2023年4月5日水曜日

ルツ記2:8~16

 ルツ記2:8~9でボアズは自己紹介もせず、ルツの話も聞かずに、矢継ぎ早に指示を与えました。他の畑に行かずにここで働きなさい。女性たちの中で働くなら安全だと。

ボアズは、自分の気持ち、理由、目的を明かさず、プロセスも述べずに結論だけを話しました。男性によくあるコミュニケーション方法です。

彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」(ルツ記2:10)

 ボアズは答えた。「あなたの夫が亡くなってから、あなたが姑にしたこと、それに自分の父母や生まれた故郷を離れて、これまで知らなかった民のところに来たことについて、私は詳しく話を聞いています。主があなたのしたことに報いてくださるように。あなたがその翼の下に身を避けようとして来たイスラエルの神、主から、豊かな報いがあるように。(ルツ記2:11~12)

 ルツに問われてボアズは、彼女を援助する理由を話しました。彼はナオミの夫の親戚だったので、ルツについて「私は詳しく聞いています」と説明しました。ルツの親孝行、故郷と父母を捨てた犠牲、神を頼って生きる信仰姿勢を知っており、感動し、尊敬し、共感していたのです。

 ボアズは、ルツの隠れた親切と犠牲と信仰に関して、主から報いがあるようにと心から言ってくれました。主イエスもあなたの隠れた行動を知っておられます。「あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐を知っている」(黙示録2:19)

 神とは母鳥のようなもので、助けを求める者に大きな翼を広げて助けてくれるとボアズは語りました。彼の信仰がにじみ出ています。「瞳のように私を守り、御翼の陰にかくまってください。」(詩編17:8)

 彼女は言った。「ご主人様。私はあなたの好意を得たいと存じます。あなたは私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。私はあなたのしための一人にも及びませんのに。」(ルツ記2:13)

 ルツはボアズの話を聞いて納得し、申し出を受け入れました。「私を慰め、このはしための心に語りかけてくださいました。」とルツは言いました。ボアズがルツの隠れた行いを称賛してくれたことでとても慰められたのです。ルツの行動や信仰に深い共感を寄せてくれたことで、心が通い合い嬉しくなったのです。

 14~16節によると、ボアズはルツと心が通じ合ったことで嬉しくなり、食べ物を提供し、落穂の量を増やすように若い者に指示しました。

 結婚相手を探しているなら、心が通じる人を選びましょう。同じ神を見上げて、魂の深い部分で共感できる人がいいですね。投げたボールをしっかりキャッチしてくれて、気持ちよくボールを返してくれる人と結婚できたら幸せです。

 すでに結婚しているなら、相手の尊敬できるところをほめ、感謝し、愛して、助けて、二人が共に幸せになれるようにしてください。今からでもボアズとルツのようになれます。

□まことの神は親鳥のように翼を広げてあなたを守ってくださる。
□あなたの隠れた愛や献身や信仰や忍耐は、誰かに知られ、神に知られている。
□夫婦は互いに尊敬を表して愛を伝えましょう。

2023年3月26日日曜日

ルツ記2:1~7

 季節は春。大麦があたり一面に実り、収穫の時を迎えました。1章はナオミの物語でした。2章からはルツの物語になります。黄金に輝く畑の景色は、若い女性が苦境を乗り越え、素晴らしい男性と出会う前触れとなっています。

 「有力な親戚がいた。その人の名はボアズであった」(ルツ記2:1)

素敵な独身男性が登場します。名前はボアズ。ナオミの夫の親戚であり、畑を所有している地域の有力者でした。 

モアブの女ルツはナオミに言った。「畑に行かせてください。そして、親切にしてくれる人のうしろで落ち穂を拾い集めさせてください。」ナオミは「娘よ、行っておいで」と言った。(2節)

ルツは外国人であり、とても貧しい女性でした。2節と6節で、ルツがモアブ人であることが強調されています。律法には、「モアブ人は主の集会に加わってはならない」(申命記23:3)と書かれていましたが、ルツがナオミの神を信じて正式に改宗者として認定されていたのかもしれません。12節でも、ボアズはルツがまことの神を信じて助けを求めたことを既に知っていました。

