2025年11月16日日曜日

第一サムエル2:12~26 少年サムエル 

 エリの息子たちのホフニとピネハス(第一サムエル1:3)はひどく堕落していました。神に関わる儀式を執行しながらも「よこしまな者たちで、主を知らなかった」(12節)とあります。一般人が純粋な心でささげる「主へのささげ物を侮った」(17節)という罪はとても重いものでした。

おいしい部位を肉刺しで横取りし(13~17節)、会見の入り口で仕えている女たちと寝ていた(22節)とあるように、食欲と性欲の奴隷でした。彼らの父親である祭司エリは噂話から息子たちの行状を知りましたが、息子たちをきちんと訓戒せず、警告も処罰もできません。(23~24節)主はエリの息子たちに死をもって対処すると決めておられました。(25節)

「さてサムエルは、亜麻布のエポデを身にまとった幼いしもべとして、主の前に仕えていた。」(第一サムエル2:18)

「主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。」(21節)

こんなひどい環境にいてもサムエルが清らかな心を持てたのは、母親のハンナが主の御顔を拝す(1:22)子どもになれるようにと教え導いた事が要因だと思われます。
 また、毎年、両親と家族がシロにやって来て真心からいけにえを捧げる姿はサムエルの心に大切に刻まれたはずです。

何よりも、幼い時も、少年と呼ばれる年齢になってもサムエルの姿勢は変わらず、主に仕えていました。(11節、18節、3:1)

<主に仕える>という姿勢はサムエルの生涯にわたる大きな特徴です。ユダヤの国全体を指導する立場になりサムエルは7:3と12:20において<主に仕えなさい>とサムエルは語り掛けるのです。

祭司を支えるレビ人ですら民数記8章によると25歳からしか仕事に就くことができません。幼いサムエルができる仕事はおのずと限られ、エリの身の回りの世話や単純な繰り返しの雑事でしょう。それでも、サムエルは主を念頭に置き、主に仕える心で与えられた雑用を大切にこなしていったのです。

 

主を本当に知りたい人は主に仕えましょう。
 あなたにとって、主に仕えるとは何をすることですか。

 

主はハンナを顧み、彼女は身ごもって、三人の息子と二人の娘を産んだ。少年サムエルは主のみもとで成長した。(21節)

「一方、少年サムエルは、主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した。」(26節)

 

主に仕えたサムエルは、あらゆる意味で成長していきました。人にも愛され、神にも愛されました。

 

ろくろに乗せられた粘土は同じ場所をくるくる回ります。まるで同じ事を繰り返す日常のようです。私たちも「主のみもと」(21節)に留まりましょう。陶器師の手の微妙な変化でろくろに乗せられた器は美しい器に変えられます。幼いサムエルは毎日同じ事を繰り返しながら、汚れた環境に染まらず、純真な心を養い、主に仕え続け、主によって成長に導かれました。

 「しかし、今、主よ、あなたは私たちの父です。私たちは粘土で、あなたは私たちの陶器師です。私たちはみな、あなたの御手のわざです。」(イザヤ64:8)

 □どんな環境の中でも花は咲く
□生活の中で主に仕えよう
□繰り返しの毎日で陶器師の主に形作って頂こう

2025年11月9日日曜日

第一サムエル2:1~11 ハンナの賛歌

 ハンナは幼いサムエルを祭司に委ねる時、どんな気持ちで何を祈ったのでしょうか。

ハンナは祈った。「私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。主のように聖なる方はいません。まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。私たちの神のような岩はありません。(第一サムエル2:1~2)

 子供が生まれる前のハンナは<私を見て下さい>(1:11)と願うばかりでしたが、サムエルを手放す時には視点が上に向かい、喜びに満ち、「聖なる方」をたたえていました。「聖なる方」、そして、あなたのような神は他にないとハンナが述べましたが、この表現は旧約聖書で初めて登場したものです。

