2025年12月28日日曜日

第一サムエル6:1~21 雌牛に引かせて

 ペリシテ人はイスラエルとの戦いに勝利し、神の箱を奪って来たのですが、それが原因で7か月の間疫病で苦しむことになりました。(1節)ペリシテの5人の領主たちは頭を抱えた末、ダゴンの祭司や占い師に神の箱の返却方法についての助言をもらうことにしました。 

彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。神に対して償いをしなければなりません。そうすれば、あなたがたは癒やされるでしょう。また、なぜ、神の手があなたがたから去らないかが分かるでしょう。」(第一サムエル6:3)

助言に従いペリシテ人の5つの町の領主たちは、5つの町を象徴する5つの金のねずみ像を作りました。

償いの方法としてこれは本当にふさわしい方法だったのでしょうか。


 異教の民、ペリシテ人は最大限に誠意を示したものかもしれませんが、本当にこの方法がベストだったのでしょうか。神の箱の返却方法にはイスラエルの神を試している面があることも否めません。

償いにおいて一番重要視されるのは、「ごめんなさい、私が悪かったです」という言葉の発出と心砕かれた内面の姿勢です。ペリシテ人の領主たちが先導し、普通の牛車で神の箱を丁重に運び、イスラエルの人々に金の像を手渡して、イスラエルの神とイスラエルの民に謝罪したなら償いの実を結んだと私は思います。

 

占い師達は不思議な返却方法を提案しました。乳を飲ませている母牛にくびきを付けて車を引かせ、そこに神の箱を乗せるというものです。初めてくびきを付けた牛は拒絶して暴れますし、雌牛は子牛のところに戻るはずです。雌牛たちがイスラエルの村に進んでいくなら、それは、イスラエルの神が生きていることの証明になるというのです。

雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一本の大路をまっすぐに進んだ。鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、その後について行った。(第一サムエル6:12)

 雌牛が鳴きながら進むという様子は、神が牛たちの行動まで制御される方であることを示しています。

神は、神の時に、神の方法で、事を行われます。主は、ペリシテ人の決断や思いの中にさえ介入されます。主は牛の歩みでさえ支配されます。

 神の箱は、ペリシテとイスラエルの領土の境目にあったベテ・シェメシュの村に到着しました。海岸地帯から丘陵地帯に向かう道を、牛は30キロくらいの道を迷うことなく進んだようです。


ヨシュア記21:16を読むと、ベテ・シェメシュは祭司アロンの子らに与えられた十三の町の一つであることが分かります。その町の人々が興味本位で神の箱を開けてしまいました。イスラエルの人々の信仰の腐敗はここまでひどい状態だったのです。それで70人が裁かれて命を失いました。(19節)ペリシテ人ですらそんな不敬な行動をしていません。

一年の終わりに、手帳を振り返り、デボーションノートを見返すことは良い習慣です。感謝と共に、悔い改める事に気づいたら主の前で自分の非を認めましょう。そして、誰かに「ごめんなさい」と言いましょう。償いが必要なら実行しましょう。

□一年の終わりに感謝しよう
□「ごめんなさい」やつぐないが必要なら、そうしましょう
□敵対する人の心の中にも、我々の手が届かない所でも、主は働かれる

2025年12月21日日曜日

イザヤ9:1~7 不思議な助言者

しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。(イザヤ9:1~2)

紀元743年、アッシリア帝国のティグラト・ピレセルが北方からイスラエルに攻め込んできました。(第二列王記15:29)

北部に位置したゼブルンとナフタリの地域が最初に大きな被害を受けました。人が殺され、多くの人が外国に連れていかれ、残った人は重税で苦しみ、民族としての誇りを失いました。苦しみ、闇、辱め、重いくびき、それが彼らの現実でした。 

それから約50年後に預言者イザヤがゼブルンとナフタリの地に希望があると語りました。苦しみの代わりに喜びと楽しみが来る。闇の代わりに光が来る。恥ずかしめの代わりに栄誉が来る、重いくびきから解放され、戦争は終わり平和が来るというのです。

今のあなたの暮らしはゼブルンやナフタリの人のようですか。そこに希望の光が灯るのがクリスマスなのです。

マタイ4:12~16を読んで下さい。主イエスがガリラヤ湖の町に住み、人々を教え、愛を届け、奇跡を行うことが預言者イザヤの預言の成就だと十二弟子のマタイは理解したのです。ゼブルンとナフタリの人々が希望を持てる根拠は、一人の男の子が生まれること、つまり、主イエスが生まれることなのです。

 

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6)

 6節のイザヤの預言は、罪を赦す救い主について触れていません。その代わり、救い主の本質を4つの面から説明しています。

救い主は、驚くべきカウンセラーとして私たちの話を聞き、行くべき道を示して下さる方です。神の力を発揮して具体的に私たちを助けてくれます。どんな時も渡したちを見捨てることなく共にいて愛を注ぎ守って下さる父です。私たちを争いから遠ざけ平和を与えて下さる方なのです。

しかも、その赤ちゃんは、「私たちのために生まれる」のです。「私たちのために与えられる」のです。

主イエスは永遠に頼れるあなたのサポーターなのです。

 主イエスのご降誕を心からお祝いします。感謝します。御名を賛美します。
 メリークリスマス。

 

 □救い主は、闇から光へ救い出し、力を与え、平和を下さるお方です 
 □私たちのために、主イエスは生まれた
 □救い主は、私たちを支え守る永遠のサポーター

2025年12月14日日曜日

第一サムエル5:1~12 主の手が

戦いに負けたイスラエルの民はきっとこう考えたことでしょう。
 神の箱は何の役にも立たない。神は無力だ。
 果たしてそうでしょうか?