ルツは、初めての土地で仕事をすることにしました。「畑に行かせてください」という発言にルツの勇気を感じます。また、ナオミを経済的に支えるという決意と愛を感じます。この言葉に励まされ就職活動をしようと考える人もいるかもしれません。

外国で働きに出ると想像するだけで私たちは足がすくみます。親切にしてくれる人を与えて下さい、良い畑に導いて下さいと、ルツは祈ったことでしょう。思い切って出かけて行って、ここが良いと決めて飛び込んだ畑が「はからずも」ボアズの畑でした。
 レビ記23:22に「収穫の落ち穂も集めてはならない。」と規定されています。落穂拾いは、貧しい人と寄留者に仕事と生活の糧を与える制度でした。

 ボアズはベツレヘムから自分の畑の様子を見に来て、畑で働く人々に挨拶しました。「主が、あなたがたとともにおられますように。」(4節)

このフレーズには聞き覚えがあります。ナオミも「主が」と言って、神の恵みを語っていました。挨拶の中で自然に主のお名前を出すところにボアズの信仰がにじみ出ています。働く人々もボアズに主の祝福を願う挨拶を返し、ボアズの信仰が良い形で浸透していることがうかがえ、農夫たちからも信頼されていることが分かります。

 ルツはもちろん晴れ着を着たり、お化粧などしていません。普段着で、汗をかいて仕事をし、顔にはほこりや泥もついていたかもしれません。「あれは誰の娘か」(5節)とボアズは作業責任者に尋ねました。ボアズは、畑で働く新顔の女性ルツに目を留めました。ルツはまだその視線に気づいていません。

彼女は『刈る人たちの後について、束のところで落ち穂を拾い集めさせてください』と言いました。ここに来て、朝から今までほとんど家で休みもせず、ずっと立ち働いています。」(7節)

 畑の作業責任者は、ルツが落ち穂拾いをさせてほしいと申し出た挨拶と熱心な労働態度についてボアズに報告しました。挨拶がきちんとできる人、誰が見ていなくても与えられた仕事に忠実な人。そういう人は結婚相手にふさわしい人です。

この日はルツにとって就職初日と言えます。ルツは畑の全体像も、働く人々の名前や個性も、仕事の手順も何も分からなかったはずです。教えられた役割を果たしながら、一生懸命に働きました。人を見ずに、主だけ見ていたと言っても良いでしょう。

 信仰が日常生活ににじみ出るボアズ。ナオミを支えるために主を頼りに仕事を探し、人の目ではなく主を見上げて誠実に働く人がルツでした。二人とも、神を見上げる人です。神を見上げる横顔の美しい人です。

ルツが働いた畑は「はからずも」(3節)ボアズの畑でした。ルツが働き始めた「ちょうどそのとき」(4節)ボアズは畑にやって来ました。主はあなたのために、タイミングを整えて下さいます。主を信頼して、新たなステップを踏み出しましょう。


 ☐主を見上げる横顔の美しい人になろう。
 ☐ボアズのように、日常生活に信仰を生かす人になろう。
 ☐ルツのように、主を見上げて職場を見つけ、挨拶をし、誠実に仕事をしよう。
 ☐神は「はからずも」「ちょうどそのとき」を演出して下さる方。

2023年3月19日日曜日

ルツ記1:19~22

 ナオミとルツはベツレヘムを目指して歩きました。死海は海抜マイナス400m、ベツレヘムは海抜800m。つまり1200m登ることになります。その上、エリコからの山道は強盗も出る危険な場所なので(ルカ10章)二人の絆は一層強くなったことでしょう。故郷ベツレヘムが見えた時、ナオミは安堵したはずです。

 二人は旅をして、ベツレヘムに着いた。彼女たちがベツレヘムに着くと、町中が二人のことで騒ぎ出し、女たちは「まあ、ナオミではありませんか」と言った。ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。(ルツ記1:1~20)

