2024年3月31日日曜日

おはようイースター マタイ28:1~10

 「イエスは死人の中からよみがえられました。」(マタイ28:7)

復活の主イエスに出会えたのは女性たちでした。

 男たち十二弟子は、主イエスを見捨てて逃げた自分を責めていたことでしょう。そしてドアをしめ切ってユダヤ当局者に逮捕されないように隠れていました。(ヨハネ20:19)エマオに向かっていた二人の信者の男も、主イエスが救ってくれるはずだったという失望感でつぶれていました。(ルカ24:21)男たちは全滅だったのです。

最後まで主イエスへの忠誠を示したのは女性の弟子たちでした。主イエスが十字架で処刑された時、「ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たち」(マタイ27:55)はそばで見守っていました。自分が逮捕される事など気にしていません。「その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母」(マタイ27:56)がいました。

この女性たちは主イエスが新しい墓に納められる様子を注意深く見守り、安息日が明けた朝に来て、きちんと香油をぬって最後のお別れをするつもりでした。その結果、イースターの朝、墓で御使いに会い、復活の主イエスに会ったのです。

マグダラのマリアはどんな人だったのでしょう。マタイ、マルコ、ヨハネの福音書では一切説明がないという事は(例外はルカ8:2~3)、マグダラのマリアが当時のクリスチャンたちに良く知られた女性の弟子であり、その信仰と献身は傑出していたという証拠だと私は考えます。

マリアは当時よくある女性の名前でした。それで、ガリラヤ湖西岸の町、マグダラ出身なのでそう呼ばれたのです。ヨハネの福音書11章に出て来るマリアは、ベタニヤのマリアとなります。

 

 御使いは女たちに言った。「あなたがたは、恐れることはありません。十字架につけられたイエスを捜しているのは分かっています。ここにはおられません。前から言っておられたとおり、よみがえられたのです。さあ、納められていた場所を見なさい。」(マタイ28:5~6)

 マリアたちは遺体に会いに来たのですが、主の御使いに出会い、主イエスの復活を知らされました。御使いが墓の蓋をころがしたのは、中が空っぽであることを示すためです。「イエスは死人の中からよみがえられました。」(7節)この言葉は、マリアたちの心に光を灯しました。女性たちは恐れと喜びの入り混じった心で墓を去り、走り出しました。

 すると見よ、イエスが「おはよう」と言って彼女たちの前に現れた。彼女たちは近寄ってその足を抱き、イエスを拝した。(マタイ28:9)

 おはようと言われた主イエスのお顔は笑顔に決まっています。マリアは悲しみの涙を喜びの涙に変えて、主イエスを拝したことでしょう。

最も悲しんだ人が最も大きな喜びに包まれるのです。香油を塗ってお別れするという、自分に今できることをする奉仕の姿勢が、復活の主イエスに出会う道を開きました。

今あなたは大きな悲しみの中にいますか。主イエスの喜びがあなたにありますように。大きな壁が目の前にありますか。主イエスを信頼し、あきらめずに自分にできることをしていきましょう。びくともしない重い墓石は主がどかして下さいます。

イースターおめでとうございます。主イエスは死人の中からよみがえられました。笑顔で私たちに「おはよう」と声をかけて下さいます。

 

□最も悲しんでいる人にイースターが来る
□死を打ち破る復活の力がある
□笑顔のイエスさまと会いましょう

2024年3月24日日曜日

伝道者の書11章  朝に種を蒔け

「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見出す。(伝道者の書11:1)

 11章に入って伝道者の書としては異例の展開になります。前向きな提案をしています。パンを水の上に投げよう。あなたの受けた分を数人に分けよう。未来に投資すれば、いつかその報いが戻ってくる。災いは避けられないので、いざという時のために保険をかけておけば災難が起きた時に助けになる。

あなたのパンとは何でしょう。
 何かの資格を取ったり、習い事をしたり、経験を積んだり、海外旅行することかもしれません。それらはきっと未来に役に立ちます。あなたの仕事に役立つことや、教会の奉仕で生かせることを身に付けましょう。運転免許を取るためにはお金と時間がかかりますが、一生を考えると価値のあることです。

「朝にあなたの種を蒔け。夕方にも手を休めてはいけない。あなたは、あれかこれかどちらが成功するのか、あるいは両方とも同じようにうまくいくのかを知らないのだから。」(6節)

