2025年8月24日日曜日

ヨハネ19:1~22 ピラト 

 今日の聖書箇所には、ピラトが主語となって発言し行動している場面が13箇所もあります。ピラトが主イエスを解放しようとした努力の跡が見られます。(1、4、5、6、8、10、12、13、14、15、16、19、22節)

それでピラトは、イエスを捕らえてむちで打った。(ヨハネ19:1)

1節の「それで」という接続詞に注目して下さい。
 ピラトは主イエスに罪を認めず恩赦の対象として助けようとしました。(18:38~40)けれども、ユダヤ人指導者たちの策略でバラバ釈放に事態は傾きました。「それで」ユダヤ人の作戦を阻止するためにピラトが奇策を用いたのです。

ピラトは、再び外に出て来て彼らに言った。「さあ、あの人をおまえたちのところに連れて来る。そうすれば、私にはあの人に何の罪も見出せないことが、おまえたちに分かるだろう。」イエスは、茨の冠と紫色の衣を着けて、出て来られた。ピラトは彼らに言った。「見よ、この人だ。」(ヨハネ19:4~5)

ピラトはイエスにむごたらしいむち打ちを指示しました。兵士らは主イエスを王として茨の冠を頭に被せ、嘲弄するため紫の衣を着せました。(2~3節)私は、これらすべてはピラトの指示ではないかと推測しています。高価な紫の衣は普通手に入りません。

ピラトは「何の罪も見出せないことがおまえたちに分かるだろう」(4節)と前置きしてから、王服をまとった瀕死の主イエスをユダヤ人の前に立たせました。ユダヤ人はおおいに笑い喜んだことでしょう。そして、ピラトは言いました。「見よ、この人だ」と。その意味するところは、ユダヤ人らが求めていた辱めと罰を受けたのだから解放せよとの主張なのです。

 

ピラトはイエスを釈放しようと努力したが、ユダヤ人たちは激しく叫んだ。「この人を釈放するのなら、あなたはカエサルの友ではありません。自分を王とする者はみな、カエサルに背いています。」(12節)

ピラトは、その後も主イエスを釈放する努力を行いましたが阻止されました。最後は、主イエスを助けることはカエサルに背くことになるとユダヤ人が暗に脅迫してきました。ピラトは不本意ながら主イエスの十字架刑を承諾しました。(16節)

十字架の上には罪状書きが掲げられました。それを見てユダヤ人は、イエスが王と自称したと書き直すよう要求しましたが、ピラトは憤然として拒絶しました。(19~22節)ヘブル語、ラテン語、ギリシア語で書かれた看板ですが、それはまるでピラトが全世界に向かって主イエスこそあなたの王であると告白しているようにも見えます。

共観福音書では死刑執行責任者である百人隊長がこの方は神の子だったと証言しましたが、ヨハネの福音書ではその役割をピラトがしているのです。

 

なぜピラトは、主イエス解放のためにこんなに努力したのでしょう。

ピラトは主イエスの奇跡を目にしていません。ただ、主イエスと語り合っただけです。主イエスの人柄、温かさ、きよさ、真理、世界観の大きさ、勇気、落ち着き、主イエスと言うお方に触れて、この人は死んではいけない人だと感じたのです。理屈っぽい律法学者ニコデモや罪深い人生を送って来たサマリアの女、そして、政治家ピラトも、主イエスと語り合うだけで心動かされたのです。

すべてのものを 与えし末 死のほか何も報いられで
 十字架の上に あげられつつ 敵を赦しし この人を見よ(賛美歌121番)

 

□主イエスは、命乞いをせず、父のみこころの真ん中を歩かれた
□ピラトは主イエスと出会い、心洗われ、何かに目覚めた
□私たちも、この人をしっかり見よう

2025年8月20日水曜日

ヨハネ18:28~40 ユダヤ人の王 

祭司長たちは裁判を行い、主イエスを冒涜罪を理由に死刑を決めました。(マタイ26:63~65)けれども、ピラトに対してはイエスが<ユダヤ人の王>であるという政治犯として死刑を求刑しました。ピラトはそうしたユダヤ人の思惑を見抜いて門前払いを試みますが押し切られました。

