2022年3月20日日曜日

エペソ1:3

 私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天上にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
(エペソ1:3)

 神への壮大な賛美の言葉が始まります。3~14節の原文は一つの文章で切れ目がありません。神をほめたたえると3節で述べた後も、6節、12節、14節でも「ほめたたえる」という言葉を繰り返しています。あふれるばかりの祝福を注いで下さった三位一体をたたえて礼拝をささげています。霊的祝福が具体的にどんなものかは4~14節で語られます。 


1、主イエスの父

 「父なる神」と言わずに「私たちの主イエス・キリストの父である神」と言っています。なぜでしょう。神の本当のお姿を私たちに解き明かされたのがイエスさまだからです。

 神は確かに偉大できよく完全なお方だけれど、恐ろしい方ではない、遠いお方ではない、わたしの父だとイエスさまは教えて下さいました。主イエスは、「わたしの父の家」「わたしの父のみこころ」などと福音書で35回も「わたしの父」と言われています。

律法学者はこの主イエスの言葉を聞いて冒涜だと激怒しました。

「アバ、父よ」(マルコ14:36)と幼児語で親しく呼びかけたこともありました。「わたしの父であり、あなたがたの父である方」(ヨハネ20:17)と言われ、イエスさまの父を私たち人間の父と呼んでよいのだと教えて下さいました。

 主イエスはたとえ話を使って、神が愛情深い父なのだと教えて下さいました。財産を使い果たし裸足で帰って来た放蕩息子を見つけて走り寄り、抱きしめた父(ルカ15:20)こそがまことの神だと示して下さったのです。

パウロは、主イエスの父を自分の父として礼拝し、心をこめて賛美しました。それは、主イエスが教えて下さった「主の祈り」の趣旨に沿ったことです。まず最初に父があがめられるように、父なる神の御名が聖なるものとされるよう祈りなさいと主イエスは教えて下さいました。

 私たちもパウロをまねて、私たちの主イエス・キリストの父なる神さまと呼びかけてみましょう。主イエスが親しみを感じておられた父なる神が、今、私の父となって下さった光栄をかみしめることができます。

 

2、祝福の神

聖書の神は、ひとことでいえば、祝福の神です。
 私たちに喜んで良きものを与えたいと神は願っておられるのです。

「天上にあるすべての霊的祝福」とありますが、天にあるとは神が持っておられると考えるとよいでしょう。祝福とは、人に分け与えることのできる最良のもので、人が最も必要としているものです。聖書全体では物質的祝福と霊的祝福の両方が語られています。

神は世界を創造されるとすぐに被造物と人間を祝福されました。(創世記1:22、28)子供が生まれることも、家畜が増えることも、穏やかで平和な日々も、健康や長寿も神が下さった祝福なのです。神はアブラハムを祝福し、その子孫、また地上のすべての部族に及ぶ祝福を約束されました。(創世記12:2~3)。

「主は私たちをみこころに留め、祝福してくださる。イスラエルの家を祝福し、アロンの家を祝福し、主を恐れる者を祝福してくださる。小さな者も大いなる者も。」(詩篇115:12~13)

新約聖書にも祝福の記述がたくさんあります。主イエスは子供たちを祝福されました。(マルコ10:16)5つのパンと二匹の魚を祝福して(マルコ6:41)人々に配られました。復活後に弟子たちと別れる時、「手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らから離れて行き、天に上げられた。」(ルカ24:50~51)という姿は印象的です。

「あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。」(第一ペテロ3:9)とありますが、その通りなのです。私たちは神からの祝福をしっかりと受け止め、味わい、喜び、神に感謝をお返しすべきなのです。

 「ほめたたえられますように」、「霊的祝福」、「祝福してくださいました」という言葉があります。この三つは原語では同じ種類の言葉で、ギリシア語でユーロギアといいます。パウロは意図的に同じ言葉を使って強調しました。ユーロギアは、神から人に向けられた時は「祝福」になり、人から神に向けた時は「賛美」と訳されています。

 神は喜びを持って私たちに祝福を与えて下さいました。人は喜びを持って神に感謝をささげます。ここに喜びのコミュニケーションが生まれます。私たちと私たちの父との交わりが太くされ、生き生きしたものになり、神と共にいる幸いを体感できるのです。

