2025年9月28日日曜日

ヨハネ21:1~14 ガリラヤ湖の朝  

主イエスは、エルサレムだけでなくガリラヤでも復活後の体を示され、十二弟子をずっと見ておられて困った時に助けて下さいました。復活後にも奇跡をされました。そして愛を示し続けて下さいました。

 天使たちはマグダラのマリアに「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます」(マタイ28:10)と伝えました。

さて、主イエスがガリラヤで弟子たちと会う目的は何だったのでしょう?

エルサレムから離れてガリラヤ湖にやって来た弟子たちは、祭司長や律法学者を恐れる必要がないのでほっとしたことでしょう。彼らは夜、漁に出ましたが一匹も捕れずに朝を迎えました。朝霧のため岸に立つ人物が誰か見えなかったのか、それとも霊の目が閉ざされていたのか、約90m先にいた主イエスに気づきませんでした。けれども、その人の助言に従い網を右側に下ろすと大漁になりました。

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。(ヨハネ21:5~6 

ヨハネがその人物が主イエスだと気づいてペテロに言いました。そう聞くとペテロは着物をわざわざ着てから水に飛び込み岸まで泳ぎ、イエスさまに挨拶しました。ペテロは主イエスを愛していたのです。主イエスを否んだ過去があるので、おわびしたかったのでしょう。 

こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。(ヨハネ21:9)

主イエスはすでに魚とパンを焼いて待っていてくれました。「さあ、朝の食事をしなさい」(12節)主イエスは十二弟子と再会し、ゆっくり食事がしたかったのです。それが、ガリラヤ湖に行きなさいという命令の中心的な意味です。

主イエスの奇跡は通常、生まれつきの盲人や病気で長く苦しむ人や罪を抱えた人のため、そして、大きな困難に直面した時に行われて来ました。でも、今日の箇所ではそうではありません。そして、主イエスへの信頼が試される場面でもありません。

懐かしい人々との再会、語らい、穏やかで温かい食事の席、再会の目的はただそれだけなのです。主イエスは弟子たちともう一度心行くまで会いたかったのです。

朝日に湖面が輝く中で、今日の箇所には同窓会のような楽しさがあります。イベント終了後の打ち上げ食事会のような達成感が満ちています。主イエスと十二弟子の愛の絆が深められるひとときでした。

私たちも主イエスに招かれています。主イエスはあなたとゆっくり食事がしたいと今も願っておられます。

 

□主イエスはどこにでもおられ、私たちを見守っておられます
□主イエスは私たちを助けるお方
□主イエスの奇跡は復活後にも起きます
□主イエスと共にいることは楽しく嬉しいこと
□主イエスはあなたといることが楽しい

2025年9月21日日曜日

ヨハネ20:19~31 私の主、私の神 

 イースターの朝から夕方までの間、十二弟子が持っていた悩みは、①恐れ、②復活を信じられない、③今後のプランが立たない、の3つだと思われます。

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。「平安があなたがたにあるように。」こう言って、イエスは手と脇腹を彼らに示された。弟子たちは主を見て喜んだ。(ヨハネ20:19~20)

十二弟子はユダヤ人による逮捕と処刑を強く恐れていました。ですから鍵をかけて部屋の中で静かにしていたのです。そんな部屋の中に主イエスは突然現れ、平安があるようにと言われました。弟子たちの必要にぴったりフィットする言葉でした。

主イエスは弟子たちの疑問を先取りして手と脇腹をお見せになり、私だと証拠を示されました。マグダラのマリアの証言では弱かった復活の確信が主イエスを目の当たりにして力強く得られました。ハレルヤ!主はよみがえられたと喜んで言えました。

イエスは再び彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わされたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(ヨハネ20:21)

 主イエスは十二弟子を世界に派遣すると言われました。明日からどうしたら良いかと思っていた弟子たちに明確な目標が与えられました。

 あなたに今、恐れがありますか。信仰が揺らいでいませんか。主にあって、今後のプランや期待がありますか。主イエスがイースターの夕方に現れ語って下さったことはすべてあなたの今に役立ちます。

 福音を世界に伝えるために聖霊の助けと導きが予告されたことは大きな力でした。今後、エルサレムに留まりペンテコステに聖霊を受け、十二弟子の働きはダイナミックに進みだすことになります。主イエスは弟子たちに息を吹きかけ、聖霊を受けよと言われました。(22節)

