2021年10月31日日曜日

詩篇25篇

 詩篇25篇は、道の詩篇です。 私たちは人生の節目で道を選びます。右に行くか、左にするか、悩みます。

 主よあなたの道を私に知らせ、
 あなたの進む道を私に教えてください。

 あなたの真理に私を導き教えてください。
 あなたこそ私の救いの神私はあなたを一日中待ち望みます。(4~5節)

 詩篇25篇は道を中心テーマにしていますが、それも含めて4つのテーマが繰り返し、繰り返し、語られる詩篇です。
 (段落ごとの内容が少しまとまり薄く感じられるのは、原文がアルファベット詩篇だからかもしれません。各節の冒頭単語がヘブル語のA,B,Cという順になっていてユダヤ人には暗唱しやすい詩篇になっています。)

 1~7節の部分からその4つのテーマをピックアップしてみましょう。第一のテーマは信頼です。「主よあなたをわがたましいは仰ぎ求めます。」(1節)苦しみの中にあっても神への信頼をはっきりと表明しています。

 第二のテーマは敵です。「わが神あなたに私は信頼いたします。どうか私が恥を見ないように敵が私に勝ち誇らないようにしてください。」(2節)敵が誰か、何をしているかは書かれていませんが、その敵にひどく苦しめられています。

 第三のテーマは、罪です。敵の悪事に目を向けていたら、自分の若い頃の罪を思い出したのです。過去とは自分が選んで来た道のことです。それで、罪の赦しを求めたのです。「私の若いころの罪や背きを思い起こさないでください。あなたの恵みによって私を覚えていてください。主よあなたのいつくしみのゆえに。」(7節)

 第四のテーマが「道」です。敵の攻撃を受ける中でも、どんな未来を選び取るべきか、主に道を尋ねたのです。「主よあなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。」(4節)

 普通、私たちは行きたい道を既に心に描いています。この仕事に就きたい、あの人と結婚したい、こんな未来になってほしい、などと<自分の道>を大事にしますが、ここでは「あなたの道」、「あなたの進む道」を知りたいと祈っています。「主よあなたの道を私に知らせ、あなたの進む道を私に教えてください。」
 主の道を求めましょう。それが祝福の鍵です。

8~15節でも同じテーマが登場します。「私の咎をお赦しください。それは大きいのです。」(11節)若さや未熟さゆえの罪について触れましたが、ここでは、大きな罪に気づいて赦しを求めています。
 主が教えて下さる道は「選ぶべき道」(12節)だということが分かります。「私の目はいつも主に向かう」(15節)先が見えない困難な時でも、主に信頼することを止めてはいけないのです。

山登りと信仰には類似点があります。登山の鉄則は登山道を歩くことです。近道に見えたので登山道から離れて歩いて行くと滑落して怪我したり遭難してしまいます。登山道は頂上に至る確かな道であり、踏み固められた安全な道であり、「選ぶべき道」なのです。山男は登山道から外れるな、信仰者は主の道からそれるな、です。

16~22節でも4つのテーマに触れています。「私の悩みと労苦を見て私のすべての罪を赦してください。」(18節)罪について自覚が深まり、最後は、すべての罪の赦しを求めています。「私のたましいを守り私を救い出してください。私が恥を見ないようにしてください。私はあなたに身を避けます。」(20節)敵の攻撃の中でも主への信頼を捨てません。こうしたプロセスの最後に、イスラエル全体に主の助けが及ぶようにとりなしの祈りをしています。

登山者が険しい坂道で頂上を仰ぐように、私たちも困難の中でも主を仰ぎ見ましょう。目標からそれず、信仰を保ち、主の道を登って行きましょう。

□敵に苦しめられ、自分の罪に直面しても、主への信頼を堅持する。
□主は私のすべての罪を赦して下さる方。
□人生の分岐点で、主の道を求め、主の道を歩こう。

 

2021年10月24日日曜日

詩篇24篇

 神を礼拝しようとする者はどんな備えをしたらよいでしょうか。24篇はそのための大事な原則を教えてくれます。

1、私たちは主のもの

「地とそこに満ちているもの、
 世界とその中に住んでいるもの、それは主のもの。」(1節)
 