 □主イエスの父なる神は、私のお父さんです
□私たちは、祝福をいっぱいもらっています

□賛美して、きちんとお礼をしよう

2022年3月13日日曜日

エペソ1:2

 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、
 恵みと平安があなたがたにありますように。(エペソ1:2)
 

 
相手の幸せを願う手紙

当時の手紙の書式は、差出人の名を書き、宛先を書いたら、ギリシア語でカイレイン(挨拶)と書くことになっていました。日本でも「拝啓」と書きますが形式的なものですね。パウロは、通常の形式を廃して、カイレインではなくカリス(恵み)と書きました。

さらにエイレンエー(平安)も加えています。ヘブル語ならヘセドとシャロームになります。パウロは彼の手紙全部に同じ挨拶文を用いています。(ただし、愛弟子テモテに対してだけ「あわれみ」が付け加えられています)

パウロが相手の幸せを願って手紙を書いたことが挨拶文からも分かります。あなたも手紙やEメールを書く時、その人の幸せを願い、恵みと平安を祈ってから書いて下さい。詩篇41:1に「幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は」とありましたが、相手の幸せを願って手紙を書く人は幸いな人だと私は思います。


恵み

パウロは律法学者として旧約聖書に精通していたので、父なる神からの恵みがどれほど素晴らしいものか知っていたはずです。

 詩篇23:6には「私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みが私を追って来るでしょう」と書かれています。詩篇32:10では「主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる」、詩篇36:10でも「注いでください、あなたの恵みを、あなたを知る者に」とあります。すべての人は、父なる神から注がれる恵みが必要です。

今日の聖句を注意深く読んでみましょう。父なる神から恵みがあるようにではなく、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」の恵みとなっています。

 パウロが現役の律法学者だった頃、父なる神と誰かを同じレベルで並べて書くことは絶対にしませんでした。それは神への冒涜になるからです。けれども、復活されたイエスと出会ってからは、パウロはイエスさまが神であると知り、自分の主として仕えるようになりました。

パウロは、旧約聖書に書かれていた父なる神からの恵みを、主イエスと出会ってから実体験したのです。自分のような人殺し、罪人の頭、迫害者に対して主イエスは声をかけて下さった。私を愛し、赦し、使徒として遣わして下さった。驚くばかりの恵みを受けたのです。受けるに値しない者への過分な祝福を実際に受け取ったのです。だから、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから」の恵みがあるようにと祈っているのです。

律法学者当時のパウロなら、外国人であるエペソ人と自分を「私たち」とくくることは絶対にしません。異邦人は宗教的に汚れていると考えていたからです。けれども今は、同じ父を持つ子供同士、家族の一員として親しみを込めて「私たち」と言っています。神の恵みを知った人は心が広げられ、今まで嫌っていた人でさえ兄弟と呼べるのです。

 

平安

詩篇を読むと、戦いや悩みの最中に神が穏やかな心を与えて下さることに気づきます。「平安のうちに私は身を横たえ、すぐ眠りにつきます。主よ、あなただけが安らかに私を住まわせてくださいます。」(詩篇4:8)、「私は平安のうちに言った。『私は決して揺るがされない』」(詩篇30:6)。パウロは父なる神が下さる平安の意味を知っていました。

パウロは、実体験としても主イエスの平安を経験しました。コリントで困難に出会った夜(使徒18:9~10)、エルサレムで不利な裁判を受けた夜の牢獄で(使徒23:11)、主イエスに励まして頂き、平安に包まれました。「わたしはあなたがたに平安を残します」(ヨハネ14:27)と言われた主イエスの約束通りの平安でした。

あなたの上に父なる神と主イエス・キリストからの恵みがありますように。その恵みを周囲の人にも分けることができますように。

特に、心配ごとや困難の中にいる人に父なる神と主イエス・キリストから平安がありますように。

 □神と主イエスから、恵みと平安があるように

 □恵みを受けて、心が広げられますように

 □戦争と悲嘆と困難の場に主の平安があるように

2022年3月6日日曜日

エペソ1:1

神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、
キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。
(エペソ1:1)