イスラエルとの戦いに勝ったペリシテ人は、戦利品として神の箱をアシュドデの町に持ち帰り、神殿の中のダゴン像の傍らに置きました。

翌朝見ると、ダゴンの像は神の箱にひれ伏すように倒れていました。人々は元の位置に戻し翌日を迎えました。

 次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。(第一サムエル5:4)

ダゴンの神の像の頭が切り離された姿は、命がない、何も考えられないダゴンの神を象徴しています。両手が無いことは何もできない姿を表しています。そしてダゴンの胴体は神の箱にひれ伏しています。まことの神の偉大さが無言のうちに示されています。

 

それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。(第一サムエル5:11)

その次に起きたことは伝染病でした。神の箱が運ばれたアシュドデの町で疫病が流行し死者が出ました。そこで、彼らは相談して神の箱を隣の町ガテに移動しました。ガテでも疫病が発生したので隣町のエクロンに送ろうとしましたがエクロンの人々が拒絶しました。

神の箱を保持すればイスラエルを従わせるための「人質」にできますが、疫病がひどくなるのはこりごりなので、ペリシテの領主たちは神の箱を返還することを決めました。

 

神の栄光は消えていません。
 人間が創作した神であるダゴンとまことの神がどれほど違うのかを、神は一言も言葉を発せずに雄弁に語られました。偶像の神はまことの神にひれ伏すだけなのです。

神の箱は、ペリシテ人に破壊されることなく、イスラエル人の助けを一切受けずに、本来あるべき場所に戻ろうとしています。

 

同じことがあなたの周囲で起きています。神は、あなたの知らない所で、神のお考えに基づき、神のタイミングで、神の方法で、あなたのために、静かに事を行っておられます。

 

□人間の作った神は、まことの神の前にひれ伏す
 □まことの神は、人の助けや保護を必要としない
 □神は、あなたの知らない場所で静かに事を行われる方


2025年12月7日日曜日

第一サムエル4:1~11 神の箱 

 今日のテーマ:敗北した後にどうするか

 ペリシテ人は地中海の島々から来た海の民で、海岸地域に5つの町を作り、イスラエルの最大の敵となっていました。9節によると、ペリシテ人がイスラエル人を支配していたことが分かります。イスラエルは自力で剣も作れず鍛冶屋さえ設置が許されていませんでした。(第一サムエル13:19)

今回の戦いは、指導者がはっきりしない無責任状態で、事前の打ち合わせや戦略も不明確で、なにより、主に導きを求め、祈り、礼拝をささげた様子がありません。イスラエル人がペリシテの圧力に耐えかねて一揆のように進軍したように見えます。(1節)

 兵が陣営に戻って来たとき、イスラエルの長老たちは言った。「どうして主は、今日、ペリシテ人の前でわれわれを打たれたのだろう。シロから主の契約の箱をわれわれのところに持って来よう。そうすれば、その箱がわれわれの間に来て、われわれを敵の手から救うだろう。」(第一サムエル4:3)

 初戦に負けたイスラエルの長老たちは、神の助けがないことに気づきました。そこで祈ったり、悔い改めたり、熟慮するなら良いのですが、主の回答を待つことさえしません。神の箱を持ってくれば勝てると短絡的に思いつきました。

神の箱がイスラエルの陣営に到着した時にペリシテ人が「神が陣営に来た」(7節)と感じた事と、イスラエルの発想はまったく同じで、異教的で呪術的です。

 

 戦いに負けた時、どうするか。それが今日の聖書箇所から学ぶ点です。

 負けた事から悔い改めや真実な生き方を見出す場合があります。一方で、負けた後に愚かな行動に出てかえって傷口を広げることもあります。あなたは、どちらのタイプですか。イスラエルの民は後者でした。

戦いの結果は悲惨な敗北で、神の箱も奪われ、祭司ホフニとピネハスも殺されました。(10~11節)戦場から逃げ帰った兵士がシロの町に戻ると、人々は悲嘆に暮れました。(12~13節)

98歳の祭司エリは敗北の知らせを聞き、転倒して首を折り亡くなりました。神と民の間に立つ首の役割を果たす祭司の死として、とても象徴的です。

エリの息子嫁はそのショックで急に産気づいて赤ちゃんを産んで亡くなりました。生まれた子の名前はイ・カボデ(栄光は去った)と命名されました。

彼女は、「栄光がイスラエルから去った」と言って、その子をイ・カボデと名づけた。これは、神の箱が奪われたこと、また、しゅうとと夫のことを指したのであった。(第一サムエル4:21)

 「正しい人は七度倒れても、また起き上がり」(箴言24:16)とあります。信仰者は敗北した時こそ多くを学び、信仰と祈りを持って立ち上がれるのです。

□神をお守りのように考えてはいけない
□導きを求め、祈り、礼拝してから戦おう
□神の栄光は決して消えません

第一サムエル8:1~22 王を求める民 

「ほかのすべての国民のように」(5節、20節)王が欲しい。  私たちは「人並み」という言葉に弱いのです。人並みになればきっと幸せになれる。そう考えて、大切な自分らしさや生き方を一旦横に置き、外見だけは人並みにする人が多い。その結果、失敗します。こんなはずではなかったと嘆くこと...