 4節にあるように、天気を心配しすぎる人は種を蒔くタイミングを失ってしまいます。完全な天気など存在しないのです。朝早すぎるかなと思えても種を蒔いてみましょう。夕方で遅すぎるかなと思っても蒔いてみましょう。若すぎることもないし、年を取り過ぎることもありません。あれかこれか、あるいは両方がうまくいくこともあります。人生の最後に悔やむことは、やったことではなく、やらなかった事です。

 宗教改革者ルターの言葉として流布しているフレーズを紹介します。明日が世の終わりだとしても、私は今日リンゴの木を植える。

 あなたの種とは何でしょう。
 種というと福音の種が最初に心に浮かびます。後悔先に立たず。嫌われても伝えておきたいという人がいるなら、福音を伝えましょう。相手の心の天気を気にしていては時を逃します。

「若い男よ、若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたは、自分の思う道を、また自分の目の見るとおりに歩め。」(9節)

 朝日が昇る時、光自体が喜びと希望を与えてくれます。若さというものは確かに一時的で空しさを含みますが、希望に満ちた時期です。だから、若者を応援してあげましょう。若い時はエネルギーがありますが、折れやすく、失望しがちです。だから、「自分の思う道を歩め」と励ましてあげましょう。若い時ほど柔軟性と吸収力のある時期はありません。

不平等な社会、やがては死ぬ人間、曲がったものは戻せない生涯、愛する時もあり別れる時もある。それが分かると、多くの人は利己的になり、他人を踏みつけて欲望を追求し、刹那的になります。伝道者の提案はそれとはまったく違い、希望をもって進めというのです。

矛盾に満ちた社会とはかない命を知った上でもこんなに前向きになれるのは何故でしょう。それでも神がおられるという重大で根本的な前提があるからです。人間の分析や予測を超えた神のみわざがあるから種を蒔けるのです。

「あなたは、一切を行われる神のみわざを知らない。」(5節)

私たちは神のみわざを知りません。神の介入や奇跡も予想できないのです。だから前向きになれるのです。どんな時も未来に向けて種を蒔きましょう。若い人は思い切って自分の道を突き進みましょう。

 種を蒔くときの、不安な心も、祈りも、勇気も、決断も、実行も、そのすべてが神の目には尊いのです。

 □パンを投げよう、種を蒔こう
 □自分の思う道を悔いなく歩もう

2024年3月17日日曜日

伝道者の書10章 斧を研ぐ

 10章のテーマは愚かさです。

 伝道者の書には愚かさという言葉が30回ほど使われていますが、10章には8回も出てきます。伝道者の書の冒頭部分に「狂気と愚かさを知ろうと心に決めた」(伝道者の書1:17)とありましたが、それは死を見つめることによって生を考えるのと同じ発想なのです。愚かさを見つめることで本当の知恵を見出せます。愚かさが社会に与える悪い影響が分かれば、知恵が不平等な社会への光となることが分かります。

「死んだハエは、調香師の香油を臭くし、腐らせる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。」(伝道者の書10:1)

 死んだハエとは愚かさです。香水を作る過程で1匹のハエが混入して死んでしまえば、高価な香水は廃棄するしかありません。わずかな愚かさが社会全体を腐らせるのです。

「私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは、権力者から出る過失のようなもの。愚か者が非常に高い位につけられ…」(5~6節)

この記述は現代の政治腐敗を言い当てています。王や権力者は政治献金をする業者を優遇し、企業は大口の公共事業を受注し、手抜き工事をし、有害物質を認可してもらい危険な食品や薬や農薬を販売し大儲けします。こうした権力者の愚かさが国民を苦しめます。
 16節では、幼い王を担ぎ上げた悪賢い政府高官が暗躍し、私腹を肥やす様子が書かれています。20節では、独裁者が支配する国では寝室の中で語る政治批判でさえ調査され処罰を受ける危険が指摘されています。

愚かさとは何でしょう。理解力が足らないとか頭が悪いという意味ではありません。「ねたみ、ののしり、高慢、愚かさ」(マルコ7:22)とあるように、主イエスは人間の心から出て来る罪のリストの中に愚かさを含めています。パウロも「人を滅びと破滅に沈める、愚かで有害な多くの欲望」(第1テモテ6:9)と説明しています。

 殺人、盗み、姦淫などの罪は、どちらかというと衝動的で粗暴です。愚かさというのは、むしろ悪賢さを意味します。罪と分かって犯す確信犯で、知能犯です。自分の欲望を追求する邪悪な行動プロセスです。社会には愚かさが満ちています。本当の大悪党は隠れています。

