2026年1月12日月曜日

第一サムエル8:1~22 王を求める民 

「ほかのすべての国民のように」(5節、20節)王が欲しい。
 私たちは「人並み」という言葉に弱いのです。人並みになればきっと幸せになれる。そう考えて、大切な自分らしさや生き方を一旦横に置き、外見だけは人並みにする人が多い。その結果、失敗します。こんなはずではなかったと嘆くことになります。

イスラエルの長老たちはサムエルに言いました。あなたは年老いてしまった。そして、あなたの息子たちは賄賂に血眼になって裁きを曲げており指導者失格だ。近隣諸国のような王が欲しいと願ったのです。神に導かれるより、人並みの体裁がほしい、王様のいる国になれば安泰だと考えたのです。

彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」(第一サムエル8:5)

 サムエルはがっかりしましたが、主に祈りました。ここがサムエルの素晴らしい点です。イスラエルを救い荒野で人々を守ったが、彼らは私を捨て他の神々を頼った(8節)、あなたの気持ちが分かる、と主はサムエルを慰めて下さいました。「わたしが王として彼らを治めることを拒んだ」(7節)と人々の本質を見抜かれました。

 彼らの声を受け入れて王を立てよ、その際に、王というものがどんなに自己中心で残忍か、人々がどんなに苦しむかを告げよと主は言われました。(9節)

 サムエルは10~18節で王がどんな権利を持つかを説明しました。
 王は、青年男子を兵士として取り、王のための人間の盾にします。娘たちも王に取られて、王や貴族や兵士のために料理を作らされます。畑や家畜の一部も王に取られます。死ぬまで毎年穀物の税金を納めます。気がつくと、国民は王の奴隷になり果てます。

あなたがたの羊の群れの十分の一を取り、あなたがた自身は王の奴隷となる。その日、あなたがたが自分たちのために選んだ王のゆえに泣き叫んでも、その日、主はあなたがたに答えはしない。」(第一サムエル8:17~18)

「取る」という言葉が5回も使われています。国民を走らせ、耕させ、従事させ、作らせ、仕事をさせることになります。サムエルが王の立ち振る舞いを説明しても、人々は幻想に踊らされています。王が先頭に立って人々のために戦うと信じ、正義を優先したさばきを必ず行うと夢見ていたのです。まったくの誤認識です。お人よし過ぎます。

「そうすれば私たちもまた、ほかのすべての国民のようになり、王が私たちをさばき、私たちの先に立って出陣し、私たちの戦いを戦ってくれるでしょう。」(20節)

 あなたも、今、「人並み」を求め、大事なものを棚上げにしていませんか。まことの王、主イエスの心を求め、自分らしいタイミングと方法で人生を積み上げていきましょう。

□「人並み」に落とし穴あり
□神こそ我がやぐらです
□王様がしてくれるのを待つのでなく、私たちが王なる神に仕えましょう

2026年1月4日日曜日

第一サムエル7:1~17 エベン・エゼル 

「箱がキルヤテ・エアリムにとどまった日から長い年月がたって、二十年になった。イスラエルの全家は主を慕い求めていた。」(第一サムエル7:2)

神の箱はキルアテ・エアリムの町に来て、無為に20年が過ぎました。この空白の期間、人々は何をしていたのでしょう。

あなたには失望の時期や空白の年月がありましたか。

サムエルはイスラエルの全家に言った。「もしあなたがたが、心のすべてをもって主に立ち返るなら、あなたがたの間から異国の神々やアシュタロテを取り除きなさい。そして心を主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたがたをペリシテ人の手から救い出してくださいます。」(第一サムエル7:3)

空回りの20年にうんざりして本来の自分に戻りたいと人々は願いました。サムエルは神の声を聞く祭司ですが、人々の心の声を聞き取ることができました。

捨てるべき事としっかりと保持する事の二つがあるとサムエルは言いました。偶像の神を捨てよ。まことの神に心を向けよ。あなたが捨てるべきものは何ですか。あなたの心は主にフォーカスされていますか。

サムエルは全イスラエルをミツパに集めました。信仰を同じくする人と共に集まり祈り賛美することは互いを励ますことになります。人々は主に祈り、悔い改めの表明として断食しました。そして、水を注ぎ出す儀式をしました。低い心、柔らかな心、澄んだ心を象徴した水を見ながら人々は心を主に注ぎ出し、信仰の歩むを新たにしました。

 

 イスラエルが攻撃の準備をしているとペリシテ人は誤解し武器を持って迫ってきました。イスラエルの人々は恐れました。

サムエルは動じません。主に完全に信頼しています。そして子羊をささげました。バプテスマのヨハネが主イエスを指して神の子羊(ヨハネ1:29)と言った事を想起させます。