 ハンナの祈りに答えて下さった事から慈しみ深い神と呼び掛けても良かったです。不妊のハンナからサムエルが生まれた事から全能の神と呼び掛けることもできました。でも、ハンナの心に浮かんだ神の本質は「聖」でした。ハンナは聖なる神の臨在に触れて心から礼拝しました。

 聖なる神を知り、聖なる神の臨在に触れると何が起こるのでしょう。謙虚になります。子供が生まれた事で、ペニンナに復讐できたとか、やればできると傲慢になりやすいタイミングですが、横柄になることを自ら戒め(3節)、「私の角は主によって高く上がります」(1節)とあるように、劣等感や卑屈さから離れ健康な自己認識を持てました。

 

聖なる神を知ると、次に、世界を見渡す展望台に立てます。世界と国々と私たちの人生を治めておられるのは神であると心の深い所でうなずけるのです。

権力者や金持ちが世界を治めているよう見えます。けれども、主の御手が動くなら、弱い者が強くされ(4節)、貧しい者が富む者とされる(8節)のです。また、生きるも死ぬも死の主権のもとにあると気づきます。(6節)


 聖なる方に目を向けて賛美をしてきたハンナは最後に、国を治める王についての洞察を主から与えられました。(9~10節)

主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。主は地の果ての果てまでさばかれます。主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。」(2:10)

当時のユダヤには全国を治める王はおらずバラバラで、良い指導者が求められていました。主が王を選び油を注いで任命して下さることをハンナは願いました。

「人は、自分の能力によっては勝てない」(9節)とあるように、人間の力によってのし上がる王ではなく、「敬虔な者」(9節)としての王です。

この祈りは第一サムエル全体のストーリーを表し、自分の力に頼るサウル王と敬虔に歩むダビデの姿が予告されています。今は幼子のサムエルですが、やがて王に油を注ぐ役割を担うのです。

最後に考えましょう。ハンナはなぜこのような賛美をささげることができたのでしょう。

何も兆候のない時のハンナは、神が赤ちゃんを産ませて下さると信じました。そして、与えられる事を前提にして、その子を通じて主に仕えたいと願いました。このささげる姿勢、用いて下さいと願う態度が今回のハンナの賛歌を生み出す原動力になっています。

 

 □聖なる神を礼拝しよう
□主権者の神に目を大きく広げて頂こう
□弱くても強くされる、貧しくても富む、敬虔な者は守られる
□主よ、私の角を高く上げて下さい

2025年10月26日日曜日

第一サムエル1:20~28 男の子

 男の子が生まれました。「サムエル」(20節)と名付けたのは夫ではなくハンナで、その名の意味は「彼の名は神」または「神の名前」になります。

しかしハンナは、夫に「この子が乳離れして、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を拝して、いつまでもそこにとどまるようになるまでは」と言って、上って行かなかった。夫のエルカナは彼女に言った。「あなたが良いと思うようにしなさい」(22~23節)

夫は妻の願いを優先して「あなたが良いと思うようにしなさい」と言いました。さらに夫は「主がそのおことばを実現してくださるように」(23節)と彼の信仰と祈りをにじませました。

 ハンナの妊娠と出産を通して二人の絆は深くなっていきました。もうハンナに涙はありません。意地悪してくるもう一人の妻ペニンナの存在は意識の外になりました。

「縦の糸はあなた、横の糸は私」という歌がありますが、今日のハンナとエルカナ夫婦においては、♪縦の糸は信仰、横の糸は愛、織りなす布はいつか必ず神の栄光を現わすことでしょう♪となりますね。

 

その子が乳離れしたとき、彼女は子牛三頭、小麦粉一エパ、ぶどう酒の皮袋一つを携えてその子を伴って上り、シロにある主の家に連れて行った。その子はまだ幼かった。(24節)

ハンナは最初にいけにえをささげてから祭司に会いました。

「その子はまだ幼かった」と書かれています。普通は母親と離れることが難しい年齢でしたが、ハンナは幼い息子に、神を教え、礼拝を見せ、あなたは祈りの答えで、主に仕えるのよと教えてきたのでしょう。2章1節を見ると、別離の悲しみよりも、この日が来た喜びのほうがまさっています。