ローマ帝国により征服された国でローマに従順な王の場合は自治を任せます。征服されても反発の強い国は、ローマ総督が直接統治をし監視します。ポンテオ・ピラトは第5代の総督で紀元26~36年に統治しました。

そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(ヨハネ18:37)

ピラトはユダヤの王に等しい立場にいたので、王という言葉に敏感でした。目に見える国、人間の欲望と暴力が幅を利かす国はあるが、目に見えない神の国があるという主イエスの言葉にピラトは思わず引き込まれていました。主イエスは、死刑を求刑されているのに命乞いをせず、真理を証しするために生まれて来たと言われました。おもわず、ピラトは「真理とは何なのか」(38節)ともらします。真理はそこにおられたのです。

ピラトは主イエスには罪がないと公言し、祭司長たちの訴えを退け、過ぎ越しの祭りで恒例になっていた犯罪者の恩赦対象として主イエスを推薦して命を助けようとしました。ピラトはイエスを救出すべき大切な人とみなしました。(38~40節)

 

本当の権力者とは誰でしょう。ユダヤの最高権力者の祭司長ですか。違います。統治困難なユダヤを治めるローマ総督ですか。違います。縄をかけられ、囚人と扱われた主イエスこそが真の王なのです。主イエスはバラバという強盗の身代わりに死ぬことになりました。バラバとは私たちの真の姿です。

良い王は国民を豊かにします。王であるイエスは私たちの罪のために身代わりになり死んで、私たちを生かして下さいました。それで私たちは真理を知り、愛を知り、罪の赦しを経験し、私たち神の国の国民はまことの王イエスをたたえ、喜び、王に従います。 

□真理を証しする主イエス
 □罪なき救い主、まことの王、イエスに栄光あれ

2025年8月10日日曜日

ヨハネ18:12~27 ペテロの涙がない

 主イエスがゲッセマネの園で逮捕された後アンナスによる取り調べが行われ(ヨハネ18:12~14、19~24)、中庭で待っていたペテロが主イエスを知らないと3度言う(15~18、25~27)という内容が今日の箇所です。室内の尋問と外で火に当たるペテロの様子が同時進行し、臨場感の強い構成になっています。

大祭司を引退しても権力を手放さないアンナスと、神の子の特権をすべて投げ捨てた主イエスの姿が対比されています。

 

「シモン・ペテロともう一人の弟子はイエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の家の中庭に入ったが、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いだったもう一人の弟子が出て来て、門番の女に話し、ペテロを中に入れた。」(ヨハネ18:15~16)

 「もう一人の弟子」(16節)とありますが、これは十二弟子のヨハネのことです。ヨハネが大祭司と知り合いで(15節)、この時門番をしていた大祭司の女中とも顔見知りだったので(16節)、ペテロとヨハネが大祭司の庭に入れたというわけです。

マルコ1:19~20によると、ヨハネの父ゼベダイが舟を所有しており、雇人がいたことが分かります。おそらく、ヨハネの父親は手広く魚の販売を行い、山の上のエルサレムでも塩漬けの魚を売り、質の高い魚は大祭司や金持ちにも販売していたのでしょう。ヨハネは若い時から父の仕事を手伝い大祭司の家に出入りしていたので信頼されたのでしょう。

ペテロとヨハネが「イエスについて行った」(15節)とありますが、それは物理的に後を追ったという意味です。ですが、とても印象的な言葉になっています。自分の命が危険になっても主に従い続けるという一途さは素晴らしいと思います。

「大祭司はイエスに、弟子たちのことや教えについて尋問した。」(ヨハネ18:19)

アンナスの質問は十二弟子についてと教えの内容でした。主イエスは証人なしの尋問の違法性に毅然と対処され、何もお答えになりません。そして、十二弟子についての情報は一切明らかにされませんでした。主イエスは弟子たちを守り続けました。ここに主イエスの愛と勇気と誠実さを見ることができます。ご自分を否むペテロであっても主イエスは守り続けるのです。そして、私たちをも守り続けて下さいます。