サムエルが祈るとペリシテ人の上に大きな雷鳴が響き渡り、混乱に乗じてイスラエルが戦いに勝利しました。それを記念して石を置き、エベン・エゼル(エベンは石、エゼルは助ける)と命名しまた。その場所は、かつてペリシテに敗北した場所でした。(第一サムエル4:1)

 この勝利は、ハンナの賛歌ですでに預言されていました。「主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。」(第一サムエル2:10)

余分なものを捨てて、主に心を向ける年にしましょう。
 あなたが水を注ぐように主に信頼するとき、主は雷鳴を響かせ思いもかけない勝利を与えて下さいます。

□空転の日々は終わった。心を主に向ける年です
 □水を注ぐように、主に信頼しよう
 □今年、何をして主に仕えますか


2025年12月28日日曜日

第一サムエル6:1~21 雌牛に引かせて

 ペリシテ人はイスラエルとの戦いに勝利し、神の箱を奪って来たのですが、それが原因で7か月の間疫病で苦しむことになりました。(1節)ペリシテの5人の領主たちは頭を抱えた末、ダゴンの祭司や占い師に神の箱の返却方法についての助言をもらうことにしました。 

彼らは答えた。「イスラエルの神の箱を送り返すのなら、何もつけないで送り返してはなりません。神に対して償いをしなければなりません。そうすれば、あなたがたは癒やされるでしょう。また、なぜ、神の手があなたがたから去らないかが分かるでしょう。」(第一サムエル6:3)

助言に従いペリシテ人の5つの町の領主たちは、5つの町を象徴する5つの金のねずみ像を作りました。

償いの方法としてこれは本当にふさわしい方法だったのでしょうか。


 異教の民、ペリシテ人は最大限に誠意を示したものかもしれませんが、本当にこの方法がベストだったのでしょうか。神の箱の返却方法にはイスラエルの神を試している面があることも否めません。

償いにおいて一番重要視されるのは、「ごめんなさい、私が悪かったです」という言葉の発出と心砕かれた内面の姿勢です。ペリシテ人の領主たちが先導し、普通の牛車で神の箱を丁重に運び、イスラエルの人々に金の像を手渡して、イスラエルの神とイスラエルの民に謝罪したなら償いの実を結んだと私は思います。

 

占い師達は不思議な返却方法を提案しました。乳を飲ませている母牛にくびきを付けて車を引かせ、そこに神の箱を乗せるというものです。初めてくびきを付けた牛は拒絶して暴れますし、雌牛は子牛のところに戻るはずです。雌牛たちがイスラエルの村に進んでいくなら、それは、イスラエルの神が生きていることの証明になるというのです。

雌牛は、ベテ・シェメシュへの道、一本の大路をまっすぐに進んだ。鳴きながら進み続け、右にも左にもそれなかった。ペリシテ人の領主たちは、ベテ・シェメシュの国境まで、その後について行った。(第一サムエル6:12)

 雌牛が鳴きながら進むという様子は、神が牛たちの行動まで制御される方であることを示しています。

神は、神の時に、神の方法で、事を行われます。主は、ペリシテ人の決断や思いの中にさえ介入されます。主は牛の歩みでさえ支配されます。

 神の箱は、ペリシテとイスラエルの領土の境目にあったベテ・シェメシュの村に到着しました。海岸地帯から丘陵地帯に向かう道を、牛は30キロくらいの道を迷うことなく進んだようです。


ヨシュア記21:16を読むと、ベテ・シェメシュは祭司アロンの子らに与えられた十三の町の一つであることが分かります。その町の人々が興味本位で神の箱を開けてしまいました。イスラエルの人々の信仰の腐敗はここまでひどい状態だったのです。それで70人が裁かれて命を失いました。(19節)ペリシテ人ですらそんな不敬な行動をしていません。

一年の終わりに、手帳を振り返り、デボーションノートを見返すことは良い習慣です。感謝と共に、悔い改める事に気づいたら主の前で自分の非を認めましょう。そして、誰かに「ごめんなさい」と言いましょう。償いが必要なら実行しましょう。

□一年の終わりに感謝しよう
□「ごめんなさい」やつぐないが必要なら、そうしましょう
□敵対する人の心の中にも、我々の手が届かない所でも、主は働かれる

2025年12月21日日曜日

イザヤ9:1~7 不思議な助言者

しかし、苦しみのあったところに闇がなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は辱めを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦の民のガリラヤは栄誉を受ける。闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く。(イザヤ9:1~2)

紀元743年、アッシリア帝国のティグラト・ピレセルが北方からイスラエルに攻め込んできました。(第二列王記15:29)

北部に位置したゼブルンとナフタリの地域が最初に大きな被害を受けました。人が殺され、多くの人が外国に連れていかれ、残った人は重税で苦しみ、民族としての誇りを失いました。苦しみ、闇、辱め、重いくびき、それが彼らの現実でした。 