 

 手紙の書き出しは今も昔も同じで、差出人が誰か、受取人が誰かを書くものです。パウロからエペソ教会へ。本来はそれで十分です。ところがパウロは、自分が誰か、受取人が誰かを独特のタッチで説明しました。

 パウロの名前についてひとこと説明しておきます。サウロは彼のヘブル名ですが、使徒13:9では「別名パウロ」と書かれています。第一回伝道旅行からはパウロとして表記されています。

 パウロは神のみこころによって使徒とされた事を自覚していました。また、手紙の受取人にも、使徒からの手紙として読んでほしいと願っていました。使徒という言葉は、使命を与えられ遣わされた者を意味します。主イエスはそうした目的をもって十二弟子を選び「使徒」と名付けられたのです。(マルコ3:14)

 ところでパウロは、自分が「使徒と呼ばれるに値しない者です」(第一コリント15:9)と本音をもらし、自分は「罪人のかしら」(第一テモテ1:15)であると生涯にわたり意識していました。神のみこころによって使徒とされた奇跡と感激と覚悟を忘れていないのです。

  パウロはタルソで生まれたベニヤミン族に属するユダヤ人で、律法を厳格に守るパリサイ派でクリスチャン迫害の中心人物でした。(使徒9:1~2)ところがダマスコ途上で復活の主イエスに出会い回心しました。

 「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか」と主イエスに言われてサウロは混乱して尋ねました。「主よ、あなたはどなたですか」(使徒9:4~5)サウロのすべての固定概念が崩れ去り、よみがえられた主イエスの確実性に気づき、主イエスを信じ従うことを決めました。

 ダマスコ在住のクリスチャン、アナニアはサウロを訪ねて主イエスからの使命を伝えるように言われました。サウロは主イエスの名を異邦人に伝える「選びの器」(使徒9:15)として召された人物で、いわば13番目の使徒になったのです。

 アナニアはサウロと初めて出会った瞬間、「兄弟サウロ」と親しく呼びかけました。主イエスと同じ視線にならなければ決して言えない言葉です。

 パウロはエペソのクリスチャンを手紙の冒頭で「聖徒」と呼びました。聖徒とはマザーテレサのような偉業を成し遂げた人のことではなく、キリストの十字架によって罪赦され、きよめられた人、普通のクリスチャンを指す呼び名なのです。アナニアもエルサレムのクリスチャンを「聖徒」(使徒9:13)と呼んでいます。キリストのまなざしを通して私たちの仲間を見ると聖徒であることに気づくのです。

 

 自分は誰なのか。
 私のアイデンティティーは何か。中学生や高校生は真剣に考え、青年たちも自分探しをし、ある人は仕事を止めて海外留学して自分を見つめます。子育てに忙殺され日々の暮らしに疲れ切った主婦も私は誰なのだろうと考えます。会社を退職して時間を持て余して私は誰だろうと考えます。どうしたら自分を見つけることができるのでしょう。

 神を見上げる時に本来の自分が見えてきます。神との関係がすっきりすると自分は自分で良いのだと納得できます。人生のX軸とY軸の原点を神として認識しましょう。神が私に望んでおられることを祈りながら理解しましょう。そうすれば自分の位置が分かります。

 あなたもパウロのように自己紹介することができます。どんな過去があっても、どんな弱さがあっても、あなたは神に愛されています。罪赦されて聖徒とされています。忠実な者と認められています。主から使命を頂いています。これから新しい方向性を示されるかもしれません。

 そんなふうに自分を認識できると、周囲にいる聖徒たちへのまなざしが優しくなります。この人たちも神の愛された人々、神のために歩む人々だと思えるのです。

□あなたは誰ですか?
□神の眼差しで自分を見ると私の姿が見えて来る

□キリストの目で周囲の人を見てみよう

2022年2月27日日曜日

詩篇41篇

 詩篇の第一巻は41篇で終了し、神をたたえて「アーメン、アーメン」で終わっています。幸いな人はどんな人か、という詩篇の中心テーマが今回も語られています。「弱っている者に心を配る人」が幸いな人なのです。