 

では、知恵とは何でしょう。神のみこころと言えば分かりやすいです。愚かさの対局にあるのが知恵です。社会を潤し、不平等を解消し、人々が幸せに過ごすために役立つものです。

「斧が鈍くなったときは、刃を研がないならば、もっと力がいる。しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。」(10節)

鈍くなった刃を研ぐには時間がかかりますが、研いだならその後の作業は飛躍的に楽になります。

神のみこころを見つけるために考え、祈ることは心を研ぐことです。知恵を授かったら静かで強い確信をもって行動できます。9章から10章にかけて、知恵の素晴らしさが語られています。

「知恵は力にまさる」(916
「知恵のある者の静かなことば」(917
「知恵は武器にまさり」(918

 あなたの前にはどんな事柄が横渡っていますか。愚かになって自分の利益だけを求める事もできます。知恵を求め、知恵を実行するのは困難で勇気がいりますが、不平等で罪の多い社会を神の国にする働きに参加できます。パウロは言いました。「愚かにならないで、主のみこころがなんであるかを悟りなさい」(エペソ5:17)

□愚かさを捨て去ろう
□主のみこころを求め心を磨き知恵を得よう

2024年3月11日月曜日

伝道者の書9章  生きていくこと 

「日の下で行われることすべてのうちで最も悪いことは、同じ結末がすべての人に臨むということ。」(3節)

金持ちにも貧乏人にも、良い人にも悪い人にも、「同じ結末」が来ます。つまり誰にでも死が来るのです。考え方によっては、これはとても平等なことでもあります。

アレキサンダー大王は、20歳の若さで王となり、32歳になるまでの短期間にギリシアからインド、そしてエジプロに至る大帝国を作り上げました。まさに大王と呼ばれるにふさわしい偉人、ライオンのような人物です。けれども、すでに死んでしまっているので今では教科書の中の文字でしかありません。「生きている犬は死んだ獅子にまさるのだ。」(4節)という言葉は本当です。生きていることは、それだけで大きな価値があるのです。
 伝道者の書は、死について何度も考察しています。それは、日の下の世界において、命がとても尊いと考え、命を大切にすべきだという考えがあるからです。

「さあ、あなたのパンを楽しんで食べ、陽気にあなたのぶどう酒を飲め。神はすでに、あなたのわざを喜んでおられる。」(7節)

7節の言葉は、伝道者の書で何度も繰り返された内容です。2:25、3:13、5:18、9:7などを見ると、食べて飲むことは神の賜物であり、その中に幸せを感じられると述べています。

今回は一歩進んで、命令形になっています。神に感謝する心を持ちながら、食べて飲みそれを味わおうというのです。

7〜10節では四つのことが勧められています。①食べることを楽しむ(7節)、②身だしなみを楽しむ(8節)、③夫婦であることを楽しむ(9節)、④仕事を楽しむ(10節)。なぜ、そうするのかというと、7節にあるように、神があなたを受け入れ、あなたを喜んでおられるからです。あなたも私も神の喜びになっているのです。

私たちはつい自分にバツ印をつけがちですが、神は丸をつけて下さいます。二重丸、花丸をつけて下さって、神は私たちを喜んでおられるのです。だから、私たちも人生を肯定し、自分を受け入れ、他人を受け入れて歩めるのです。

 

「その町に、貧しい一人の知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を救った。しかし、だれもその貧しい人を記憶にとどめなかった。」(15節)

 14〜15節の話は唐突で、短く、あっという間に終わってしまいますが、妙に心に残る話です。大国の王が攻めて来て、ある町を包囲しました。貧しいが賢い人物が一人いて、彼は知恵を用いて町を救い出しました。しばらくは英雄のように評価されたでしょうが、残念なことにその人は忘れられてしまいます。

 私は、この小さな話を読んで、主イエスの十字架の死を連想しました。イエスさまの本来のイメージはイザヤ53章のしもべの姿です。誰にも目を留められず、正当な裁判も受けられず、むごたらしく十字架で死なれたお方です。そのお方の尊い犠牲によって私たちは罪から、滅びから救い出されました。

 立派なことが何一つできなくても、一人一人は生きているだけで尊いのです。あなたは死んだ獅子にまさるのです。私たちの全部を肯定してくださる神がおられるので、食事もおいしいし、仕事にも意味を感じられます。そして、私やあなたのためにイエスさまが十字架で死んで下さったので、罪と滅びの問題は解決しています。生かされていることを感謝しましょう。