 

「ペテロは再び否定した。すると、すぐに鶏が鳴いた。」(ヨハネ18:27)

ペテロは「あなたのためなら、いのちも捨てます」(ヨハネ13:37)と夕食の席で述べました。鶏が鳴く前にペテロが3度私を知らないと言うだろうと予告されていました。(ヨハネ13:38)

他の福音書全部にペテロの否認と鶏の声と彼の涙が記録されています。(マタイ2675、マルコ1472、ルカ2262)ヨハネにはペテロの涙がありません。なぜなのでしょう。

ペテロが聞いた鶏の声をヨハネは自分に向けて鳴いた声だと受け止めたのです。主イエスの弟子であることを隠していたからヨハネは大祭司の庭に入れました。ペテロとは違った形で主イエスを否んだのですから、ペテロと同罪と思ったのでしょう。

ペテロだけが主イエスを否んだのではないし、ペテロだけが号泣したのではない。ヨハネは、ヨハネの福音書の読者に対して、あなたも鶏の声が聞こえないかと問うているのです。


□信仰を恥じることなく、主イエスをあかししよう
□主イエスはあなたを守る方
□自分の不甲斐なさを泣いた人が他の人を励ます人になれる

2025年8月3日日曜日

ヨハネ18:1~11 剣をおさめなさい  

 「これらのことを話してから、イエスは弟子たちとともに、キデロンの谷の向こうに出て行かれた。そこには園があり、イエスと弟子たちは中に入られた。」(ヨハネ18:1)

 主イエスと十二弟子はその夜、エルサレムの門を出て東側の谷を下り、また登り、斜面にあるゲッセマネ(油しぼりの意味)の園に入りました。オリーブの木が茂った地域で、イエスさまたちはよくそこで祈っておられたようです。(ルカ21:37)

 ヨハネを除く3つの福音書では、いわゆるゲッセマネの祈りがここで行われたことが書かれています。(マタイ26:36~45)できることならこの杯(十字架の死)を過ぎ去らせて下さいという率直で悲痛な祈りが長時間ささげられました。

 ヨハネはゲッセマネの祈りを割愛し、他の福音書にない今日の箇所を記述しました。ヨハネは言いたいのです。ゲッセマネの祈りは主イエスのごくプライベートな祈りであり、プロセスだった。心を注ぎ出す祈りを終えた主イエスはさわやかで、力強かった。だから下役たちは主イエスの堂々とした姿に圧倒されて倒れたと書きました。(4~6)

 あなたにとって苦い杯とは何ですか。父のみこころとは何ですか。それを受け止めるために、あなたも心を注ぎ出して祈り尽くしましょう。

 

 主イエスは誰を捜しているのかを尋ね、ナザレのイエスとの答えを聞くと、「わたしがそれだ」と二度もお答えになりました。(4~7節)

「わたしがそれだ、と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちは去らせなさい。」(ヨハネ18:8)

主イエスの勇気に私たちは驚きますが、主イエスが弟子たちを逃がそうとしている姿にもっと驚きます。自分のこと以上に十二弟子のことを気遣い、命がけで守ろうとされました。(ヨハネ17:12)

この主イエスの態度を心に留めてください。あなたは今日も、主イエスに守られています。


「イエスはペテロに言われた。『剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を飲まずにいられるだろうか。』」(ヨハネ18:11)

 ここでペテロは剣を抜きました。主イエスを守ろうとしたのか。あるいは、自分が逃げるためか。人数からいうと多勢に無勢で無意味な抵抗でした。

剣をおさめよと主イエスは言われましたが、その理由は、主イエスが父の杯を飲む覚悟ができているので、その邪魔をするなという意味になります。

生活が辛く試練が激しいので、あなたも自分の剣を抜いてしまうことがあるかもしれません。剣では問題は解決しません。主イエスが守っておられるので、あなたの行動が主イエスの助けを台無しにすることさえあります。剣はおさめましょう。

 

 □父の杯を飲むためには深い祈りが必要
 □主イエスは私たちを守って下さる
 □剣をおさめよ


ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...