 神は全世界と私たちをお造りになりました。すべては主のもの、私たちも主のものです。その上で、神は私たちに100%の自由意志を与えて下さいました。

 これが礼拝者がまず心に刻むべき第一の点です。命の創造者、私を生まれる前から愛して守ってこられた主なる神に感謝と賛美をささげることが礼拝です。

2、きよい手と澄んだ心

 「だれが主の山に登り得るのか。だれが聖なる御前に立てるのか。手がきよく心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず偽りの誓いをしない人。」(3~4節)

神を礼拝するのにふさわしい人は誰でしょう。クリーン・ハンドとピュア・ハートを持つ人だと言っています。きよい手とは、仕事や毎日の活動で嘘や不正のない正直な実生活を指します。澄んだ心とは、心の中における偽りや不純がない状態をいいます。そういう人は、主からの祝福と義をもらえます。

突き詰めて考えると、誰もが罪に汚れているので聖なる神の前に立てるきよい人は誰もいません。モーセやイザヤも聖なる神の前で自分の汚れを深く認識していました。
 罪と不完全さを認識しつつも、もっと神を知りたい、神に似た者になりたい、神のお役に立ちたい、神のそばにいたい、神に感謝と賛美をささげたいと願う者こそが、「神を求める者たち」「御顔を慕い求める人々」であり、その人たちこそが礼拝者の心を備えた人なのです。

3、門を開けて迎え入れよう

「門よおまえたちの頭を上げよ。永遠の戸よ上がれ。
  栄光の王が入って来られる。」(7節)

 ダビデが神の箱を都に運び入れた出来事が(第二サムエル6:12~15)詩篇24篇の背景にあると言われています。
 24篇の全体の流れを見ると、7節から10節は突出した印象を与えます。門という建造物をあたかも意志を持つ人のように見立てています。実は、この最後の部分こそが大事なのです。

 私が主のものだと理解し、神の御顔を慕い求める心と態度を持った後、主ご自身に私たちの心の中に来てもらうことが必要なのです。礼拝の本質とは何でしょう。私の心のドアを広く開け、主なる神に心の中心に来て頂くことなのです。

 エルサレムの都よ、主を栄光の王として迎えよ。そこに住むすべての民よ、心のドアを開けて主を受け入れよ。歴史を超えたすべての人よ、心の門を開いて主を迎えよ。

 振り返ると、私たちも主イエスを救い主として信じた時、私たちの心の門を開いて主を迎えました。(黙示録3:20)そしてクリスチャンは、生涯、主イエスを心の中心に置き続けながら、主と共に生きる者たちなのです。私たちの内に住んで下さる主イエスこそが、私たちを日々に変え、きよめ、キリストの姿にして下さるのです。

 主イエスが再臨される時は、24篇の言葉が完全に成就し、栄光の王をお迎えする日がきます。

□私たちは主のものです。
□きよい手と澄んだ心をもって主を礼拝しよう。

□栄光の王を私の心に迎え、生涯ずっと共に歩みましょう。

2021年10月21日木曜日

詩篇23篇

 詩篇23篇が好きな理由を聞かせて下さい。 

 たぶん色々な答えが返ってくることでしょう。

 まず内容を要約します。1節でダビデは、私にとって主は羊飼いのような方だと述べました。2~3節では、主から頂いた恵みを説明しました。4~5節で、人生で避けて通れない二つの問題があると述べ、「死の陰の谷」という試練と「敵」との戦いで主がどのように助けて下さるかを語り、最後の6節で生涯を貫く信仰告白をしました。

「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。」ダビデは自分自身が若い頃、羊飼いの仕事をしていたので、主はまるで羊飼いのようだと感じたのです。(ヤコブもそう感じていました。創世記48:15)乏しくない理由は、主から多くのものを頂いたという面と、主が共にいて下さるなら何もいらないという面があります。 

2節は羊飼いである主が、具体的な生活の必要を満たして下さる事を説明しています。パレスチナの山岳地帯は岩山で緑地が少なく、雨がめったに降らないので川や泉が希少です。羊飼いが食物と水のある所に羊を連れて行ってくれるので生きられます。