ハンナは言った。「ああ、祭司様。あなたは生きておられます。祭司様。私はかつて、ここであなたのそばに立って、主に祈った女です。この子のことを、私は祈ったのです。主は私がお願いしたとおり、私の願いをかなえてくださいました。(26~27節)

かつて「私は心に悩みのある女です」(15節)と自己紹介したハンナは、「私は……主に祈った女です」で、しかもその祈りがかなえられた女ですと言えました。

「それで私もまた、この子を主におゆだねいたします。この子は一生涯、主にゆだねられたものです。」(28節)

 神に生涯をささげた人が神の国を作ります。

□共に主を見上げ、互いに愛し合う夫婦になりたい
□ハンナは、主に仕えする人を育てた
□私たちも生涯を主にささげ、主の御顔を拝して生きよう

2025年10月19日日曜日

第一サムエル1:9~19 ハンナの祈り

  「ハンナの心は痛んでいた。彼女は激しく泣いて、主に祈った。」(第一サムエル1:10)

「このはしためを、よこしまな女と思わないでください。私は募る憂いと苛立ちのために、今まで祈っていたのです。」(1:16)

 

ハンナは最初、神への不平やペニンナへの呪いや復讐を祈ったかもしれません。

ところが、10節「主に祈った」、12節「主の前で」、15節「主の前に」とあります。ハンナの祈りは、主の前に出て主の臨在を感じる祈りでした。主と自分の間に誰もいません。

「私は主の前に、心を注ぎ出していたのです」(15節)とあるように祈りが結晶化していきました。

ハンナは自分のことを4回も「はしため」(11、11、16、18節)つまり奴隷女と言いました。自分が弱く小さく取るに足らない者と自覚していました。奴隷の役割は主人に仕えることでから、ハンナは主に仕える意識を強く持っていました。

16節で「今まで祈っていたのです」とありますが、原文では<今までお話していました>となっています。主に話しかけ、主の言葉に耳を傾け、会話のキャッチボールをしていたのです。

ハンナは、赤ちゃんを産めない事の中に主のお考えがある(5節)と考え至った可能性があります。

 

ハンナが、与えられた男の子を生涯おささげしますという祈りと提案は唐突に見えます。

ですが第一歴代誌6:33~38に書かれている系図を良く読むと、エルカナはレビ人の流れを汲んでいることが分かります。何かの理由でエルカナはレビ人の働きから外れ、エルカナの心の中に後悔と復帰したい望みがあったのかもしれません。妻のハンナはそれを知り、自分にできる事に気づいたのかもしれません。

 

北アルプスに降った雪や雨が地中に染みこみ、長い年月をかけてろ過され、湧き水となって安曇野のワサビ農場に流れ込んでいます。その農園だけで12万トンの清らかな水が毎日流れています。

そして誓願を立てて言った。「万軍の主よ。もし、あなたがはしための苦しみをご覧になり、私を心に留め、このはしためを忘れず、男の子を下さるなら、私はその子を一生の間、主にお渡しします。そしてその子の頭にかみそりを当てません。」(第一サムエル1:11)

ハンナの心の中を汚れた言葉が通過してきましたが、ついに透明な湧き水となって純化され溢れ出ました。主にお仕えしたい。生まれて来る子をおささげしたい。私とこの子をお用い下さいと祈れたのです。

 

□神への文句でなく、誰かへの復讐や呪いでない祈りがある

□主の前に出て、主のしもべとして心を注ぎ出そう

□祈りを純化し、結晶化し、あなたの本当の願いに気づこう

□生きるにしても死ぬにしても主の栄光を願い求めよう

第一サムエル1:1~8 始まりは涙

 子供を産めなかった女性は離縁させられる。それは、世界でも日本でも広く行われた残酷な習慣です。家の継続を優先した男性中心の考え方でした。紀元前1100年ごろのユダヤでもそれは同じことでした。

