも分かります。主イエスが心を上下させたのは、マルタやマリアやラザロに対する友情の強い表れです。

イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓は洞穴で、石が置かれてふさがれていた。(ヨハネ11:38)

神の栄光の前には、たいてい大きな石という障害物が横たわっています。神の栄光の現れを邪魔するものとは何でしょう。目に見える現実の厳しさは石です。私たちの心の中に潜む弱さも石になります。マルタは、ラザロの腐敗臭をかぐことが辛すぎると考えたので、主イエスの言葉を拒否しました。

イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ、もう臭くなっています。四日になりますから。」イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」(ヨハネ11:39~40)

人は二種類に分かれます。神の栄光が現れる前に信じる人。そして、神の栄光を見てから信じる人。あなたはどちらでしょうか。45節の人々は栄光を見てから主イエスを信じました。

 マルタはどちらでしょう。身内の腐敗臭への拒否感が強ければマルタは最後まで墓の前に立ちはだかり、石の移動を拒んたことでしょう。でも主イエスの言葉に励まされ、石を転がすことを受け入れました。マルタは、神の栄光を見る前に信じる人へとほんの少しですが引き上げられたのです。

そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。(ヨハネ11:41)

主イエスは、神の栄光の現れる前に、すでに、先取りの感謝の祈りをささげています。

 「ラザロよ、出て来なさい。」(43節)

 主イエスは墓に入ったりラザロに手を貸したりしていません。ぐるぐる巻きの状態でしたが、ラザロは一人で出てきました。神の栄光は、向こうから歩いてくるのです。

 あなたが石を取り除き、主イエスが命じれば、神の栄光はあなたの前に現れます。あなたの予想を超えた事が起こるから神の栄光なのです。

 

 あなたが願う神の栄光とは何ですか。それを邪魔する石とは何ですか。今の時点で、願いがかなったと受け止める先取りの感謝ができますか。

 主イエスはあなたと共に喜び、共に憤り、共に涙し、素晴らしい神の栄光の瞬間を用意して下さる最高の友なのです。

□主イエスはあなたを友として接して下さいます
□信じるなら神の栄光があらわれます

□先取りの感謝をしてみましょう

2025年1月19日日曜日

ヨハネ11:28~37 イエスの涙 

マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹のマリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」(ヨハネ11:28)

家の戻ったマルタは、大勢の弔問客に悟られないようにマリアだけにそっと主イエスの意向を伝えました。共同訳聖書では「耳打ちした」と訳されています。がさつなマルタが細心の注意を払っています。マルタのこの態度はどうして生まれたのでしょう。

それは、マルタが個人的にイエスさまに心にあることをすべて語り、主イエスの言葉をしっかり聞き取ったからです。かつて、マリアが主の足元で主イエスの言葉を聞きましたが、今回は、マルタが聞いています。しっかり聞いたマルタは主のこころを悟ったので、そっとマリアに伝えたのです。 今、主イエスがあなたに何を語っておられるか聞こえますか。

 

マリアはすぐに立ち上がり家を出ました。そばにいた人々はマリアが墓に行くと誤解して、一緒に泣いてあげようと思ったのですが、いらぬおせっかいでした。マリアは村の入り口におられた主イエスに会うと、足元にひれ伏してマルタと同じ言葉で抗議しました。(32節)そこで言葉は止まり、深々と泣き始めました。一緒について来た人々は、その様子を見て大音量で泣き始めたので、その場は収拾がつかないほど混乱しました。主イエスはもう何も話せません。

本来のマリアなら、みなさんお帰り下さい、私はイエスさまとだけ静かに話したいのですと言えたはずです。また、主イエスを尊敬する人達なら、私たちがいると邪魔になるとその場から離れ去ったでしょう。主イエスは、その光景を見て憤りを覚えたと書いてあります。

深い霧が周囲の景色を消し去るように、極度の悲しみや激しい感情の揺れが神の愛と神の栄光を見えないようにします。たとえ同情の涙ですら、主イエスさまの意図を邪魔することがあります。

あなたには主イエスの笑顔が見えますか。悲しみの涙や強い憤りが主イエスさまを見えなくし、主イエスさまの声をかき消していませんか。

 

イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、「彼をどこに置きましたか」と言われた。彼らはイエスに「主よ、来てご覧ください」と言った。イエスは涙を流された。(ヨハネ11:33~35)

主イエスの涙の理由は何でしょう。
 厳密にいえば、涙の理由は他人からは分かりません。本人が嬉しすぎて泣いているのに、周囲からは悲嘆の涙と受け取られることもあります。また、今流れている涙の理由が本人にも分からない場合すらあります。

「主イエスは涙を流された」とあります。周囲の人々は主イエスがラザロを愛するあまりその死を悲しんだものと理解しましたが、聖書の言葉を読むと違います。

主イエスさまはマルタにしたようにマリアにもしてあげるおつもりだったのでしょう。マリアの深い悲しみと周囲の人々の抗議を伴う激しい泣き声がすべてを台無しにしました。主イエスは霊の憤りを覚え、心を騒がせた中で計画を変更され、ラザロをすぐによみがえらす事にされたのです。

子供を亡くしたナインのやもめ、そして、娘を亡くした会堂管理者に対して主イエスが「泣かなくてもよい」(ルカ7:13、8:52)と言われた事を思い出して下さい。主イエスもマリアにそう言って復活の希望を語ろうとされていたのです。

□マルタのように、主イエスのみこころを悟って、行おう
□神の栄光と神の愛は、涙の向こうに必ずある

2025年1月12日日曜日

ヨハネ11:17~27 よみがえる

なぜ主イエスはマルタの家に直接行かなかったのでしょう?
 