私たちの生活を振り返ると、仕事やお金や健康を主によって守られ、衣食住が整えられていることに気づきます。

3節では、主が私たちの内面を慰め励ましリフレッシュして下さり、正しい道に導かれることを語っています。主は私たちの心を気遣ってくれています。

 「たとえ死の陰の谷を歩むとしても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。」

人生の試練は避けられません。病気やケガや死別や失敗に私たちは直面します。暗い谷を通る時は希望が見えません。死を身近に感じるほどの危険にも遭遇します。でも「私はわざわいを恐れません」と力強くダビデは言っています。それは、主が同行者だからです。こんなに力強いことはありません。

 「私の敵をよそに、あなたは私の前に食卓を整え、頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。」

敵が押し寄せて来た時、私たちは行動を起こします。人生で敵との戦いは避けられません。子供がいじめられた時、親は子供を守るために立ち上がります。敵との戦いの前に、主は食事を用意して元気付けて下さいます。香油や杯の描写は、戦いに勝てるようにと神の力、知恵、勇気が上から注がれているのが分かります。

 「まことに私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう。私はいつまでも主の家に住まいます。」

ダビデの人生には試練や戦いは多かったのですが、一方ではいつくしみと恵みの連続だったのです。刺繍を裏から見れば試練、表に返すといつくしみと恵みが見えきます。神から良いものを頂き、神の愛に包まれていたのです。神に感謝し賛美しならが、命のある限り主と共に生きていきますとダビデは信仰を告白しました。

詩篇23篇が多くの人に愛される理由は、感謝にあふれた詩篇、賛美に貫かれた詩篇だからです。神への応答としての信仰告白が表明され、神が共にいるなら怖くないという確信に満ちた姿勢に励まされます。23篇は、晴れの日も嵐の日も臨終の時にも口ずさめる詩篇で、人生のどんな場面でも私たちを慰めてくれる詩篇です。主は私の羊飼い。羊飼いを愛し、羊飼いと共に生きていきましょう。

□あなたの日常生活の必要と、心の必要を満たして下さる主。
□試練と戦いの時、私は恐れません。

□いつくしみと恵みに感謝し、主について行きます。

2021年10月10日日曜日

詩篇22篇

 「わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」(1節)

「わが神、わが神」と二度も続けて神を呼んでいるのは22篇だけです。信仰深い人が深い苦悩に突き落とされたのです。神への信頼が強かったので、今の最悪状態が受け入れられません。「どうして」という言葉は、理由を尋ねながら、抗議をしているのです。

 3~8節では、イスラエルの歴史を振り返り、聖書の記述に目を向け、心を立て直そうとしました。先祖は奴隷状態から神に救っていただいた。でも自分は惨めで虫けらのように感じる。信仰さえ敵に笑われてしまった。

 9~10節において、自分が生まれた時のことを思い返して信仰を鼓舞しました。「生まれる前から私はあなたにゆだねられました。母の胎内にいたときからあなたは私の神です。」(10節)私は神に愛されて守られて来た。母の胎内にいた時から、神は私の神であったし今も主は助け出して下さると自分に言い聞かせました。

 11~21節では、敵からの攻撃を比喩的に描いています。「多くの雄牛が私を取り囲みバシャンの猛者どもが私を囲みました。彼らは私に向かって口を開けています。かみ裂く吼えたける獅子のように。」(12、13節)まるで、牛とライオンと野犬の群れに狙われているようでした。肉は裂け、骨は外れ、喉は乾き、瀕死の状態になりました。もうすぐ死ぬと判断され、敵は彼の服を分け合うためのくじ引きをしています。

 死を待つばかりとなり、主に叫びました。「主よあなたは離れないでください。私の力よ早く助けに来てください。救い出してください。私のたましいを剣から。私のただ一つのものを犬の手から。」(19~20節)

「あなたは私に答えてくださいました」(21節)という短い言葉が、神による救出があったことを教えてくれます。

なぜ私をお見捨てになったのですかという質問に、主はお答えになりませんでした。なぜでしょう。主は彼を見捨てておられなかったのです。

 救い出されて、大勢の仲間に迎えられ、率先して神を賛美している様子が22~31節に書かれています。「大いなる会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は誓いを果たします。主を恐れる人々の前で。」(25節)賛美は神から来るものなのです。