エルカナは、おそらく最初ハンナと結婚したのでしょう。何年か一緒に過ごしましたが子供が生まれません。しかたなく、エルカナはハンナより若いペニンナを妻としたのでしょう。ペニンナは男の子も女の子も複数産み(4節)エルカナを安心させました。

「ハンナには特別の受ける分を与えていた。主は彼女の胎を閉じておられたが、彼がハンナを愛していたからである。」(第一サムエル1:5)

 ハンナが赤ちゃんを産めなかった背後に主の特別なお考えがありました。ハンナの苦悩によって生まれた祈りと熱意が祭司サムエルの誕生に結び付きますがそれは後の話です。

 ペニンナは赤ちゃんを産めないハンナを責め(6節)、苛立たせ怒らせました。毎年、その緊張関係がシロで極度に高まり、幸せなはずのご馳走の席でハンナは涙が止まらず食べられません。ペニンナの子供たちも不思議な顔で見ていたことでしょう。

 夫のエルカナは、ハンナに言葉をかけますが、ハンナの心には届きません。(8節)

 

 ところで、ペニンナは、何故ハンナを苛立たせるのでしょう。ペニンナはたくさんの子供を産み優位に立っているはずです。それは、夫エルカナが、子どもを産めないハンナを決して離縁しないことが癪に障るのです。決定的な事は、「彼がハンナを愛していた」(5節)(8節)事です。夫エルカナはハンナを愛していたとペニンナにも分かったのです。ですから、ペニンナのほうが苛立っていたのです。

 残念なことに、ハンナは自分が不幸だと思い、赤ちゃんが産めないことがその原因だと考え、全体の状況を大きく見ることができません。

環境があなたを不幸にしているのではありません。また、身近な誰かがあなたの不幸の原因ではありません。

あなたの考え方が不幸を引き寄せているのです。感謝を見出し、主の恵みに気づくなら、環境に左右されない平安と喜びがやってきます。

□誰かのせいで不幸ではない、あなたの考え方と受け止め方が不幸にしている

□与えられている感謝と恵みを数えてみよう

□思い通りに行かない時は、主との関わりの中で何かが生まれようとしている

2025年10月5日日曜日

ヨハネ21:15~25 わたしに従え 

 ルカ24:34の「シモンに姿を現された」と第一コリント15:5の「ケファに現れ、それから十二弟子に現れた」によれば、主イエスは復活された後にペテロに個人的にお会いになっています。そこでペテロは涙の悔い改めをしたことでしょう。そして主イエスの赦しを確認していたのでしょう。

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」(ヨハネ21:15)

 主イエスの質問と答えを簡潔に英語にすると、Do you love me?  Yes となります。主イエスは私を愛すかと三度同じ質問をされました。

 主イエスは、なぜ、この質問をされたのでしょう。

 第一に、この質問の大前提に気づいてもらうためです。私はあなたを愛している、では、あなたはどうなのかいと主イエスは尋ねているのです。ペテロが失敗しても、裏切っても、主イエスはペテロを愛しています。

 第二に、ペテロの再出発のためです。三度主イエスを否んだという出来事は、公の場で修復される必要があります。他の十二弟子はこのやり取りを見て、三度否んだペテロが三度愛しますと言うことで新たなスタートを切ったと納得できました。

第三に、主イエスはペテロに使命を公にお与えになりました。私の羊を飼いなさいとペテロにだけ言われました。今後の教会のリーダーシップを取りなさいとの指示です。

第四に、今後の人生は主イエスを愛して生きていきなさい。これが最も大事!

