2024年1月28日日曜日

伝道者の書4章 三つ撚りの糸

 4章は、仕事についての考察です。伝道者の書1章3節で、労苦の意味についての発題がありましたが、そのテーマを掘り下げています。

「見た」という注意を喚起する言葉が、1、4、7、15節で繰り返されます。これは、著者が目撃した事実であり、ひいては社会のどこでも起きている現実だと言いたいのです。

1~3節:「見よ。虐げられている者たちの涙を。」(1節)あらゆる組織や職場や学校で、強い力を持つ者が弱い者を虐げています。そして、虐げは仕事の場面に如実に表れます。重労働、パワハラ、危険な仕事、安い賃金、サービス残業、派遣などの不安定雇用、女性が受ける不平等な給与体系。だから、虐げられて暮らすより、死んだほうが良いし、究極を言えば生まれなかったほうが良いと著者は語ります。(2~3節)
 あなたは今、虐げられていますか。

4~6節:ビジネスオーナー、部長や社長、先頭に立って働く人々の動機を深く見つめてみました。「それは人間同士のねたみにすぎない。」(4節)。競合他社を出し抜く事が仕事の目的です。結局はねたみが仕事の動機なので、最終的には自分が称賛されることを目指しています。だから、お客さんの満足や誰かの幸せや社会の進歩を願いません。勝ち残るために手段を選ばず、悪に手を染め、倫理観を投げ捨て、部下にノルマを押し付けて虐げることになります。あなたの仕事の動機は何ですか。

7~8節:働く人の心を解明してみましょう。「彼の一切の労苦には終わりがなく、その目は富を求めて飽くことがない。」(8節)仕事中毒になって休日も仕事を止められず、休むと不安になり、完璧を求めて突き進むので体も精神も疲れ果てます。それで、「私はだれのために労苦し」ているのか(8節)という根源的な問いすらできないほど仕事に追われてしまいます。
 あなたは仕事中毒ですか。仕事中毒を続けると、配偶者や家族が疲弊し、あなたから離れて行きます。気づくと皆が離れて行き孤独になってしまいます。(8節)残念なことに日本社会において、配偶者や子供を大切にしながら有意義な仕事をしているリーダーや知識人の姿があまりみられません。そこが問題なのです。

13~16節:「忠告を受け入れなくなった年老いた愚かな王」(13節)について書かれています。自分の仕事にしがみつき、若い者に任せられない者の悲哀が語られています。仕事も役割も次世代に上手にバトンタッチしてこそ優れた仕事人です。愚かな年老いた王は、若いリーダーにその座を奪われます。
 あなたは誰に仕事を譲りますか。 

虐げられた生活、ねたみが動機のビジネス、仕事中毒、手放さない王の姿が語られました。いずれもが空しく風を追うようなものです。ただ一つ、空しさのない仕事のあり方が語られています。

9~12節: 「一人なら打ち負かされても、二人なら立ち向かえる。三つ撚りの糸は簡単には切れない。」(12節)
 誰かのために仕事をする。それによってとても健康的な仕事になります。生きがいも生まれます。お客さんの幸せのために仕事をする。愛する妻のために仕事に励む。そういう人は一日の仕事を終えて、満足です。
 また、誰かと共に仕事をすることは素晴らしいことです。仕事を分担して働けます。それによって、働く分野を広げられるし、交代もできるし、弱った時に励ましてもらえます。

誰かのために、誰かと共に、生活し仕事をする。それは豊かな人生につながります。労働の空しさは飛び去ります。その二人が主を見上げて歩むなら、さらに素晴らしくなります。二人で力を合わせることは糸が二本の組み合わせではなく、主が中心にいて下さるので三つ撚りの糸になり強固になるのです。

「二人は一人よりまさっている。二人の労苦には、良い報いがあるからだ。」(9節)

□空しい労働にならないように動機を見つめよう。
 □誰かのために、誰かと共に、働こう。
 □三つ撚りの糸は強い。

2024年1月21日日曜日

伝道者の書3章 神のなさること 

  伝道者の書で一番有名な箇所を読んでいきます。

「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
 植えるのに時があり、植えた物を抜くのに時がある。
 殺すのに時があり、癒やすのに時がある。
 崩すのに時があり、建てるのに時がある。
 泣くのに時があり、笑うのに時がある。
 嘆くのに時があり、踊るのに時がある。
 石を投げ捨てるのに時があり、石を集めるのに時がある。
 抱擁するのに時があり、抱擁をやめるのに時がある。
 求めるのに時があり、あきらめるのに時がある。
 保つのに時があり、投げ捨てるのに時がある。
 裂くのに時があり、縫うのに時がある。
 黙っているのに時があり、話すのに時がある。
 愛するのに時があり、憎むのに時がある。
 戦いの時があり、平和の時がある。」(伝道者の書3:2~8)