 主を見上げて歩いて来たナオミでしたが、町の人の態度の冷たさに心が折れてしまいました。

 ナオミという名前は、喜びや心地よさという意味です。日本語にすれば、幸子さんや良子さんという感じです。ナオミは、マラ(苦いという意味)と呼んでほしいと言い出し、落伍者自虐モードになってしまいました。

 何がナオミを変えたのでしょう。視線を神さまから町の人々に移してしまったので、みじめになったのです。女たちの噂、人々の態度や視線に関心を向けたので心が崩れてしまったのです。

 あなたは今、周囲の人々から注目を浴び、凝視されていると感じますか。心が弱っているとそう思えるだけで、実はそれほどあなたに関心があるわけではありません。自意識過剰なのです。目を主に向けましょう。上を向きましょう。

 私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」(21節)

 自暴自棄になったナオミは神を非難しました。どんな事でもおできになる神、全能者が、私を助けてくれなかった。夫が死に、二人の息子が死んだ。全能者が私を卑しい立場に突き落とされました。つらい目に合わせた。以前はたくさん持っていたのに、今では、すべてを失った。何もない。

 こうして、ナオミは帰って来た。モアブの野から戻った嫁、モアブの女ルツと一緒であった。ベツレヘムに着いたのは、大麦の刈り入れが始まったころであった。(22節)

 すべてを失ったとナオミは感じていました。22節の記述は、そうではないと言いたいのです。さらっと読むと、単なる要約に思えます。いいえ、違います。こんな時でも神の希望が注がれていると言いたいのです。

 すべてを失ったように見えて新しく手に入れたものがあったのです。ルツです。ナオミを尊敬し、愛し、どこまでもついて行くと献身を表明した、若くて情熱があって信仰に燃えているルツがナオミのヘルパーになったのです。ナオミはそれを忘れています。あなたの周囲にもルツがいますよ。探してください。

 もう一つ。帰って来た時期が素晴らしい。大麦の収穫が始まったときだったのです。飢饉は去り、豊かな実りが期待できました。希望が感じられるフレーズです。あなたの周りにも大麦の刈り入れが始まっています。気づいてください。

□人の目、人の態度に惑わされないこと
□落伍者自虐モードに入らないこと
□すべては失っていない、ルツが加わった
□収穫の季節が始まろうとしている

2023年3月14日火曜日

ルツ記1:15~18

嫁の一人、オルパは泣きながら実家に帰りました。けれどもルツはナオミにすがりついて離れません。ナオミは、帰りなさいと命じましたが、これで4回目になるので、(8、11、12、15節)ルツは、お母様を捨てて帰るように仕向けないで下さいと抗議しました。

 お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。(ルツ記1:16)

 実家に帰らないのは嫁の義務を果たすためではない。お母さんを尊敬しているから、お母さんが大好きで、お母さんに幸せになってほしいから、一緒にいたいからなのです。

 ルツの言葉は結婚式の誓いの言葉を連想させます。ナオミに対する約束だけでなく、17節から分かるように神に向けた約束でもあるのです。アメリカ版の結婚の誓いの言葉には「死が二人を分かつ時まで」という表現がありドキリとさせられますが、最も強い表現で結婚相手への愛を伝えいるのです。ルツも、あなたが死ぬところで私も死にますという強い愛と献身の姿勢を表わしています。

 夫婦のみなさん、結婚の誓いをもう一度思い出し、生涯それを実行しましょう。嫁や姑の立場の人ならば、ルツの愛の言葉やナオミの優しさから何かをつかんで下さい。

 

 もう一人の嫁オルパが帰った姿を見て、「自分の民とその神々のところに帰って行きました」(15節)とナオミは表現しました。モアブの女性は自分たちの神々を信じていたのです。けれどもルツは、ナオミの神が私の神になったと述べました。これは短いですが、完全なる信仰告白です。

 なぜ、ルツは聖書の神を信じるようになったのでしょう。ルツは、神の奇跡を何一つ経験していません。夫を失い悲しみの中にいたのです。神がいるなら何故こんなことになったのだと神を恨んでもおかしくありません。

ナオミに慰められたことが信仰をもつきっかけかもしれません。あるいは、ナオミの悲しむ姿を見たり、ナオミの日常生活を見て、尊敬できる人だと感じたのかもしれません。信頼できる人が信じている神を私も信じたいと思うことは、とても自然なことなのです。