1、弱っている者に心を配る人

幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。
 わざわいの日に主はその人を助け出される。(1節)

4節以下で分かるように、ダビデは病気で苦しんでいました。自分を看病して支えてくれる人に感謝の気持ちが生まれたのでしょう。だからダビデは、「弱っている者に心を配る人」のために祈ったのです。また同時に、彼らこそが幸いな人であり、主が必ず彼らを守って下さるとの確信を持ちました。

あなたも今、誰かを助けているかもしれません。赤ちゃんの世話、受験生やスポーツ選手への応援、友達を励まし、精神的弱さを持つ人をサポートし、病人の世話を続け、身体に障がいを持つ人を助け、お年寄りの介護を引き受けている人がいます。誰かを助けているあなたは、幸いな人なのです。あなたの災いの日に主は必ず助けて下さいます。

そしてあなたは、いつも病人のそばにおられた主イエスの姿にいつの間にか似て来るのです。

2、病の床で苦しむダビデ

 私は申し上げます。「主よあわれんでください。
 私のたましいを癒やしてください。

 私はあなたの前に罪ある者ですから。」(4節)

 ダビデは弱っていました。病気で苦しみ、魂が病み、自分の犯した罪で苦しんでいました。その上、お見舞いに来た人の一部は、ダビデに回復の見込みは無く死ぬのは間近だと悪い噂を流しました。ダビデは親友にまで裏切られたのです。

息子アブシャロムによるクーデターが起きた時には多くの者がアブシャロムに付き、側近のアヒトフェルまでが裏切り、ダビデは苦悩しました。(第二サムエル15章)詩篇41篇の背景にはその種の出来事があったのでしょう。

主イエスは十字架を目前にして、詩篇41篇9節の「私が信頼した親しい友が私のパンを食べている者までが私に向かってかかとを上げます。」を引用され(ヨハネ13:18)、ダビデに起きたことがご自分にも成就したと言われました。私たちが経験する辛い出来事を主イエスもたどって下さるのです。


3、立ち上がらせて下さい

 しかし主よ。あなたは私をあわれみ立ち上がらせてください。
 そうすれば彼らに報いを返せます。(10節)

 人から見れば回復困難の病状でした。自力では立ち上がれないとダビデは悟ったので「立ち上がらせてください」(10節)と主にすがりました。この言葉は英語の聖書(NIV)では、raise me upと訳しています。有名な歌のフレーズにありますね。

ダビデが願ったのは、いつまでも主の前に立ち続けることでした。詩篇23篇6節の「私はいつまでも主の家に住まいます」と同じ心です。私はここにいます、あなたのみこころを行うことを喜びとしていますという、詩篇40:7~8と同じ姿勢が貫かれているのです。弱っている者に心を配る者は幸いです。そしてもう一つ、立ち上がらせて下さいと主に信頼する人もまた幸いな人なのです。

 □弱っている者に心を配る人は幸いです
□主は必ず、あなたを立ち上がらせて下さる

2022年2月20日日曜日

詩40編

 詩篇は「幸いなことよ」という言葉で始まり(詩篇1:1、2:12)、詩篇第一巻の最後を飾る40篇と41篇は「幸いなことよ」(詩篇40:4、41:1)で終わります。

 では、幸いな人とはどんな人なのでしょう。詩篇40篇によると、主に助けられたと気づく人、「私はここにいます」と言える人、主への信頼を止めない人のことです。

1、主に助けられたと気づく人(1~6節)

 ダビデは、「滅びの穴」や「泥沼」のような困難から自力で脱出できませんでした。主がそこから引き上げて下さいました。思わず賛美が出て来ましたが、その新しい歌も主が私の口に授けて下さったものだと気づきました。大切な真理を悟ることができたのも、主がダビデの耳を開いて下さったからだと分かりました。

 「幸いなことよ、主に信頼を置き」(4節)

 主に助けて頂いた、と気づく人は幸いなのです。

2、「私はここにいます」と主に言える人(7~10節)

そのとき私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」(7~8節)