人は自分の生まれる時も場所も選べません。そして、自分の死ぬタイミングも方法も選べません。若い人は家を建てる時に希望を持って設計しますが、年配者は実家の取り壊しに頭を悩ませます。色々と願いがあってあれもこれも欲しいという獲得の時期がありますが、あきらめたり投げ捨てたりする時も来ます。愛していたはずなのに、憎む日が来ることもあります。悲しみの涙にくれることがありますが、大きな喜びに満たされる時もあります。

「伝道者の書」の今までの流れなら、このような事柄を嘆き、人生は何と空しいことだと言うはずです。ところが違います。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行うみわざの始まりから終わりまでを見極めることができない。」(11節)

人間のコントロールを越えたタイミングで大事件が起きるのですが、空しいと嘆かずに、神のなさることの美しさに強く心を打たれています。

こうした洞察が生まれたのは「天の下」という視点です。「日の下」は伝道者の書で27回用いられますが、「天の下」は3回だけです。

「すべてのことには定まった時期があり、天の下のすべての営みに時がある。」(1節)

今までは「日の下」で行われる不条理、絶望、しいたげなどに言及して来ました。そこは、人間の罪と欲望の世界であり、神を忘れた現実です。「天の下」という表現を用いることにより、愛の神のご配慮を想定しています。生も死も、喜びも悲しみも、主の深いみこころの中で導かれていると考えるのです。

あなたは今、どんな時を迎えていますか。植える時ですか、抜く時ですか。裂く時ですか、縫う時ですか。涙の時ですか、笑顔の時ですか。

3章では「すべて」という言葉も目立ちます。人生のすべての事象を貫く真理があるはずだという探求心から「すべて」という言葉も10回ほど使われています。

すべてのことには時があるのです。神の温かく深いみこころに裏打ちされた時があるのです。人生で起こるすべての事を、静かな心で眺めてみましょう。

登山者が森の中を上り続ける時のように、物事の始まりと終わりを人は見極めることはできません。でも、見晴らしの良い場所に出ると来た道や頂上が見えます。天の下のすべての営みに時があるのです。神と共に歩む登山道には可憐な高山植物が咲くはずです。

「私の時は御手の中にあります」(詩編31:15)

 □神の時を静かに受け入れる
 □神のなさることは美しい

2024年1月14日日曜日

伝道者の書2章 神から離れて

 人間の労苦は益になるのか(伝道者の書1:3)。それが本書のテーマでした。2章においては、それを楽しさや幸福と言い換えて考察しました。
 1~8節では仕事の成功や資産の拡大や欲望の追求をしました。9~11節においては、世界一の知者になろうと試みました。12~23では財産を永遠に誰にも渡したくないと抵抗しました。24~26節は結論です。

 ソロモン王は、他人から狂気だ愚かだと言われても、「快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」(1節)とあらゆる道徳的な制限を取り払って欲しいものの獲得に没頭しました。

在位40年の間に彼は防衛拠点を築き、軍備を増強させ、城壁を築き、領土を広げ、経済を向上させました。(第一列王記9~10章)王としては立派ですが、国民は重税と過酷な労役で疲弊していました。

ソロモンは自分の家を建設するため13年をかけ(第一列王7:1)、シェバの女王はそれを見て「息が止まるばかり」に驚きました。(第一列王10:5)優秀な奴隷を買い取って働かせ、CDプレーヤーのように歌手に歌わせ、快楽のためにそばめを300人持ちました。(第一列王11:3)国民も奴隷もそばめも彼にとってはモノでした。

 成功、財産、権力、快楽を手に入れても、すべては空しいと彼は述べました。「見よ。すべては空しく、風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。」(伝道者の書2:11)

 12~17節での彼の試みは、並外れて賢い人間になることでした。膨大な知識を獲得し、深く考える人間になり悟りを広げるなら幸せになれると思い、勉強に励んだようです。けれども、その賢くなった頭脳で先が見えてしまいました。賢者も愚かな者も死ねば同じだと。「私は心の中で言った。『私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、なぜ、私は並外れて知恵ある者であったのか。』私は心の中で言った。『これもまた空しい』と。」(15節)

 大学教授になれるほど学問に打ち込み、人知れず勉強して専門家になっても、無学な庶民と同じように忘れられてしまうのは空しいと気づきました。(16節)