 あなたが普通に生活しているだけで、誰かに神さまのことを伝えていることになります。成功したら神をあかしできると考えなくてもよいのです。人に良く見られようとメッキを塗るような生活態度には無理があり、続きません。信仰者にも喜びの日もあれば悲しみの日もあります。ありのままの姿が神を指し示しているのです。

 あなたへの永遠の誓いをしてくれたのは、あなたの配偶者だけではなく、もう一人います。イエスさまです。「あなたを見放さず、あなたを見捨てない」(ヘブル13:5)

 私たちを見放さない主イエスさまに感謝して、どこへでも行きます、何でもします、いつまでも一緒にいますと告白しましょう。

 ☐大切な人への約束を生涯にわたり果たしていきましょう
 ☐あなたの普段の姿が誰かに神を伝えています
 ☐信頼している人の信じている神は、私の神になる

2023年3月5日日曜日

ルツ記1:6~14

 ナオミは一人「後に残されました」。

 夫と二人の息子たちに先立たれたナオミは悲しみに暮れていたのです。1~5節には、神の名が一度も出て来ません。ナオミの祈りもありません。ところが、今日の箇所では雰囲気が変わります。ナオミの心に何が始まったのでしょう。

主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。(ルツ記1:6)

 主がパンを下さったと書かれています。普通なら、ユダ地方で飢饉が終わり収穫があったという一般情報だけが届きます。ただし、ベツレヘム付近のユダヤ人が神の御手を強く感じた場合にはその信仰が一緒に伝わってくる場合があり、それを聞いたナオミが励まされたのかもしれません。もう一つの可能性として、飢饉が終わったという一般情報を聞いたナオミが、主の御手を感じた場合も考えられます。飢饉が終わったという情報がナオミの心を明るくしました。

 主がパンを下さったと書かれてあります。「主」を主語にして物事を考えると、人生の見方が変わります。過去を振り返って「主が」という文章を作ってみましょう。自然に感謝の言葉になります。日常会話で「主が」という言葉を使うようになると、感謝の人になれます。

 7節をご覧ください。ナオミは異国の生活に区切りをつけて、家を整理しました。二人の嫁と一緒にベツレヘムを目指して旅立ったのです。ところが嫁たちの顔つきが暗くなり、足取りが遅くなるのをナオミは察知したようです。そうだ、嫁たちにはとってユダは外国。心細いことだろう。そこで、二人の嫁を解放してあげることにしました。実家に帰りなさい。再婚して新しい人生を始めなさいと伝えました。

 ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。(8~9節)

 8節と9節で、ナオミは「主が」という言葉を二回使っています。未来を意識したり、他の人を意識して「主が」と言う言葉を使うと、それは自然に祈りの言葉になります。主が必ずして下さるという期待、信仰告白になります。

 「主があなたたちに恵みを施してくださいますように」(8節)
 「主が~新しい夫の家で安らかに暮らせるように」(9節)

二人の嫁はナオミの言葉を聞いて泣きます。お姑さんとは離れませんと言ってくれました。けれども、若い二人の将来は長いのです。

11~13節は、義理の娘たちの幸福を願うナオミの気持ちがあふれています。姑の私が今晩再婚して息子を生んでも、育ってあなた方の夫になる日まで何年かかると思うの、年下の男の子なんて歌ってる場合じゃないの。ユーモアを織り交ぜながら、断固とした態度を示しました。

悲しみの中に閉じ込められていたナオミは、若い嫁たちの将来に気を使える人になっていました。年老いて一人で帰る心細さより、若い者の未来を優先できたのです。

 

あなたの番です。「主が」から始まる文章を作って下さい。

 過去のことを取り上げた人は感謝の言葉になっていますね。未来のことを考えた人は、主に信頼している人で、主が助けて下さると信じている人です。自分以外の誰かを想定して作った人は、とりなしの祈りをした人です。普段の生活でもっと「主が」と言える人になりましょう。
 ナオミは「主が」と言い始めることにより、暗闇から光の中に移り始めたのです。