 神こそが本当の王なのです。素晴らしい主を世界中の人に知ってほしい。また、後の時代の人々にも知ってもらいたい。そして、神の義を知ってほしいのです。

 

 主イエスは十字架の上で、この22篇の冒頭を引用されました。(マタイ27:46)普段は「父よ」と祈る主イエスとしては、きわめて異例の祈り方でした。

22篇は救い主の苦難を予告した詩篇だったのです。主イエスが十字架にかかった時、人々にののしられ、口が渇き、骨が外れ、兵士がくじ引きをしましたが、22篇の予告通りの事が起きました。

罪人が経験しなければならない神との決定的な分離を私たちの代わりに主は受けて下さいました。罪をあいまいにせずに処罰するという神の正義は主イエスの十字架の死において明らかにされました。22篇の結論が「主の義を告げ知らせます。主が義を行われたからです。」(31節)となっていたのはそのためなのです。


<今日のまとめ>

□神に捨てられたと思えても、捨てられていない。
□出エジプトの神。胎内にいたときからの神。◎◎◎◎◎

□賛美は神から来る。神を賛美し、神を伝えよう。

 

2021年10月3日日曜日

詩篇21篇

 戦いを前にして、王への激励ととりなしの祈りをささげたのが20篇でした。今日の21篇は、勝利した王の様子が描かれています。2節にあるように、王の願いはかなえられたのです。苦難の日は去ったのです。

「主よあなたの御力を王は喜びます。
あなたの御救いをどんなに楽しむことでしょう。

あなたは彼の心の望みをかなえ唇の願いを退けられません。」(1~2節)

 勝利したはずなのに、21篇には王と軍隊を迎える熱狂的な国民の姿はありません。王や兵士たちが自分の力を誇示する場面もありません。王が戦いの様子や勝因を雄弁に述べる言葉も皆無です。詩篇21篇にあるのは、神の力をひたすら喜び楽しんでいる王の姿です。(1~2節)王は礼拝者です。真の勝者は主なる神なのです。

 勝利した時、リーダーは神をたたえよ。それが詩篇21篇の中心の教えです。

 勝利した王は、神から様々な祝福をもらいました。純金の王冠をもらいました。(3節)命を狙われていましたが、とこしえの命を約束されました。(4節)威厳と威光を主からもらいました。(5節)とこしえの祝福をもらいました。(6節)

 王に与えられた祝福が極めて永遠性が強いので、21篇は王としての主イエスを預言する詩篇と考えることもできます。ピリピ2:8~9のように、十字架の死に従われた主イエスがすべての名にまさる名を受けて高く上げられる場面をイメージしているのかもしれません。

 勝因は何でしょう。戦車や馬などの武力ではなく、主に信頼したから勝てたのです。「王は主に信頼しているのでいと高き方の恵みにあって揺るぎません。」(7節)7~12節で戦いの様子が描かれていますが、神の御手によって勝利したことが分かります。今後も主が主の敵を滅ぼすことが約束されています。

 試験に合格した、良い仕事に就いた、結婚できた、新築の家が完成した、子供が生まれた、病気だったけど退院できた、裁判が終わった、そんな時に21篇を思い出して下さい。ダビデは神を喜び礼拝し踊るような様子でした。私たちも勝利した時、神を純粋にたたえましょう。

その王の姿を見つめているのはダビデ王に近い人物で、王を励まし、王のために祈った人です。実際に戦場で戦う人と、とりなしの祈りをする人がいて、二人の友情が二人の信仰を強めていきます。

国のリーダーが、勝利を下さった主を喜び賛美をささげているので、国民も主を賛美します。このような指導者のいる国は幸せです。家族の中で、職場で、ダビデのような人がいるなら、周囲の人々も礼拝者として整えられていきます。

「主よあなたの御力のゆえにあなたがあがめられますように。大いなる御力を私たちは歌いほめ歌います。」(13節)

<今日のまとめ>

□勝利した時は、神を喜び、神をたたえること
□礼拝するリーダーよ、起きよ!
□主を信頼した先にだけ勝利がある

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...