 18~23節では、努力して蓄えた金銀、豪邸などをずっと持っていたいのですが、死ねば息子たちに譲ることになる。愚かな後継者に譲ることは腹立たしいと思いました。(21節)

 

 ソロモンは長年にわたる壮大な実験の結果を述べました。財産や快楽を手に入れても空しい。けれども、自分の一日の労苦に満足し、普通の食事をして「おいしい」と喜べる道がある。

「人には、食べたり飲んだりして、自分の労苦に満足を見出すことよりほかに、何も良いことがない。そのようにすることもまた、神の御手によることであると分かった。実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。」(24~25節)

彼は、幸せはすぐそばにあることに気づきました。けれども、それは、神から離れる苦い経験をした後にやっと悟ったことなのかもしれません。

 「主はソロモンに怒りを発せられた。
  それは彼の心がイスラエルの神、主から離れたからである。」
 (第一列王記11:9)

 賢いソロモンにとって、2章に描かれた欲望追求の実験を披露する事は恥であり、みじめな経験になることは分かっていました。あえてこのように書き残したのは、ある種、彼の罪の告白なのかもしれません。私は誰よりも愚かであり、誰よりも罪多き者だと暗に言いたいのかもしれません。

 富と欲望を追求した時、正義やきよさは失われました。また、人を人として認識することができず人格的な交わりが消え、親切心や分け合う喜びや愛する心を無くしてしまいました。神から離れるとは、そのような結果をもたらすのです。

神から離れてはいけない。離れたら、すべてが空しくなる。神と共に歩むなら、仕事に達成感を覚え、いつもの食事をおいしく頂ける。身近な人と肩を寄せ合い、ささやかな幸せがどんなに貴重なのかを味合うことができるのです。

「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができるだろうか。」

□神から離れると、自分だけの幸福追求になり、空しくなる。
□神と共に生きるなら、すべてが感謝できる。

2024年1月7日日曜日

伝送者の書 1章

 「空の空。伝道者は言う。
 空の空。すべては空。
 日の下でどんなに労苦しても、
 それが人に何の益になるだろうか。」(伝道者の書1:2~3)

著者のソロモン王は、人間社会は空だと述べました。英語聖書では、Emptinessではなく meaningless と訳されています。人間の労苦は無益で、空しく、意味がないと感じられるがそれは本当だろうか。それを検証するのがこの書の目的です。

「般若心経」は七世紀から知られるようになりましたが、色即是空、空即是色と語っています。お釈迦様は紀元前500年頃の人ですが、伝道者の書はそれより500年古い時代のものです。

ソロモンは、領土を拡張し、絢爛豪華な宮殿と壮麗な神殿を建設し、軍備拡張、貿易振興、王国の絶頂期を指導したばかりか、その知識や知恵において抜きん出た賢帝でした。

あなたはどう考えますか。正直者が馬鹿をみる社会だと感じますか。差別を受けてきましたか。女性の賃金が男性より2030%低い日本社会をどうみますか。やるせない経験をしたことがありますか。

「地はいつまでも変わらない」(4節) 
 4~7節でソロモンは自然の営みに目を向けました。人は生まれ、人は死ぬ。時代が進んでも何も変わらない。日はまた昇り、日は沈む。風は吹いては元に戻る。川は流れ、海は満ちることがない。
 鴨長明の「方丈記」の冒頭、「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて久しく、とどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。」を思い出します。

「日の下には新しいものは一つもない。」(9節) 
 8~11節においては、人は新しいものを求め続けると語りました。けれども、本質的に新しいものは存在しないというのです。毎日の生活で起きたことは新しい歴史になっていくはずですが、時間の経過とともに忘れられてしまう。だから空しいものだとソロモンは考えました。

「すべては空しく、風を追うようなものだ。」(14節)
 ソロモンは、社会、世界、人生を真剣に見つめる作業に取り掛かりました。それはとてもつらいものだと述べています。

「知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうと心に決めた。」(17節)
 
ソロモンが用いた方法は良い知恵からも邪悪な動機からも物事をとらえ直す方法で、正面も裏も、善意も悪意も、あらゆる角度から検証することにしました。だから、とても心が疲弊する作業になりました。

自分の労苦が無益で空しいものならば、悪事を選ぶ人も出てきます。また、社会に失望して自暴自棄に陥る人もいるでしょう。

伝道者の書にはいくつかのキーワードが出てきますが、「日の下で」という言葉に注目して下さい。すべてを網羅した表現に見えますが、果たしてそうでしょうか。

15節には伝道者の書ならではの慰めの言葉があります。

「曲げられたものを、まっすぐにはできない。
 欠けているものを、数えることはできない。」(15節)