 神が求めておられるのは大量のいけにえではない(6節。参考:ミカ書6:6~8)とダビデは理解していました。主が求めているのは私たちの自発的な献身姿勢なのです。英語聖書で7節は、「私はここにいます。私は来ました」と訳しています。少年サムエルが主の前に出た時の応答に良く似ています。(第一サムエル3:8)私をお使い下さいという態度です。

巻物とは律法を意味すると思われます。律法には神が私たちに望んでいる事柄、神のみこころが書いてあります。心を尽くして神を愛すという教えも、自分のように隣人を愛すという命令も律法の書に書かれてあります。(申命記6:5、レビ記19:18)ダビデは、私がすべき事が書いてあると理解したのです。その事を言い換えると、「あなたのみおしえは私の心のうちにあります」となるのです。

ローマ人への手紙12:1に、自分を主にささげることが真のいけにえであり、神のみこころを見分けて行うことが勘所だと書きましたが、まさにそれはダビデが理解し実行していた事だったのです。ダビデはみこころを行うことを喜んでいました。あなたはどうでしょう。

2、主への信頼を止めない人(11~17節)

 12節にあるように、人生においては二つの苦しみを避けられません。数多くのわざわいや試練がやって来る事と、自分の罪や咎で苦しむ事です。次から次へと戦いは襲ってきます。そんな時でも、主への信頼を止めてはいけません。神の助けを求めましょう。「主は大いなる方」(16節)と言える時が必ず来ます。

 神の義、神の恵みや愛、主のあわれみ、主の真実、主の助け。それは決してすたれることがないのです。

「主よみこころによって私を救い出してください。主よ、急いで私を助けてください。」(13節)

 □今、私はここに来ています。

 □主のみこころを行うことを喜びとして生きる

2022年2月13日日曜日

詩篇39篇

 39篇は「伝道者の書」を彷彿させます。詩篇の背景は38篇と同じ状況と思われ、罪の苦しさと病の辛さのゆえに哲学的で少し悲観的な雰囲気になっています。 

1、言えない苦しみ(1~3節)

 ダビデは悪者に苦しめられていました。反論すると悪口に拍車がかかり、自分が罪を犯す恐れがあったのでぐっとこらえて口を閉じました。人生には辛いことが多いとダビデは感じていました。

2、むなしい(4~6節)

 「主よお知らせください。私の終わり私の齢がどれだけなのか。私がいかにはかないかを知ることができるように。」(4節)

ダビデは辛い人生の終わりに目を向けました。何歳で、どんな形で死ぬのだろう。主は教えて下さらないと分かっていながら問いました。そうすれば覚悟ができるような気がしました。

あなたは何歳で死にたいですか。どんな死に方がいいですか。それが分かったら今の生き方が変わるでしょうか。今晩死ぬとしたら、やり残した事がありますか。

「手幅」(5節)とは手のひらの親指を除いた幅のことで、人生は手幅ほどに短く空しいとダビデは悟りました。お金や財産を集めても死ねば誰のものになるか分かりません。

3、懲らしめを受け入れる(8~11節)

人生が辛いのは、罪を犯してしまい、主の懲らしめを受けるからです。ダビデは自分の罪深さを自覚していましたから、主からの懲らしめを受け入れ、病気の苦しさに耐えながら主からの解決とあわれみを祈り求めました。

4、旅人(12~13節)

「主よ私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに耳を傾けてください。私の涙に黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人すべての先祖のように寄留の者なのです。」(12節)

ダビデは、聞いてください、助けて下さい、朗らかにして下さいと祈りました。

ダビデは30歳で王になり40年間王でした。(第二サムエル5:4)お金もあり、長寿に恵まれ、尊敬され、たくさんの友人もいました。けれども、自分の本質は旅人に過ぎないと感じました。旅が楽しいのは帰る家があるからです。帰る家を失い、旅から旅へと流れて行くなら難民です、寄留者です。ダビデは自分のはかない立場に気づきました。

「主よ今、私は何を待ち望みましょう。私の望みそれはあなたです。」(7節)