また、主イエスは誰かの罪を赦しなさいとも言われました。(23節)ペテロが3度主イエスを知らないと言ったことや、弟子たちが主を見捨てて逃げ去ったことはお互いにとって後味の悪いものでした。ですから、派遣されて行く前に弟子たち相互に赦すことが必要だったのだと私は理解しています。ペテロを赦す、トマスを赦す、ユダを赦す。

 24節から29節では意固地になったトマスの姿が描かれています。主イエスを愛し慕っていたトマスは、自分だけが主イエスに会えなかったことを根に持ち、主イエスの釘の痕に指を入れないと信じないと言いました。その場に主イエスはいませんでしたがトマスの発言を全部聞いておられたのは8日後に分かります。トマスに現れた主イエスは、あなたの指を入れなさい。「信じる者になりなさい」(27節)とトマスに言われました。

トマスは「私の主、私の神よ」(28節)という言葉で信仰告白をし、主イエスへの献身と従順を表明しました。

 ヨハネの福音書が書かれた目的が31節に書かれています。主イエスを救い主として信じ受け入れ、まことの命を受けるために7つのしるしを中心に書かれたのがヨハネの福音書でした。

 

 □恐れるな。主イエスが共にいて平安を下さる
 □あなたも主に遣わされている
 □聖霊を受けよう、人を赦そう
 □主は、よみがえられた私の主、私の神


2025年9月14日日曜日

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2) 

 マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27:55によると「ガリラヤからイエスについて来て仕えていた」女性の筆頭に挙げられています。主イエスについて行く十二弟子のそばにいて主イエスに仕え主イエスから学ぶ女性の弟子と位置付けて良いでしょう。

 ヨハネの福音書には彼女についての説明が一切ないことから初代教会にとって良く知られた信仰者だったと推測できます。マグダラのマリアは主イエスの母マリアを支えつつ十字架刑を見届け、日曜日の早朝に主イエスの墓にかけつけ、誰よりも主イエスの死を悲しんだ人でした。

マグダラのマリアは主イエスの遺体が無い事を発見してペテロとヨハネに報告しました。二人の弟子は走って墓に行き、確かに遺体が無いことを確認し、巻かれたままの亜麻布を目にしました。ヨハネは墓に入り「見て、信じた」(8節)とあるので主イエスの復活を信じた可能性がありますが、9節によると喜びながら飛ぶように帰路についたとは書かれていないので、復活を完全に理解していたとは言えません。

主イエスはペテロとヨハネに対して墓の中でご自身を現わしたり声をかけたりされません。それはなぜでしょう。空の墓と巻かれたままの亜麻布があっただけでした。主イエスは後にトマスに「見ないで信じる人たちは幸いです」(ヨハネ20:29)と言われましたが、同じことを二人の弟子にも期待されていたのでしょう。

見て、考え、思い巡らし、信仰を働かせて主イエスの復活を信じられるはずだと主イエスは二人に期待されていたと考えられます。

 

 マグダラのマリアは墓に戻って来て、二人の弟子が去った後も墓の外で泣き続けました。(11節)墓の中の二人の天使に話しかけられても茫然自失でした。園の管理者らしき人物に気づいて振り返って遺体を返して下さいと言ったきり、また墓の中を見つめて泣くばかりでした。その人は園の管理人ではなくイエスさまだったのに。

  「なぜ泣いているのですか」(13節)「なぜ泣いているのですか」(15節)

 天使も、主イエスも、同じことをマリアに言いました。これは重要な質問なのです。

イエスさまが殺されたから、イエスさまの遺体が盗まれたから泣いているとマリアは答えたかったでしょう。

主イエスは、もう泣く原因はないと伝えたかったのです。死は悲しい現実だが最悪の死は終わった。罪のあがないのわざは完了した。遺体がないことを心配するな、主イエスは生きた体であなたのそばに立っている。

「なぜ泣いているのですか」という問いかけはとても大事です。私たちにも語られています。悲しい現実はもう起きてしまった。取り戻せない。けれども、主イエスは目の前におられる。

「なぜ泣いているのですか」という言葉には深い意味があります。主イエスはマリアが泣いている姿を知っているということです。マリアが主イエスをどんなに愛しているか、信頼しているかを受け止めているということです。マリアの失望を理解しているということです。復活された姿で、マリアを応援するために来たのです。そして、主イエスは言われました。マリアはその一言ですべてを理解し、悲しみの涙は去りました。