 □生きている犬には価値がある
 □神に喜ばれているので、人生をエンジョイできる

2024年3月3日日曜日

伝道者の書8章  すべては神のみわざ 

「私の人生は」という言葉があったら、あなたはその後に何と書きますか。
また、「幸せな人とは」という文章の後には何を書きますか。
 あなたの書いた文章には、あなたの人生観、幸せ観が表れています。伝道者はその事をどうとらえているのでしょう。

「すべての営みには時とさばきがある。人に降りかかるわざわいは多い。何が起こるかを知っている者はいない。いつ起こるかを、だれも告げることはできない。」(67節)

神を信じているなら災いに遭うことはない。それは間違いです。
 洪水や地震や火事などの災害、骨折、交通事故、盗難、入院や手術を経験している人がいます。大事な日に電車が止まったり、車が故障したりして困った人もいます。どんな災いが起こるか、いつ起こるか、人は予測できません。そういう可能性があることを心のノートの隅にメモしておきましょう。

伝道者の持つ人生観は悲観的でありながら、光が感じられるものです。

「悪を百回行っても、罪人は長生きしている。しかし私は、神を恐れる者が神の御前で恐れ、幸せであることを知っている。悪しき者には幸せがない。その生涯を影のように長くすることはできない。彼らが神の御前で恐れないからだ。」(12~13節)

 人が作る社会を見ていると悪者が目立ちます。悪者が長生きし(12節)、悪者が正しい人が受ける称賛を奪っています。(14節)これは腹立たしい事柄です。ただし、こうした悪者がいる社会を見て自分が不幸になる必要はありません。カニが横に歩いている姿を見て自分が不幸せになる必要がないのと同じです。カニにまっすぐに歩けと言っても無駄なことです。私たちの幸せは周囲の人の歩み方によって決まるわけではないのです。

 

伝道者の書のキーワードは、<神を恐れる>ことです。
 不平等で問題の多い社会ですが、幸せな人が目に留まります。神を恐れる人です。神を敬い、神を信頼し、神の御心を受け入れ、神を礼拝し、神の主権を認め、神と共に歩んでいる人は、そのような社会に生きていても幸せでいられるのです。長生き、人の称賛、豊かな富、快楽などと無縁であっても、幸せでいられるのです。

 

「私が昼も夜も眠らずに知恵を知り、地上で行われる人の営みを見ようと心に決めたとき、すべては神のみわざであることが分かった。人は日の下で行われるみわざを見極めることはできない。」(16~17節)

人が作る社会では虐げが横行し不条理で混乱しています。解決の糸口や改善方法を簡単に見つけることはできません。人の営みを見極めようとして来た結果、人の作る社会を越えた大きなものに気がづきました。人生とは人間の罪や悪意や戦争や災いや死などの不幸のすべてを網羅したものですが、それを大きく包む<神のみわざ>があることが見えてきたのです。神の主権が分かってきたのです。ですから、人は、どんな環境であっても、神を恐れて生きることがとても大切なのです。

有名な「病者の祈り」を聞いたことがあるかもしれません。成功を神に願い、健康や富や称賛を求めて祈りましたが、むしろ、病気や貧しさや弱さを経験したという祈りです。多くの祈りはかなえられませんでしたが、すべての事を感謝する心が与えられていました。そして、謙虚にされ、神を信頼する心が与えられ、本当に願っていた事はすべてかなえられていたことに気づいて、私は最も祝福された者にされたと感謝する祈りです。

私たちは、ある意味宙ぶらりんな毎日を過ごし完結しない人生を送っています。そして不平等で混乱のある社会に生き、時折、災いも経験しますが、それでも神を恐れて生きるなら、あらゆることの中に神のみわざを見出し、感謝し、幸いな人生を送れるのです。

□人生には災いもある
□神を恐れる者は幸いを見出す
□すべてに神のみわざがある

ヨハネ20:1~18 ラボニ

 「だれかが墓から主を取って行きました。どこに主を置いたのか、私たちには分かりません。」(ヨハネ20:2)   マグダラとはガリラヤ湖西岸の町の名で、ティベリアの北にあります。マグダラのマリアは、ルカ8:2によると7つの悪霊を追い出して病気を癒してもらった人で、マタイ27...