☐日常生活でもっと「主が」と言おう。
☐若い誰かの未来を助けて応援してあげよう。

☐不透明な未来であっても、主を信頼して歩み始めよう。

2023年2月26日日曜日

ルツ記1:1~5

 ルツ記の舞台が始まりました。

 時代背景は紀元前1050年より古い時代で士師記の時代と重なります。

1節に目を留めましょう。主人公の名前を意図的に「ある人」としています。その「ある人」は、飢饉のために、妻と二人の息子を連れて移住しました。中央山地に位置するベツレヘムから、死海の東側のモアブに引っ越しました。

その人の名はエリメレク、妻の名はナオミ、二人の息子の名はマフロンとキルヨンで、ユダのベツレヘム出身のエフラテ人であった。彼らはモアブの野へ行き、そこにとどまった。(ルツ記1:2)

彼らはベツレヘム出身のエフラテ人でした。預言者ミカの言葉で「ベツレヘム、エフラテよ。」(ミカ5:2)とありますが、エフラテとはベツレヘムの古い名前、あるいは別名とされています。1節と2節でユダ族のベツレヘムが繰り返されていますが、これは、物語のラストへの伏線となっています。

するとナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。(3節)

頼りにしていた夫のエリメレクは死んでしまいました。成人した息子が二人いたので、外国生活もなんとか守られ、モアブ滞在は10年に及びました。

二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。彼らは約十年の間そこに住んだ。(4節)

二人の息子は現地の女性と結婚したのでナオミもほっとしたことでしょう。家族が一気に華やいだはずです。

するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。(5節)

幸せは束の間でした。二人の息子が次々と亡くなりました。伝染病だったのでしょうか。ルツ記はその死因は書きません。ナオミの涙すら記録しません。

ナオミは、人が遭遇する3つの悩みを全部経験したことになります。第一は自然災害。第二は環境の激変。第三は死別。

生きている限り自然災害は避けられません。飢餓、台風、地震、津波、洪水、土砂崩れ。コロナのような伝染病の広がりもあります。命を守るだけで精一杯でした。

 突然のリストラや会社の倒産、経験のない部署での仕事、見知らぬ地への転居、人間関係のもつれ、うつ病、などは大きなストレスになります。ナオミたちの経験した言語や文化への適応はつらいものです。自分が何者なのかというアイデンティー危機にも陥ります。

身近な者の死は悲しさと切なさで立ち上がれなくなります。歳をとるということは、誰かの死を必ず経験するという意味です。家族が減ることにより孤独が一層深まります。

「彼女と二人の息子が後に残された」(3節)
 「ナオミは二人の息子に先立たれて、後に残された。」(5節)

「後に残された」という言葉が繰り返されています。ナオミは、大切な家族を自分以外すべてを失い、異国でひとりぼっちになりました。他に誰もいないのです。

 劇場の幕があき、暗い舞台に一筋のライトが当たると、そこに涙にくれた女性がいる。それがルツ記の幕開けなのです。忘れないで下さい、舞台は始まったばかりなのです。

 人とは何でしょう。人生とは何でしょう。物事が順調な時には、自分は強い、自分はついていると感じます。けれども、自然災害や環境激変や死別死別を経験すると、人とは弱い存在だと気づきます。だから私たちには神が必要なのです。私たちは良い時も悪い時も、神に信頼して歩み続けましょう。

 「神のみわざに目を留めよ。神が曲げたものを誰がまっすぐにできるだろうか。順境の日には幸いを味わい、逆境の日には良く考えよ。」(伝道者の書7:13~14)

 ナオミの祈りや礼拝の姿が今日の箇所にはありません。ナオミの信仰の灯芯は消えそうだったのです。でもそれでは終わらない、神は共にいてくださる、幕は開いたばかりなのだと教えてくれるのがルツ記なのです。

 「いたんだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともなく」(イザヤ42:3)