 

イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。(ヨハネ20:16)

 「マリア」との呼びかけはあの懐かしい主イエスの声でした。マリアは振り返りながら「ラボニ」と応えました。ラボニとは、私の先生という意味です。

かつて悪霊に支配され自分が望まない悪を行っていた彼女は主イエスにより解放され癒され自由と赦しと希望を経験しました。そして、今、あの時と同じように、悲しみと失意から解放され、喜びの中に入れられたのです。

マリアは「私は主を見ました」(18節)と十二弟子に報告することができました。

主イエスは復活され、今もあなたの名を呼んでおられます。主イエスの愛と励ましに満ちた声があなたに聞こえますか。

□最も悲しんだ人が最も喜ぶ人になる
 □なぜ泣く。死は終わった、泣く必要も理由もない
 □主イエスはよみがえり、あなたの名を呼ばれる


2025年9月7日日曜日

ヨハネ19:23~42 完了した

 今日の箇所は主イエスが十字架で息を引き取った場面です。共観福音書においては、その日の午後に暗くなった空や群衆の悪口や「なぜ私をお見捨てになったのですか」という主イエスの悲壮な発言などが強調されています。以下に、ヨハネの福音書独自の5つの記述を見ていきましょう。

 

1、十字架は聖書の預言の成就(23~24節)

 24、28、36、37節に「聖書が成就するために」と書かれてあり、詩篇22:18、34:20、69:21、ゼカリヤ12:10などが引用されています。主イエスの処刑はむごたらしく、表面的に見ると祭司長やピラトの勝利に見えますが違います。聖書の預言の成就です。父なる神のご計画が完璧に実現したのです。

 

2、母マリアを弟子ヨハネに託す(25~27節)

主イエスは実母のマリアを女と呼び掛けていますが、深い意味があると思われます。処刑場にいた女性が主イエスの母と分かれば逮捕や危害を受ける危険性がありました。それで、そっけない呼び方をしつつ、今までの感謝と別れの情を眼差しによって表現されたのです。ヨハネに母の世話を託したのです。

 

3、救いの完了を宣言(30節)

30節に「完了した」とありますが、ヨハネ独自の記録です。何を完了したのでしょう。救いの完了です。すべての人の罪を身代わりに背負って、罪を赦す神の子羊の働きを完了したという意味です。過ぎ越しの祭りで門と鴨居に子羊の血が塗られますが、その時用いられる植物はヒソプです。そのヒソプの枝で酸いぶどう酒が主イエスに差し出されています。

 

4、足の骨は折られず、確実な死(33~34節)

主イエスの足の骨が折られず、脇腹を槍で突くと血と水が出たとの記述もヨハネだけが残しています。主イエスは間違いなく死なれた事をヨハネが目撃し証言しています。十字架刑では呼吸が困難になり、足の伸縮によってかろうじて呼吸が保たれているのですが、足の骨を折られたらそれは死を意味しました。預言通り、主イエスが既に死んでいたので、主イエスの足の骨は折られませんでした。

 

5、ニコデモの信仰と覚悟(38~39節)

アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を引き受けたという行為はすべての福音書に書いてあります。主イエスの死後、議員としての自分の立場が悪くなっても構わないという勇気ある態度と主イエスへの献身が表れています。

律法学者ニコデモの様子を描いているのはヨハネの福音書だけです。臆病で悟りの鈍いニコデモにも信仰の成長があり、主イエスの死によってかえって信仰が強められたことが分かります。

 

ヨハネは十字架の横にいて、最初から最後まで主イエスの死をみとりました。そのヨハネは、静かな筆致で主イエスの死を記録しました。
 十字架は失敗はなく、アクシデントでもなく、祭司長たちの悪行の結晶でもなく、愛なる神のみこころの成就であり、勝利であり、救いの完成の時だと証言したのです。

 □十字架は神の救いの計画の完了
□主イエスは最後まで愛を届けた
□逆風の時こそヨセフやニコデモのように主について行こう

第一サムエル2:12~26 少年サムエル 

  エリの息子たちのホフニとピネハス(第一サムエル1:3)はひどく堕落していました。神に関わる儀式を執行しながらも「よこしまな者たちで、主を知らなかった」(12節)とあります。一般人が純粋な心でささげる「主へのささげ物を侮った」(17節)という罪はとても重いものでした。 ...