 主イエスがベタニア村の入り口に到着した事を知らされたマルタは主イエスを出迎えに行きました。(20、30節)

 主イエスがマルタの家に直接行かなかったのは、主イエスがマルタと個人的に話をするためだったと私は考えています。家には大勢の弔問客がおり(19節)ゆっくり話すことはできません。

マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」(21節)

 主イエスはマルタの話をまず黙ってすべて聞かれました。主イエスはそういうお方です。

だとするなら、主イエスは、今日も、あなたの話を聞こうとされています。


 マルタは次のような信仰を持っていました。
 ①主イエスは癒し主(21節)。その場にいて下さればラザロは死ななかった。
 ②終わりの日に死者は神の前に立つ(24節)。
 ③主イエスは救い主(27節)。罪から救う方だと信じていた。

ただし、復活に関してはあやふやでした。

 主イエスの立場に立ってみましょう。主イエスはマルタの話をまず全部聞くおつもりでした。その次に、喜ばしい知らせをマルタに伝えようとしていたのです。ラザロがよみがえるというサプライズを用意されていました。

イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」(23節)

 あなたがこの時のマルタの立場にいたら主イエスの言葉を聞いてどんな気持ちになりますか。「嬉しい、感謝します」と喜んで飛び跳ねますか。それとも、「ありえない、冗談はやめてください」と落ち込みますか。マルタは信じられなかったのです。

主イエスは3つのよみがえりがあると言われました。
 第一、 ラザロは、まもなくよみがえる。(23節)
 第二、 主イエスが死んでもよみがえる。(25節)
 第三、 マルタが死んでも、よみがえる。(26節)

イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(25~26節)

 主イエスは今日のあなたにも同じことを尋ねます。「あなたは、このことを信じますか」

 兄弟ラザロの葬式を終えて4日たったマルタに、主イエスは弔意を伝えていません。惜しい人を亡くした、ラザロがいなくなって悲しいなどの言葉を言っていません。真の慰めの言葉とは、復活の希望なのです。

 イエスがマルタの家に直接行かなかったのは、マルタの話を聞くためと、マルタと私たちに復活の希望を伝えるためだったのです。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」

あなたは、罪を赦して下さる救い主イエスさまを信じていますか。では、あなたをよみがえらす「復活の主」を信じていますか。

□ラザロはよみがえる
□主イエスは、よみがえりであり、いのちです。

□主イエスを信じる者は、死んでも生きる。

2025年1月5日日曜日

ヨハネ11:1~16 ラザロ 

 エルサレムの東側3キロにベタニアという村がありました。そこにマリアとマルタとラザロの3人兄弟が住んでいました。主イエスと彼らは親しい関係にありました。ラザロが病気になり、かなり症状が悪化したので姉妹たちは主イエスに使いを遣わして助けを求めました。

 必死に主イエスに助けを求めた姉妹たちでしたが、主イエスはすぐに来てくれませんでした。ラザロは癒されたとか、必ず治るとか、心配いらない、という返事でありません。この病気は死で終わるが、それで終わりではないというのです。神の栄光のためだと主イエスは言われましたがマルタたちには理解不可能な言葉でした。

 しかも、主イエスはすぐに駆け付けずに2日間、その場から動きません。(6節)後に分かりますが、主イエスが到着した時はラザロが墓の中に入れられて4日たっていました。(11:17)主イエスに連絡が来た時点でラザロは亡くなっていたのです。

 今日の箇所で心に留めてほしい点があります。

 第一に、主に愛されていても病気になることがある。

 主イエスがラザロたちをどんなに愛していたか3回も書かれています。「あなたが愛しておられる者が病気です」(3節)「イエスはマルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)「わたしたちの友ラザロ」(11節)

 主に愛されている者であっても重病になるし、大きな試練を通るし、場合によっては死を経験することがあるのです。

 第二に、納得できなくても、神の言葉は真実です。

「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」(ヨハネ11:4)

 主イエスはラザロが死ぬことを予告されました。それは姉妹たちにとって受け入れがたい言葉です。ただし、死で終わらずに神の栄光があらわれると言われました。人間の理解を越えた言葉ですが、これが神の言葉です。神の言葉は実現するのです。

 第三に、神の栄光は神が為さる事。

主イエスがベタニアに行くと言われた時、不思議な事を言われました。

「わたしは彼を起こしに行きます」(ヨハネ11:11)

これはラザロが寝ているという意味ではなく、死んでいるが、よみがえりを待っている状態だと説明されたのです。ラザロは墓からよみがえるのですが、それはラザロの信仰でもラザロの努力も及ばない話なのです。主イエスがラザロを起こすのです。

神の栄光は、神がなさる事なのです。

あなたが今年、解決を望んでいる事柄とは何ですか。
 新しい年を迎えました、神の栄光を見せて頂きましょう。

□神の栄光を今年、主に願いましょう
□私の人生は、神の栄光をあらわすためにある

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...