人生は辛く、短く、空しく、罪深いとダビデは感じました。でも、愛に満ちた神を待ち望むことにより希望や夢や力が湧いてきます。永遠の神につながっているなら、はかなさや短さではなく、生きがいや人生の価値の側面に目が向かいます。神を待ち望み、神と出会い、神の言葉を聞き、神と交わるなら、同じ旅人であっても「あなたとともにいる旅人」(12節)という自覚が生まれ、一人ではないという力強い励ましが与えられます。

「私が朗らかになれるようにしてください。」(13節)

→あなたの番です

 □人生は、辛く、空しく、罪深く、はかなく見える
 □私たちの望みは、主ご自身

2022年2月6日日曜日

詩篇38篇

 詩篇38篇は、罪がもたらす悲惨な結果と、その後の回復プロセスについて語っています。

1、罪は何をもたらすか?

 ①心と体にダメージを与える
 「あなたの矢が私に突き刺さり御手が私に激しく下りました。」(2節)

 罪を犯した後にやって来る罪意識とは不思議なものです。誰にも知られていないのに心が痛み不安になります。神が放った矢が罪意識なのだとダビデは気がづきました。矢は心を射抜くだけでなく、身体にまで影響を与え病気になることもあります。背負いきれない重荷となるのは、神の怒りを知らせる警告だからです。

 ②罪が悪臭を放つ
 「私の傷は悪臭を放って腐り果てました。それは私の愚かさのためです。」(5節)

 罪が解決されずに放置されると、傷が膿んで悪臭を放ちます。やがて本人だけでなく周囲も分かってきます。当人は平常心を失い、うなだれ、嘆き、落ち込みます。

 ③愛する人が離れて行く
 「愛する者や私の友も私の病を避けて立ち、近親の者でさえ遠く離れて立っています。」(11節)

 罪を知った愛する人や友人たちはあなたを嫌い離れていきます。伝染病のために隔離された状態に似ています。罪はあなたの欲望を一時的に満たしたとしても、必ず孤独を連れて来るのです。

 

2、罪からの回復のプロセス

①願いが純化される
 「主よ私の願いはすべてあなたの御前にあり」(9節)

 罪意識で苦しむと、何が本当に大切だったのかが分かります。罪を犯して何かを手に入れても空しかった。不正や暴力や邪悪な事をして誰かを傷つけても本当の解決にならなかった。ダビデは病気になっていたようですが、体の癒しすら求めていません。「私の罪のゆえ」(3節)「私の愚かさのため」(5節)と自分が原因だと分かっているので、主からの処罰として耐えていたのでしょう。ダビデは、自分の本当の願いが見えてきました。かけがえのない幸せを失って初めて気づいたのです。隠し事のない生活。ささやかな幸せ。当たりまえの日々。罪が赦されていること。神との穏やかな関係。愛する人との平和な交流などがどれほど大事かが分かったのです。

 ②主だけを待ち望む
 「まことに主よあなたを私は待ち望んでいます。」(15節) 

愛する人が離れ去ったり大衆に見捨てられたら、名誉回復と人々が戻って来ることを願うものです。けれども、ダビデは主との関係修復が最優先だと気づきました。

 ③自分の咎を言い表す
 「私は自分の咎を言い表します。」(18節)

私たちが罪を犯した後「私は悪くない」と何度も自分に言い聞かせませます。悪いのは自分でなく他人だ、社会だと言ったりします。罪からの回復で最も重要なポイントは、「私は悪くない」から「私が悪い」へと態度を変えることです。自分から言いましょう。犯した咎を神の前に言い表しましょう。

人々はあなたの罪のほんの一部を知っただけで去って行きますが、神はあなたの罪の全貌を知っても見捨てない方です。「わたしは決してあなたを見放さず、あなたを見捨てない。」(ヘブル13:5)

 □罪を犯すと神の矢が私を射抜き心と体を苦しめる
 □本当の願いを結晶化させ、主だけを待ち望もう

 □自分の咎を言い表そう

第二サムエル4:1~12 後ろ盾

 「サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。全イスラエルもおじ惑った。」(第二サムエル4:1)  サウルの息子で唯一残ったのがイシュ・ボシェテでした。将軍アブネルが彼を王として担ぎ上げたので体裁は整っていましたが、指導力も実績も知恵も人...