 私たちは、自然災害や環境激変や死別を経験しながら生きていく
 逆境の日には主を頼りにして歩んでいこう
 幕が開くまで劇場の座席は暗いもの

2023年2月19日日曜日

創世記50:1~26

 ヨセフ物語は今日で完結します。
 家族は和解し、主の約束は実現しています。

ヨセフ物語の第一のテーマは家族の再生でした。父のえこひいきがヨセフを傲慢にさせ、それをねたんだ兄達がヨセフ殺害を企て、結果的にはヨセフは奴隷としてエジプトに売られました。父も含めてヨセフと兄たちがどう和解するかが語られてきました。
 第二のテーマは、共におられる神です。ヨセフがどんなに苦しんでも主が守りすべての事を益として下さいました。
 第三のテーマは神の祝福です。ヤコブの生き方がどんなに歪んでいても、ヨセフの兄たちが邪悪であっても、すさまじい飢饉が押し寄せて来ても、神の約束は確実に実現していきました。

今日の箇所、創世記50章は、ヤコブの死と埋葬、兄達への保護の約束、ヨセフの死と希望について書かれています。

ヤコブの遺言通りにマクペラの畑地の洞穴に葬りました。「息子たちは彼をカナンの地に運び、マクペラの畑地の洞穴に葬った。」(創世記50:13)

長寿を全うしたように見えるヤコブであっても、ヨセフは父の顔の上に崩れ落ちて泣きました。(1節)70日間の喪の期間が過ぎてから、ヨセフは父の遺言通りの埋葬を行いました。愛する人が亡くなったら、涙が枯れるまで悲しみましょう。葬儀と埋葬を通して新しい歩みを始める区切りとしましょう。

パレスチナの土地をヤコブの子孫に与えるという約束はまだ実現しておらず、アブラハムの買った埋葬のための畑地だけが彼らの土地でした。ヤコブがそこに葬られたいと遺言したのは神の約束の完全な成就を信じた信仰の表明だったのです。

 

ヨセフの兄弟たちは、自分たちの父が死んだのを見たとき、「ヨセフはわれわれを恨んで、われわれが彼に犯したすべての悪に対して、仕返しをするかもしれない」と言った。(創世記50:15)

父ヤコブの死をきっかけにヨセフが復讐するのではと兄達は恐れに捕らわれました。それで、父が兄達を赦すように遺言していたとヨセフに伝えました。(15~17節)

ヨセフはそれを聞いて泣きました。これは複雑な涙なのです。ヨセフが奴隷に売られたのが32年前のこと。兄達との再会して、「心を痛めたり自分を責めたりしないでください」(45:5)と兄達を赦してから17年もたっていました。復讐を恐れた兄達が不憫でした。ヨセフにとっての苦難の日々は過去になっていたのです。

あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。(創世記50:20)

ヨセフの言葉はパウロの手紙を思い出させてくれます。悪を善に変えて下さるお方が私たちの信じている神なのです。

神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)


この出来事から50年たった頃、今度は、ヨセフが臨終になり遺言を述べました。

ヨセフは兄弟たちに言った。「私は間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたがたを顧みて、あなたがたをこの地から、アブラハム、イサク、ヤコブに誓われた地へ上らせてくださいます。」(創世記50:24)

ヤコブの生き方を引き継いだヨセフは、神が約束を実現してくださると希望を持って亡くなりました。神は「必ず」約束の地に上らせて下さる。ユダヤ民族がかの地に移住する時には、私の遺骸も携え上ってほしいと語りました。

約400年後、出エジプトを果たした人々の列に、ヨセフの遺骸が担われていました。(出エジプト13:19)


☐愛する人の死は心ゆくまで悲しみましょう。
 ☐神がおられるので、悪は良い事に変えられます
 ☐神の約束は必ず実現する

 ☐死ぬ時も希望を抱いて死んでいける

第二サムエル4:1~12 後ろ盾

 「サウルの子イシュ・ボシェテは、アブネルがヘブロンで死んだことを聞いて、気力を失った。全イスラエルもおじ惑った。」(第二サムエル4:1)  サウルの息子で唯一残ったのがイシュ・ボシェテでした。将軍アブネルが彼を王として担ぎ上げたので体裁は整っていましたが、指導力も実績も知恵も人...