 

ペテロは彼を見て、「主よ、この人はどうなのですか」とイエスに言った。イエスはペテロに言われた。「わたしが来るときまで彼が生きるように、わたしが望んだとしても、あなたに何の関わりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(ヨハネ21:21~22)

ペテロは殉教の死を遂げると予告されました。「両手を伸ばす」(18節)とは十字架刑を意味しています。

ヨハネがどんな人生を送ろうが、あなたはあなたの人生を送りなさいと主は言われました。

ヨハネの福音書は哲学的にまた神学的に始まり、7つの「しるし」を通して主イエスが神であり救い主であることを冷静に証明してきました。ニコデモやサマリヤの女やマルタとマリアなどとの交流を通じて主イエスの温かい人柄が示されました。さらに十字架と復活の出来事を詳細に書き記すことで主イエスまことの救い主であることを明らかにしました。あとがきでは、復活の主との喜びと平安に満ちた朝食の思い出を書き添え、ペテロの再出発で新たな始まりを感じさせ、主イエスを愛して生きようとヨハネは励ましてくれました。

 □あなたへの愛は変わらないと主は言われます
 □再出発できます
 □主イエスを愛して行こう
 □人真似でなく、人に左右されず、自分なりに主イエスに従おう

2025年9月28日日曜日

ヨハネ21:1~14 ガリラヤ湖の朝  

主イエスは、エルサレムだけでなくガリラヤでも復活後の体を示され、十二弟子をずっと見ておられて困った時に助けて下さいました。復活後にも奇跡をされました。そして愛を示し続けて下さいました。

 天使たちはマグダラのマリアに「わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えます」(マタイ28:10)と伝えました。

さて、主イエスがガリラヤで弟子たちと会う目的は何だったのでしょう?

エルサレムから離れてガリラヤ湖にやって来た弟子たちは、祭司長や律法学者を恐れる必要がないのでほっとしたことでしょう。彼らは夜、漁に出ましたが一匹も捕れずに朝を迎えました。朝霧のため岸に立つ人物が誰か見えなかったのか、それとも霊の目が閉ざされていたのか、約90m先にいた主イエスに気づきませんでした。けれども、その人の助言に従い網を右側に下ろすと大漁になりました。

イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ、食べる魚がありませんね。」彼らは答えた。「ありません。」イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れます。」そこで、彼らは網を打った。すると、おびただしい数の魚のために、もはや彼らには網を引き上げることができなかった。(ヨハネ21:5~6 

ヨハネがその人物が主イエスだと気づいてペテロに言いました。そう聞くとペテロは着物をわざわざ着てから水に飛び込み岸まで泳ぎ、イエスさまに挨拶しました。ペテロは主イエスを愛していたのです。主イエスを否んだ過去があるので、おわびしたかったのでしょう。 

こうして彼らが陸地に上がると、そこには炭火がおこされていて、その上には魚があり、またパンがあるのが見えた。(ヨハネ21:9)

主イエスはすでに魚とパンを焼いて待っていてくれました。「さあ、朝の食事をしなさい」(12節)主イエスは十二弟子と再会し、ゆっくり食事がしたかったのです。それが、ガリラヤ湖に行きなさいという命令の中心的な意味です。

主イエスの奇跡は通常、生まれつきの盲人や病気で長く苦しむ人や罪を抱えた人のため、そして、大きな困難に直面した時に行われて来ました。でも、今日の箇所ではそうではありません。そして、主イエスへの信頼が試される場面でもありません。

懐かしい人々との再会、語らい、穏やかで温かい食事の席、再会の目的はただそれだけなのです。主イエスは弟子たちともう一度心行くまで会いたかったのです。

朝日に湖面が輝く中で、今日の箇所には同窓会のような楽しさがあります。イベント終了後の打ち上げ食事会のような達成感が満ちています。主イエスと十二弟子の愛の絆が深められるひとときでした。

私たちも主イエスに招かれています。主イエスはあなたとゆっくり食事がしたいと今も願っておられます。

 

□主イエスはどこにでもおられ、私たちを見守っておられます
□主イエスは私たちを助けるお方
□主イエスの奇跡は復活後にも起きます
□主イエスと共にいることは楽しく嬉しいこと
□主イエスはあなたといることが楽しい

第一サムエル2:12~26 少年サムエル 

  エリの息子たちのホフニとピネハス(第一サムエル1:3)はひどく堕落していました。神に関わる儀式を執行しながらも「よこしまな者たちで、主を知らなかった」(12節)とあります。一般人が純粋な心でささげる「主へのささげ物を侮った」(17節)という罪はとても重いものでした。 ...