変えることのできるものを変える勇気を、変えられないものを受け入れる平静さを与えたまえ、というニーバーの祈りを彷彿させます。

不条理な世界を直視するところから伝道者の書は始まりました。たとえ残酷で空しい世界であっても、悪を選ばず、捨て鉢にならず、愛と誠実さを貫く生き方があるはずです。ご一緒にそれを見つけて行きましょう。

□不条理な社会が目の前に横たわっています
□私たちの労苦や誠実さは無駄になるのでしょうか
□「日の下」にとらわれない別の視点を教えて下さい

2024年1月1日月曜日

詩編48篇

  「高嶺のうるわしさは、全地の喜び」(詩編48:2)

 詩編48篇は、エルサレムがテーマの詩編です。
 神は大いなる方と語り始めますが、エルサレムは素晴らしいと続き、神とエルサレムが混然一体となっていきます。こうした描き方によって、エルサレムが何かに重なってきます。

1~8節が最初の段落です。まず神の偉大さをたたえています。その後で、エルサレムの町としての強さが言及されています。「北の端なるシオンの山は大王の都」(2節)エルサレムは東、南、西の三方向を谷に囲まれています。ソロモン王が都の北側に神殿を建設したため、こうした表現がなされたのでしょう。

外国の王たちが戦うためにやって来ても、エルサレムを見ただけで震えおののき、タルシシュ(スペイン)の無敵艦隊がやって来ても神が送る東風によって撃沈されると書いてあります。神は万軍の主であり、エルサレムは力ある神によって守られているのです。

 9~11節では、神の愛や神の正しさに目を向けました。「神よ、私たちはあなたの宮の中で、あなたの恵みを思いました。」(9節)エルサレム神殿で心を静めてみると、神の力だけでなく、神の愛、神の正義に目が向きます。神がシオンの山に神の恵みを注がれているので、人々に喜びと楽しみが生まれます。シオンはエルサレムの別名です。

 12~14節では、現在の神の守りに目を向けながら、神の守りが永遠に変わらないことを確認しています。
 「シオンを巡り、その周りを歩け。その塔を数えよ。」(12節)と言われています。エルサレムは美しく、かつ、城壁と櫓で囲まれた堅固で安全な町なのです。

「この方こそまさしく神。世々限りなくわれらの神。神は死を越えて私たちを導かれる。」(14節)

 神がエルサレムを永遠の住処として下さったように、主は私たちの内に住んで下さり、私たちの死の苦しみの瞬間も、死の先も、主は私たちと共にいて下さいます。何という大きな慰めでしょうか。

 エルサレムは、交通の要衝ではなく、貿易の中継地でもなく、大きな川も肥沃な大地の中にもありません。パレスチナの中央山地の一部で、死海の西側、標高750mほどの山の頂上で、ギホンの泉が唯一の水源でした。

 歴史的に言うと、ダビデがエルサレムを首都として選び、町を建設しました。「ダビデはこの要害に住み、これを『ダビデの町』と呼んだ。ダビデはその周りに城壁を、ミロから一周するまで築いた。」(第二サムエル5:9)

 ところが主がソロモンに語られた内容を見ると、エルサレムを選んだのは主であることが分かります。「ただ、エルサレムを選んでそこにわたしの名を置き、ダビデを選んでわたしの民イスラエルを立てた。」(第二歴代誌6:6)

 首都としての機能や力も無い町を主がご自分の町として選んで下さったのです。取るに足らない私たちを主が選んで救って下さったことと重なって見えます。(ヨハネ15:16)私たちが主イエスを選んだと思っていても、事実は逆で私たちが選ばれていました。

 エルサレムは「神の都」(1節)と呼ばれ、「大王の都」(2節)として神が住んで下さり、「万軍の主の都」(8節)と言われるように神の鉄壁の守りのある町になりました。

 詩編48篇では、神の偉大さが語られ、エルサレムの麗しさが述べられ、神の守りに触れています。エルサレムの姿は、私でありあなたであることに気がついてきます。神がエルサレムを選び、神がそこに住んで下さり、神が守って永遠に導いて下さるのです。

 一年間の主の守りを感謝し、主をたたえましょう。

 「主はあなたを守る方。主はあなたの右手をおおう陰。」(詩編121:5)

 □神は大いなる方で外的から守る方。
 □神は私たちを選び、私たちの中に住んで下さる方。

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...