それから約50年後に預言者イザヤがゼブルンとナフタリの地に希望があると語りました。苦しみの代わりに喜びと楽しみが来る。闇の代わりに光が来る。恥ずかしめの代わりに栄誉が来る、重いくびきから解放され、戦争は終わり平和が来るというのです。

今のあなたの暮らしはゼブルンやナフタリの人のようですか。そこに希望の光が灯るのがクリスマスなのです。

マタイ4:12~16を読んで下さい。主イエスがガリラヤ湖の町に住み、人々を教え、愛を届け、奇跡を行うことが預言者イザヤの預言の成就だと十二弟子のマタイは理解したのです。ゼブルンとナフタリの人々が希望を持てる根拠は、一人の男の子が生まれること、つまり、主イエスが生まれることなのです。

 

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9:6)

 6節のイザヤの預言は、罪を赦す救い主について触れていません。その代わり、救い主の本質を4つの面から説明しています。

救い主は、驚くべきカウンセラーとして私たちの話を聞き、行くべき道を示して下さる方です。神の力を発揮して具体的に私たちを助けてくれます。どんな時も渡したちを見捨てることなく共にいて愛を注ぎ守って下さる父です。私たちを争いから遠ざけ平和を与えて下さる方なのです。

しかも、その赤ちゃんは、「私たちのために生まれる」のです。「私たちのために与えられる」のです。

主イエスは永遠に頼れるあなたのサポーターなのです。

 主イエスのご降誕を心からお祝いします。感謝します。御名を賛美します。
 メリークリスマス。

 

 □救い主は、闇から光へ救い出し、力を与え、平和を下さるお方です 
 □私たちのために、主イエスは生まれた
 □救い主は、私たちを支え守る永遠のサポーター

2025年12月14日日曜日

第一サムエル5:1~12 主の手が

戦いに負けたイスラエルの民はきっとこう考えたことでしょう。
 神の箱は何の役にも立たない。神は無力だ。
 果たしてそうでしょうか?

イスラエルとの戦いに勝ったペリシテ人は、戦利品として神の箱をアシュドデの町に持ち帰り、神殿の中のダゴン像の傍らに置きました。

翌朝見ると、ダゴンの像は神の箱にひれ伏すように倒れていました。人々は元の位置に戻し翌日を迎えました。

 次の日、朝早く彼らが起きて見ると、やはり、ダゴンは主の箱の前に、地にうつぶせになって倒れていた。ダゴンの頭と両手は切り離されて敷居のところにあり、胴体だけがそこに残っていた。(第一サムエル5:4)

ダゴンの神の像の頭が切り離された姿は、命がない、何も考えられないダゴンの神を象徴しています。両手が無いことは何もできない姿を表しています。そしてダゴンの胴体は神の箱にひれ伏しています。まことの神の偉大さが無言のうちに示されています。

 

それで彼らは人を遣わして、ペリシテ人の領主を全員集め、「イスラエルの神の箱を送って、元の場所に戻っていただきましょう。私と私の民を殺すことがないように」と言った。町中に死の恐慌があったのである。神の手は、そこに非常に重くのしかかっていた。(第一サムエル5:11)

その次に起きたことは伝染病でした。神の箱が運ばれたアシュドデの町で疫病が流行し死者が出ました。そこで、彼らは相談して神の箱を隣の町ガテに移動しました。ガテでも疫病が発生したので隣町のエクロンに送ろうとしましたがエクロンの人々が拒絶しました。

神の箱を保持すればイスラエルを従わせるための「人質」にできますが、疫病がひどくなるのはこりごりなので、ペリシテの領主たちは神の箱を返還することを決めました。

 

神の栄光は消えていません。
 人間が創作した神であるダゴンとまことの神がどれほど違うのかを、神は一言も言葉を発せずに雄弁に語られました。偶像の神はまことの神にひれ伏すだけなのです。

神の箱は、ペリシテ人に破壊されることなく、イスラエル人の助けを一切受けずに、本来あるべき場所に戻ろうとしています。

 

同じことがあなたの周囲で起きています。神は、あなたの知らない所で、神のお考えに基づき、神のタイミングで、神の方法で、あなたのために、静かに事を行っておられます。

 

□人間の作った神は、まことの神の前にひれ伏す
 □まことの神は、人の助けや保護を必要としない
 □神は、あなたの知らない場所で静かに事を行われる方


第一サムエル8:1~22 王を求める民 

「ほかのすべての国民のように」(5節、20節)王が欲しい。  私たちは「人並み」という言葉に弱いのです。人並みになればきっと幸せになれる。そう考えて、大切な自分らしさや生き方を一旦横に置き、外見だけは人並みにする人が多い。その結果、失敗します。こんなはずではなかったと嘆くこと...